第5話「潤沢な森」

 緑豊かというには過度な成長を見せる植物達が、己の葉や幹で陽光を覆い隠す。

 夏の日差しを残す太陽から逃れた地面は昨晩の雨で湿っており、ぬかるみが足をからめとる。


 木陰によって一定の気温と濃い湿度が森の中を緩慢と歩くミカにまとわりつく。その顔に表情はない。それでも目線をある一点に絞ったまま歩いている。

 ただし速度はぬかるみの上を跳ねまわる蛙よりも遅いものだ。


 当然ながら少し離れた位置の溜池から全力疾走してきたヤーとハクタに首根っこを掴まれて動きを止めるしかなかった。


 動きを止めたミカを確認してからヤーは四つん這いで息を乱し、ハクタは顎から伝う汗を拭って肩の上下運動を鎮めようとする。無機質な瞳で二人を眺めているミカは輝く金髪を風に任せて揺らす。

 木陰の中にいても眩しいほどの金色である。


「こっんの、馬鹿王子がぁああああ!!」

「だからヤーはミカを王子と呼ぶのを止めろ。誰が聞いているかわからないんだぞ」

「大丈夫よ。さっきの精霊術で森にいる気配はミカしかいなかったから」


 息が落ち着いたところでヤーは立ち上がって膝や手の平に付いた泥を落とす。

 落としながらもその泥を視て、動きを見せないミカに目を向ける。ヤーの目に動かないミカに対する苛立ちはもう無い。


 森の中は秋らしい気温で涼しく、木の葉が風で揺れて音をだすというのに生き物の気配は殆どない。ハクタも獣の気配がしないことに気付いたのか、周囲に気を張り巡らせて感じ取る。

