第17話 夜会 

 一人になって、ベッドに横になって、もう一時間が経過していた。ずっと寝付けないでいた。

 理久くんとの会話は、私の心の奥底をかき回してしまったようだ。

 理久くんが最後に言った、たくさんの死と出会った、という言葉が頭から離れなかった。


 私は今まで、目の前の死を忘れて生きてきた。いや、忘れたふりをしてきた。忘れるはずなんかないのに、こんなものはなんの意味もないことなんだと言い聞かせた。そうして、見てないふりをして、嘘を言って生きてきた。


 けれど、そのちっぽけな嘘は、理久くんの言葉で崩壊してしまった。

 そう、私は死と出会い、生きてきた。見ていないなんて嘘なんだ。そんな当たり前のことを、今更思い知った。


 頭の中を駆け巡っていく光景は、血で汚れているものばかり。


 私は溜息をついてベッドから起き上がり、廊下に出た。ふと窓の外を見ると、雨が降っていた。それは台風並みの風を伴っていて、窓をがたがたと揺らしていた。

 水を飲もうと思って大広間に行くと、中央の円卓から少し離れた場所にあるソファーで夜会が開かれていた。

 葛さんと史郎さんと真理さんが楽しそうにお酒を飲んでいた。


「おや、舞様じゃありませんか」

 葛さんが私に気づき

「私も今仕事が終わったんです。眠れないなら一緒に晩酌でもどうですか?」

 悪戯な笑みを浮かべて葛さんは言った。

「いいですね」私はソファに腰かけた。


「お二人も寝付けないんですか?」

「私はそもそも生活リズムが不規則なのよ。寝たいときに寝て、起きたいときに起きる。そして描きたいときに描きたいものを描く」


 そして飲みたいときに飲みたいものを飲んでいる真理さんの向かい側にいる史郎さんが、苦笑いを浮かべた。


「僕はまあ、仕事柄あまりお酒は飲めないのでね。今日くらいは、という感じです」

 史郎さんが持っているグラスにはウイスキーが入っていた。紳士のような史郎さんにとても似合っていた。

「舞さんは何がいいですか?」

 給仕室の扉に手をかけた史郎さんが振り返り、私に聞いてきた。私は笑顔ではっきりと答えた。

「黒霧島、水割りでお願いします」

 数分後、葛さんが食事を運ぶときに使っていたワゴンを押してやって来た。数えきれないほどのお酒と、きらきらと輝くグラスと、氷が山盛り入ったアイスペールを乗せていた。

「どうぞ」

 葛さんがお酒の入ったグラスをテーブルの前に置いた。私はお礼を言ってグラスを手に持った。

 ワインを格好良く持った史郎さんが私の隣に座り、ビールを持った葛さんは真理さんの隣に座った。


「さて、なにも祝うことはありませんが、乾杯しますか」

 私たちは史郎さんの呼びかけで静かにグラスをぶつけ合って乾杯した。飲んだお酒は私の喉を通り胃にたまって、幸せを体に染みこませた。


「明日は絵でも描こうかしら」

 真理さんがカクテルを見つめながら言うと、史郎さんはとても驚いた顔をした。私は何をそんなに驚いているんだろうと首を傾げた。


「大丈夫よ。描くのは庭の絵よ。死骸は描かないわ」

 真理さんは葛さんが新しく作ってくれたカクテルを飲みながら、にやりと笑った。

「ああ、そうですか」

 史郎さんは安堵の笑みを零した。


「し、死骸ですか……?」意図していなかった言葉に私も驚き、目を見開いて聞いてしまった。

「あら、ご存じない?私は死骸の絵を描く画家なのよ」

 堂々とした様子でそう言う真理さんを前に、私は言葉を失った。そんな私に、真理さんは試すような笑みを向けた。

「えっと、その・・・・」

 なんと言ったらいいのか分からず、私は言い淀んでしまった。失礼なことをしてしまっているという罪悪感が、私の心を覆った。

「気にしなくていいわよ。そんな気持の悪いものを描く人間を前にして、笑顔を保てる人間なんていないわ」

 ふうっと色っぽく息を吐きだしながら真理さんは言った。確かに気分は害したし、気色悪かった。でもそれならばなぜ、そんなものを描くのか。それに、自分で自分の作品を侮辱するほどのものを描くなんて少し不思議だ。