 ミカよりも俊敏な動きを見せていた蛙はもうどこにもいない。二人が来たと同時に姿を草むらに消していた。


 近くに落ちていた木の棒をヤーは手に取り、三人がくつろげる範囲に文字を円状に書いていく。その文字は蛍の光と同じ淡い緑色を宿している。

 書き終わった際に棒を近くの草むらに投げたが、ハクタの耳には音が届かなかった。


「遮音精霊術。アタシ達の声はこの円の外には聞こえない、代わりにアタシ達も外の音は聞こえない」

「どうやって襲撃に備えるんだよ」

「そこはアンタの出番でしょ。護衛の騎士様」


 ヤーの当たり前と言わんばかりの横暴な返答にハクタは溜息を零しつつ、胡坐をかいて泥となった地面の上で集中する。

 耳と口だけはヤーに向けて、空気の震えや地面の振動を肌で感じ取ろうとしている。そのため余計な情報を遮断するため目を閉じる。


 ならうようにミカも地面の上に胡坐をかく。それを見届けてからヤーも座る。ただしあまり泥に触れるのが嫌なのか膝を抱えた座り方だ。


「ミカ。アンタの言う通り、原因は土ね。というか土の精霊」

「水の精霊じゃないのか?ここは精霊信仰は水で、なにより簡単に視て精霊は普通と同じとか言ってなかったか?」

「結論から言うと水の精霊も問題の一つだった、というのがアタシの見解。他と精霊が同じように視えたのは表面上の話よ」

「全くわからん」


 ヤーはこの目の前にいる馬鹿に対してどう噛み砕いて説明してやろうかという表情を向ける。

 しかし音の情報無しで気配を感じ取っているハクタは瞼を閉じており、その表情を見ることはない。ただしヤーが嫌そうな顔をしているな、というのは気付いていた。


 咳払いを一つしてからヤーは長くなるわよと付け加えて、話し始めた。



 アタシも最初は水の精霊が原因だと思ったわよ。地域で信仰されている精霊の力が強くなるのは当たり前だし、影響を及ぼすのも大体は信仰精霊だからね。

 水の精霊がなにかしらの暴走を起こして、水の巡りを悪くしていると思った。でもそれだと溜池の十分な水量や昨晩の大雨の説明が上手くいかないのよ。


 それなら他の原因かと思ったけど空気中に視た精霊達はなんの異変もない。精霊以外の力が働いていると思ったわ。

 ただミカの言葉が気になった。土、って単語一つだけだけど、天才であるアタシには広い視野が用意されているから充分だったわ。


 なにより国殺しの病、人体に入った火の精霊の動きが視える男の言葉なら、単語以上の意味があると思ったわけだけど。

 ミカはアタシよりも視える才能がある。つまり天才であるアタシが表面より内部は見れないのに対し、ミカは内部まで見るということ。


 そこで今日は溜池と畑の土を調べたのよ。そしたら一目瞭然の違いね、驚いたわ。


 掘り返された土の中には全くと言っていいほど土の精霊を宿していなかった。反面、溜池の中には異常と言えるほどの水の精霊。

 正直に言えばあの土でまだ問題がこんな小規模なのに驚愕したわ。精霊のいない土は砂漠になるものなのに、畑を耕す余裕があるんだもの。


 で、なんでまだこんな小規模で済んでいて、誰も原因に気付けず、表面上精霊は普通に視えたか。その答えがこのヘタ村の精霊信仰にあるってわけ。

 この村の精霊信仰は厚く、またお供え物も十分すぎる量。水の精霊達、というよりは格上の妖精や聖獣が手を尽くしたのでしょうね。


 ここ最近の大雨はまさしく精霊達が土を潤そうと手段を講じた結果よ。雨粒には通常よりも多く精霊を含ませたのでしょうね。だから溜池には尋常じゃない量の水の精霊が宿っていた。

 そのおかげでこの村の土は砂漠になるのをわずかに遅らせているの。


 問題は地中に土の精霊がいないため、どんなに潤しても地下水に流れたり、乾いたりしてしまうため、遅らせる、という結果になっているわけだけど。


 土の精霊は豊富な栄養分や水分を地中に溜めとく働きをするの。他にも水を吸い込んで泥として機能させたりね。泥っていうのも実は馬鹿に出来ないのよ。汚れるけど。

 泥と砂、石ころの働きで浄水することもできるから。それも土の精霊がいないと意味を為さないけど。


 つまり水の精霊が働いたことで逆に土の精霊の異常に気付けなかった。根本解決には土の精霊、問題をややこしくしたのは水の精霊、ってところね。




 話を黙って聞いていたハクタは話し疲れて一息つくヤーの呼吸のタイミングに合わせて声をかける。


「待て。ならどうして森はこんなに潤っている?」


 三人が座る地面はぬかるみと言っていいほど水分を含んだ泥である。ヤーの話通りだとすれば森の地面には土の精霊が多く含まれているということだ。

 そして森はヘタ村のすぐ傍にあり、肥沃な土地のおかげで今では鬱陶しいほど緑が生い茂っている場所でもある。


 ヤーはやはりそう来たかと予想していた疑問に対し、間髪入れずに答えた。


「それはこの森に仕掛けがあるからでしょうね。アタシにはまだ視えてないけど……ミカ、アンタがその状態で森に入ったのは偶然ではないでしょう?」


 返事が来ないとわかっているがヤーはミカに声をかける。ハクタは反応が気になって片目だけ薄目にして様子を窺う。


 そしてミカは、本当にわずかながらも、自分の意思で頷いた。


 相変わらずの感情が宿らない表情だが、それでも意思によって筋肉を動かした行動だ。ただしそれ以上の動きや言葉はなかった。ヤーは仕方ないかと慣れてきた動作で溜息をつく。