 でもその理由は、すぐに真理さんが教えてくれた。


「それでも描かないといけないのよ。描かなければ――死んでしまうもの」

 笑顔でそう言っていたが、言葉には重みがあった。それは嘘でも冗談でもないという、真実味があった。

「そういえば、あなた医者だったわね。何の先生なの?」

 真理さんが話題を変えようとすると、「私も気になります」と葛さんも乗った。

「まいったな。急にモテてしまった」

 史郎さんはそう言うとワインを飲んでから話してくれた。

「昔は脳外科だったんですけどね。今は緩和ケア科で働いています」

「緩和ケア?」

 聞き覚えのない言葉に驚いて私は聞き返した。


「それは患者さんに気を使った名前なのですよ。終末医療と言えば分かりますか?」

「末期がんとかの、もう手の施しようがない人が受ける医療ですよね」

 私が数少ない知識を使ってそう答えると、優しい笑みを返した。

「そうですね。でも僕に言わせれば、あれは人として死ぬための医療なんです」

「人として――死ぬ?」

「はい、そうです」

 葛さんが不思議そうに呟くと、史郎さんは即座に答えた。

「あなたは自分が後数日で必ず死ぬと宣告されたら、どうなると思いますか?」

 私と葛さんは突然の問いかけに戸惑っていただけだが、真理さんだけは真剣に考えて答えた。

「絵を描くわね、死ぬその瞬間まで。そして私の死体は火葬せずにそのまま地面に放置しといてって遺言を残すわ」

 真理さんがあまりにもすんなり答えたので、予想外のことに史郎さんは面を食らったようだった。


「まあ、あなたのように強い人間なら、最後まで自分を保っていられるでしょうけどね。普通の人には無理なんですよ。だから最後まで自分らしく生きさせてあげる。それが緩和ケアだと僕は思っています」

 史郎さんは溜息をつきワインを一気に飲み干した。

「がんによる体の痛みを薬で緩和し、心の痛みを言葉で緩和する。そうして、笑って最後を迎えてもらう。それが僕の仕事です」

 目の前の史郎さんが、私にはとても大きく見えた。自分にできないことを、史郎さんはやっている。それが羨ましくもあり、悔しくもあった。


「すいません。暗い話をしてしまいましたね」

「いいわよ。こちらのお嬢様にはもっと直接的に暗い話をされたし」

 真理さんが皮肉めいたことを言うと、葛さんはふふっと小さく笑った。

「箒ちゃんも礼儀正しいのに我儘ですから。でもそこがかわいいんです」

 葛さんはビールを美味しそうに飲みながら自身も涼し気に、でも可愛らしく微笑みながら言った。


 その後私も仕事のことを聞かれたが、話すのが恥ずかし過ぎたので出版社関係の仕事とだけ伝えた。本当はもう辞めてしまったのだが、それくらいの嘘なら許されると思った。

そして談笑も進み、お酒が回ってきたころ、気持ちが大きくなった私は真理さんに不躾な質問をしてしまった。


「どうして死骸の絵を描いているんですか?」

 私の唐突な質問に、真理さんはただ冷ややかな笑みを浮かべた。そして艶やかな唇をゆっくりと動かして話し始めた。

「世界はとても特別で素敵だと思わない?特に生き物は」

「昆虫はグロテスクです」

 葛さんは言いながらその姿を想像してしまったのか、不快感を露わにして指をわなわな動かしていた。私も虫は苦手だからそうなってしまう気持ちは分かった。


「でも昆虫は生物の中でも特異な生態を持っているわ。昆虫は太古の昔に宇宙からやってきたって大真面目に主張する研究者もいるくらいよ。つまり生物はオリジナリティを持っている。それこそが神様が与えたものだと人は言うわ。それこそが――魂の居場所だと」


 真理さんの声色はどこか刺々しく、反論する気を失せさせてしまうところがあった。きっと彼女がはっきりと自分の本心を語っているからだろう。剥き出しの心には私の戯言は意味をなさない。


「でも一皮むけば皆等しく醜い中身を持っている。筋肉と血と骨と内臓のみの有機物が人間であり、魂なんてものは無いのよ」

 そしてカクテルを美味しそうに一口含んで味わうように飲んだ後、言った。


「だから私は神様なんていないと思っている。魂がないのなら、私たちが死んだあと天国に行くのではなく、土に還るだけなのよ。それを伝えたいと、私は思っているの」


「だから死骸を描くのですか?」

「ええ、この世に特別なものなど存在しない。あるのはただの肉袋だけ、その証明の為に描くの。だから私も自分の絵を醜いと思っているのは確かよ」


 史郎さんの質問にも即答する真理さんは、潔く格好良い女そのものだった。きっと彼女の中では既に自分の何かが構築されつくしているのだろう。たとえ批判や圧倒的な力を持った反論さえも、ひらりとかわし平然と無視できるのだろう。彼女はその自分の中に構築された信念のみで、生きていくことが出来る。


 私はそれを羨ましいと思いながら、自分の持論の弱さに嫌悪感を抱いた。


「史郎さん、医者であるあなたはどう思うの?」

 史郎さんはまたしばし顎に手を当てて悩んでから言った。

「そうですね、僕はあなたの言う「醜い中身」を幾度となく目にしていますから、神様がいないという考えは理解できます。実際医者は死後の世界を信じていないものばかりですから。でも僕は――魂の存在は信じています」


 私は彼の意外な意見に驚いた。知的な雰囲気を醸し出している史郎さんが、非科学的なことを口にしたのが変だと思ったのだ。真理さんはすました顔でこちらを見ていたが、葛さんも少しびっくりしている様子だ。