 ハクタはわずかでもミカが自分の意思で動いたことに薄く笑う。しかしすぐに気を引き締めて周囲に気を配る。村人は森に近づかないのか気配は全くない。

 それはハクタが自分一人でヤーとミカを守らなくてはいけない状況ということだ。ヤーも気がかりなことが一つあり、そのためにハクタに別の話を振る。


「ハクタ、アンタは獣憑きってわかる?」


 初めて聞く単語に集中しているハクタは短く否定する。ヤーも一般向けではないことを承知していたので怒ることはない。

 ミカに目を向ければ輝く金髪が風に揺れている。それを視てから説明を始める。


「簡単に言うと魂の前世が聖獣だった人間のこと。アタシの見立てではミカは獣憑きね」

「前世が、聖獣?」

「ありふれた話じゃないわ。なんせ聖獣が死ぬなんて一大事、数百年に一度あるかないかだもの……でも、二十年前に二匹、死んでる」


 謎が多く、いまだに解明されてない月と太陽の聖獣による突然死。そして二匹の死から十五年後には太陽による干ばつが発生した。

 それは今から五年前の話であり、ミカが人形のように動きの少ない人間となった時期と重なる。


 ハクタはそこまで考えて思わず両の瞼を開けてミカを見る。ミカが今のようになった原因と思われる場所は、太陽の神殿。


「ミカは、太陽の聖獣を前世とした獣憑き、ということか!?」

「やっぱり。王子ということ、五年前の干ばつと王族が神殿を訪れたことによる問題解決の偶然は、こういうカラクリだったのね」


 謎が解けた名探偵のような勝ち誇った表情でヤーはハクタを見る。選択肢として月の聖獣を前世とした獣憑きというのもあったが、ヤーはそれを除外していた。

 昨晩の大雨、ミカは自分の意思で動いて歩いて廊下に立っていた。そして月の光に怯えていた。


 月の光は太陽の光を反射したもので、月の精霊だけでなくわずかに太陽の精霊も含まれる。あの時ヤーに視えたのは二つの精霊だった。二つの精霊が金色と銀色の輝きでミカに引き寄せられていた。

 強い魂に惹かれるのは精霊の習性である。精霊が二つであったためヤーはミカがどちらの精霊に怯えているのかわからなかった。

 そのため一晩、ここ数十年で起きた事件を整理して答えを出そうとした。


 そこで行き当たったのが五年前の干ばつ。王族による訪問で解決されたと国中が祭り騒ぎとなった事件だ。

 原因は太陽の聖獣が決まらなかったことだが、突然決まって事件が終わったという納得のいかない話でもある。


 ミカは王位継承権がないとはいえ王族の一人である。神殿への訪問は大規模であったため、そこにミカがいたとヤーはあたりをつけた。


 そして今のハクタが無意識に太陽の聖獣という単語が出たことにより、太陽の神殿にミカはいたと確信した。これによりもう一つの謎がわかったとヤーは内心ほくそ笑んだ。


「二十年前に死んだ太陽の聖獣、名をレオンハルト・サニー。その意識が実は覚醒しているんじゃないかとアタシは睨んでる」

「前世の記憶があるということか?」

「そんな簡単なことじゃないわ。聖獣の魂は強いから、獣憑きはどうしても影響されやすいの。ミカがアタシよりも視える才能があるのもおそらくそのせいね」

「元は聖獣だったから、普通じゃ視れない内部の精霊も視覚に捉えられる、ということか」

「ええ。ただ普通獣憑きは自分の意識を保ったまま人生を送る。こんな風に人形のようになった事例はない。というか、事例自体が少ないのだけど」


 ヤーは研究で調べていた獣憑きについて思い出していく。本当に事例は少なく、両の指で数えられるほどだ。滅多にない話なので記録が千年前のも当たり前という事例だ。


 ミカが獣憑きでヤーという天才少女に会えたのは奇跡に近い。


 ハクタはヤーの話の続きを待つ。その間も周囲に気を配っているが、気味が悪いほど生物の気配を感じ取らない。

 こんなにも緑豊かな森で生物が生息していない、という目の当たりにしている状況に鳥肌が立つほどである。


「だからこの話はアタシの予想。今、ミカの魂は半々の割合で意識がせめぎ合っている。だから意思のない人形のような動きになってる」

「せめぎ合っている?」

「太陽の聖獣レオンハルト・サニー。その意識が半分覚醒して、ミカの意識を邪魔をしている、ということ」


 ハクタが剣の柄を握っている手に力を込める。ミカが自分の意思で動かなくなって五年。まだ十歳の遊び盛りだった少年の五年だ。簡単に取り返しがつかないほど重い五年をハクタは見てきた。

 その原因がやっと掴めたのだ。だがハクタに手出しができる問題ではない。乱れそうになる集中をなんとか元に戻してヤーの言葉の続きを待つ。


「太陽の聖獣として動こうにもミカが、ミカとして動こうにも太陽の聖獣がいる感じね。だから動かない、というよりは動けない」

「解決法はないのか?」

「前例がないからなんとも。ただひっかかっているのは昨日と今日、ミカが少しでも自分の意思で動いていること」

「そういえば、そうだな」

「もしかして、太陽の聖獣の目的とミカの目的が一致しているから、動けるのかしら?どうな……」


 ミカが今なら返事できるかもしれないとヤーが声をかけようとした瞬間、ハクタが立ち上がって鞘から剣を抜く。


 抜身の刃をある一点に向け、遮音している円の外へと出る。ヤーは誰か来たのかと円の文字を消して立ち上がる。

 ミカはヤーの背中に庇われる状態で、緩慢な動きながらも立ち上がる。そしてハクタが見ている方向とは反対を視る。


 目玉を動かし、周囲の音に耳を傾けながらハクタは気配を掴みとろうとする。しかしわずかに感じた気配は霞のごとく消えてしまった。


「なんの気配?」

「わからん。ただ、近づいて来た、というよりは突然発生した気配だった」

「……どうもこの事件、一枚岩じゃなさそうね」


 これ以上は話せないと判断した二人はミカを連れて宿屋へと向かう。ミカが視ていた方向には気付いていない。

 しかし進歩したと、急ぐところだが慌ててはいけないと考えているヤー達にミカは何も言わない。


 二つの意識がせめぎ合う魂のせいで、言いたいことがあっても言えない、というのが正しいのだが。




 宿屋に帰ったヤーは早速一階の食堂で大量の食事を口に詰め込んでいた。ミカはその隣で必要最低限の動きでパンを食べている。


 ハクタは畑仕事帰りで集まった村民達の飲み比べに巻き込まれ、そして大きいサイズであるビールジョッキを片手に十杯目の名産ビールを飲み干した。

 村民達の数人は顔を真っ赤にして床に倒れており、テーブルの上には次のビールとつまみ、空のジョッキが無造作に並んでいた。


 涼しい顔をして十一杯目のビールを飲み干したハクタに対し、まだ意識のある酔っ払い達が称賛の拍手を送る。


 女主人が新しいつまみの皿を運びながら、程々にしなと注意する。しかしそんな小言も気にせずに村人達は次々にビールを飲み干していく。

 マリも女主人と一緒に忙しそうに空いた皿の回収や洗い物、テーブル拭きなどをこなしている。


 まだ酒が飲めないヤーとミカは賑やかなテーブルを眺めるだけである。酒臭いとヤーは顔を顰めるほどである。そして気まぐれにミカの顔を覗く。


 どうせいつもの無感情な表情で眺めているだけだろうと思っていたのだが、ヤーの予想は外れる。


 目尻を柔らかく下げてわずかに口角が上がっている。初対面の相手が見れば無表情にも見えただろう。しかしなんだかんだで一か月苛立ち紛れに見てきたヤーからすれば明確な笑み。


 思わず持っていたフォークを落としたヤーは慌てて、突然発生した胸の高鳴りを鎮めようと頭の中に計算式を思い浮かべる。

 落ちたフォークを回収しに来たマリはテーブルでヤーが口から無意識に零している難解な計算式に対し、何をしているのかと心配そうな表情を浮かべた。


 そしてハクタといえば十五杯目のビールを皮切りに、これ以上は仕事に差し支えると一言だけ残して飲むのを止めた。誰もそれ以上は飲めと言わなかった。

 なぜなら飲み比べしていた村人達全員が酔いが回って動けない状態まで追い詰められていたのだ。村一番の酒豪でさえ口の端から涎を零してテーブルに突っ伏す程である。ハクタは素面のまま残っていたつまみを平らげる。