「別に変なことは言っていませんよ。仕事のしすぎで頭がいかれているわけではないのでご安心を」

 私と葛さんの顔を見てそんなフォローを入れた史郎さんは、やっぱり紳士的でオカルトなことを言う人間には見えなかった。

「ではどうして?なぜ魂が存在していると主張するの?」

「主張というほどの意志は持っていませんよ。ただ、僕の中にある疑問がそう考えると解消されるというだけで」

「疑問とは、どんなものですか?」

 葛さんが恐る恐る聞いた。この二人の放つ緊迫感に動じているのはどうやら私だけではないらしい。


「彼女の言う通り、人間はただの肉袋です。それは多分彼女より私の方が理解している。だからこそ、そのただの肉袋が心を持ち、人格を構成し、生きているというのが不思議に思えてならない」

 私は自分の手のひらを眺め、内に広がる血管と、蠢く筋肉を想像しながら彼の言葉を聞いた。

「だから僕は霊魂の存在も死後の世界も信じないが、それでも魂だけは信じている。その人がその人らしくいられる何かは、言葉では表しきれない何かがあるのだと思う」

 真理さんは微笑を浮かべ、史郎さんを一瞥した。葛さんは思いがけない議論に巻き込まれてしまったことに動揺していた。


 私はと言うと、その二つの強い主張の中で、静かに自らの論理を感じていた。魂があろうとなかろうと、そこに意味なんてないのだという考えを噛み締めていた。

 私が縋るものはそれしかないからだ。それだけでしか私は救われない。


「舞さんはどう思いますか?」

 史郎さんが私に聞いた。それは冷ややかで、静かで、穏やかで、優しいものだった。けれど、どう思うのか聞かれても私には答えようがなかった。だからその優しい問いかけも、私には凶器だった。

 一瞬、迷った末に、心に浮かんだものを正直に伝えるしかないと思った。どう思われようと。


「どちらでも、死ねば同じことだと思います」


 私がそう答えると、真理さんは高らかに笑った。ひっくり返るんじゃないかと心配してしまうくらい体をよじらせながら笑う彼女は、女性の自分が見ても豪快で明るい魅力的な人に見えた。


 その後仕事や趣味その他もろもろの色んな話をして、お酒も進み皆が酔っ払ってきた頃、壁に掛けられた時計を見て史郎さんが言った。


「もう一時間近く経ってしまったようですから、楽しいですがここでお開きにしましょう」

 時計の針は深夜二時半を示していた。


 それを聞くと真理さんは「そうね」と言った。そして慣れているのだろう、スムーズな動作でソファの横に置いてあった車椅子に乗った。葛さんは赤くなった頬をぱちんと叩いて、空いたグラスをワゴンにのせて片づけを始めた。史郎さんが片づけを手伝い始めたので私もそれに加わろうとすると、葛さんにこっちは大丈夫だから真理さんを部屋まで送って欲しいと頼まれた。


 真理さんの方を見ると彼女は酔いすぎたのか眠ってしまっていた。その寝息は穏やかでとても死骸の絵を描く人間には見えなかった。

 私は車椅子を押して大広間を出た。酩酊しふわふわする視界の中で起こさないよう慎重に真理さんの部屋に向かった。


 部屋の前まで来ると真理さんは目を覚ましてしまった。眠そうに目を擦って辺りを見回している。

「あら、眠ってしまったかしら」

「はい、もうお部屋まで来ましたよ。中に入っていいですか?」

「大丈夫よ。迷惑をかけてしまったわね」

 私は扉を開けて真理さんの部屋に入った。部屋は絵の具の独特な匂いが充満していた。私は学生の頃嫌いだった美術の授業を思い出し、同時に犬のつもりで描いた絵を「かわいい猫だ」と評価した美術教師を殴りたい気持ちになった。


 部屋のレイアウトは私に与えられた部屋と同じだった。部屋の中央に置かれたベッドの横には、風景画があった。製作途中だと言っていたが、私の目にはどこが完成していないのか分からなかった。それほど彼女の絵は奇麗だった。

 ここまで奇麗な絵が描けるのに彼女は敢えて自分さえも醜いと思うものを描いている。そうまでして伝えたい意志が彼女にはある。そして私には自分を慰めるためだけの持論しかない。私はそれが悲しくてしょうがなかった。


「もう大丈夫よ。あとは自分でベッドまでいけるわ」

 物思いに耽っていると真理さんがそう言った。私はベッドのすぐ隣まで車椅子を移動させた。

「手を貸しますよ」

「大丈夫よ慣れているから」

 真理さんはまず両手をベッドについて腰を上げ、体を反転させてベッドに尻もちをついた。

「ふう」

「飲みすぎたならお水でも持ってきましょうか?」

「ううん、もう寝ちゃうわ」

 私は「おやすみなさい」と言って部屋を後にした。

 窓の外にはまだ雨が降っていた。雨の勢いは先ほどと変わらずやむ気配はなかった。

 ふと、こんな天気では、嫌なことが起きるのではと考えてしまった。嫌なことがあって、その時に雨が降っていると記憶に残りやすいから、そう思っただけなのだろう。しかし、なぜか今回に限っては、それだけではない気がした。


 私は頭を振って脳裏に浮かんだ嫌な予感を振り払った。

 大丈夫、大丈夫だ。


 けれど、必死にそう言い聞かせても私の頭は強情で安心は出来ない。

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