 女主人は呆れ顔で村人達を目が覚めるまで放置することを決め、ハクタ達にはそろそろ就寝したらどうだと声をかける。


「マリもこんな酔っ払い達を放っておいて、もう帰りな。今日も夜は大雨だろうからね」

「あ、はい。では明日の朝食メモ持って行きますね」


 片付けに追われていたマリは女主人の気遣いに素直に応じ、頭に着けていた三角巾やエプロンを外して帰り支度を始める。

 外では暗雲が少しずつ多くなっており、遠くから雷鳴が重低音の轟きを響かせている。


 宿屋の部屋は開いているため、村人達も雨が降る前には帰るだろうが、目覚めなかったら宿泊させるのだろう。


 マリは一礼して裏口から帰る。その様子を見届けてからヤーは女主人に尋ねる。


「大浴場借りた日って、マリは宿屋に泊まってた?」

「いいや。泊まっていってもいいとは言ったんだけど、帰る家があるからとか言っちゃってねぇ。律儀な良い子だよ」


 笑ってマリを褒める女主人に対し、ヤーはどこか警戒する目を裏口に向けていた。ハクタもヤーの様子に気付き、先に二階に行くと一言置いてミカを連れて歩いていく。


 ミカは階段を途中まで上がったところで、今までは考えられないほどの俊敏な動作で宿屋の裏手にある森に顔を向けた。

 その動きに驚いたハクタも思わずミカが視ている方向に目を向けるが、そこにあるのは階段を支える壁だけだ。しかし壁の向こう側には森が広がっている。


 地面を震わせる雷が近づいてくる中、ハクタは守ると決めたミカの手を強く握る。大きな変化がやってくる予感に身を震わせた。



 部屋にあるベットの上にミカを座らせてから、ハクタは椅子の方に座る。そして数分後には階段を駆け上がってくる足音。

 ノックも遠慮もなしにヤーが当たり前のように男二人の部屋に入ってくる。ハクタは淑女としてどうなのだろうかと思いつつ、何も言わずに受け入れた。


 ハクタの対面にある椅子に座ったヤーは足を組むが、片足は貧乏ゆすりで揺れている。見ていて気持ちのいい動作ではない。なにより貧乏ゆすりの本人が嫌そうな顔を浮かべている。


「ハクタ、アンタは昨日の大雨の中、寝間着姿で全く濡れず汚れずで村の中歩ける?」

「どう考えても無理だろう」

「……昨日の雨の時、アタシとミカは宿屋で寝間着姿のマリに会っている」


 少し間を置いてから小さな声で呟いたヤーの言葉にハクタは目を見開く。そしてヤーが不機嫌そうな理由にもやっと思い当った。

 ハクタが女主人から聞いた話を告げてからヤーはずっと不機嫌だった。考え事をするように何も言わなかった時も多くあった。

 怪しいと思いつつ村の異変やミカのことを先に話してくれたのは、彼女なりの優しさか仕事への義務感だったかもしれない。


 話を聞いていけばマリは三つ編みを解いた寝間着姿で現れ、なにかあったら下で飲み物をサービスすると言ったらしい。

 異変を全く感じさせない出で立ちだったから、ヤーもハクタの話を聞くまでマリは住み込みか女主人の親戚かと考えていたらしい。


 ハクタは宿屋に不審人物が簡単に出入りしている状況、そして気付けなかった自分に対して舌打ちする。


「アタシ、明日マリにどこから来たか問い詰めようと思う」

「俺も一緒に行くか?」

「止めてよ。女同士の会話に無骨な男を挟むの」


 一応女という自覚はあったのかとハクタはヤーの日頃の行いを省みつつ、なにも言わなかった。

 しかし確かに女のはしくれ、もしくはでがらしであるヤーと二人きりならマリも油断してなにか重要なことを話すかもしれない。


 ヤー自体も研究者という職業の第一線で働いている人材、会話術も身に着けているだろうと計算する。


 今日はこれ以上の話し合いはせずに早く寝て英気を養おうと提案し、ヤーの背中を柔らかく押して部屋から追い出す。

 もし女主人に男二人の部屋に夜遅くまで滞在という最悪の妄想をされる類の状況を見られたら、翌日には村中に噂が広まる可能性もあるからだ。


 目立つことを避けたいハクタの思惑もヤーは理解しており、唇は尖らせていたが文句一つ言わずに出て行く。


 廊下の窓には強く叩きつける雨粒がハクタには見えていた。しかし急に窓に駆け寄ったヤーは別の物が視えていた。


「やっぱり、おかしい」

「どうした? 何が視えるっていうんだ?」

「精霊に似た……でも違う何かが視える。あんなの視たことない!!」


 昼間には確かに森にいた。その時は視えなかったし、感じなかった物。その正体が夜の雨の中でヤーがわずかに捉えた物だ。天才と言われた少女でさえ知らない未知。


 ハクタには雨に濡れる森しか見えない。ヤーの目には森の中から溢れ出ようとする濁った輝きを纏う霞が視えていた。


 精霊の光にも似ていたが、明滅を繰り返しており濁った印象を与えるそれを、ヤーは精霊とは思えなかった。


 廊下に出た二人の背中を追うようにゆっくりとミカが歩く。そして口を動かして言葉を発しようとした。

 しかし言葉が頭でまとまらないかのように、何度か開いては閉じてを繰り返してから俯く。そして二人に気付かれる前に部屋の中に戻り元のベットの位置に座る。


 ヤーはずっと凝視していたが、何も視えないハクタは途中で押し寄せてきた眠気に負けて部屋に戻る。倒れるようにハクタが眠りについたのを眺めて、ミカは少しの間を置いてから布団に潜り込む。

 その目には感情らしい感情は浮かんでいなかった。浮かべる前に二つの感情が混ざって対消滅していると言っていいかもしれない。

 雨の音が部屋まで響いてくるのに男二人の部屋は不気味なほど静けさを漂わせていた。

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