第7話 屋敷

 私は高所恐怖症というわけではない。だけどゴンドラに乗っている時、私は恐怖のあまり何度も呻き声を上げた。高所とはまた違った、ゴンドラの老朽化という恐怖が私を苦しめた。

 いつ落ちてもおかしくないくらい、ゴンドラは嫌な音を鳴らしていた。何度も走馬燈を見た。

けれどそれは、見る価値もない悲惨な走馬燈だった。


 十五分ほどでゴンドラは頂上に達した。乗っているときはそれどころじゃなかったので気づかなかったが、道中ずっと先生は私を見て笑っていたらしく、ゴンドラが停止してもしばらく笑い続けた。そう言えばゴンドラが妙に揺れていたのも先生のせいだった気がする。


「いやあ面白かった」


 私は人の不幸を面白がる卑劣な教師に腹を立て、無駄に大きな足音を立ててゴンドラから出た。久しぶりに地面に降り立った私は、さながら生まれたての小鹿のように腰と足を震わせていた。

 そしてその震えのエネルギーは二日酔いと相まって私の食道を通り、今にも吹き出しそうになっていた。端的に言うと吐きそうだった。


「吐くのでしたらそちらの木陰でお願いします」


 その声が先生のものではないことは分かったが、その正体が誰なのか確認する余裕などなく、私はなんとか声の主が指差した木陰に走り昨日の夜、食べ飲みしたものを全て吐き出した。

 もう私は乙女失格である。


「大丈夫ですか?」


 声の主は私の背後に立ち、私の背中を優しく擦りながらまた声をかけた。


「あ、はい・・。大丈夫です。すいませ・・ん」


 人の敷地に汚物を吐き出した非礼を詫びて、私はポケットにハンカチか何か入っていないか探ってみたが乙女失格の私の装備にはそんなものあるずもなかった。


「これどうぞ」


 声の主は私に真っ白なハンカチを差し出した。その時やっと私はその声の主の姿をしっかり視認することが出来た。その人はメイド服を着た麗しい女性だった。私が女で無ければ一目惚れ必至の容姿をしていた。しかし表情は冷たい無表情だった。


「お気になさらず。さあ使って下さい」


 私は手触りの良い高そうなハンカチを受け取り、汚物にまみれた口元を拭った。そして飲みかけの水を一気に飲み干し、口の中に広がる酸っぱいものを払拭した。


「ありがとうございます」


 吐くもの吐いてすっきりした私はゆっくり息を吐いて姿勢を正した。


「落ち着きましたか?ではどうぞ屋敷に入って休んでください」


 メイドさんに手を引かれ、私は屋敷に向かって歩きだした。先生も私達の後について歩いてくる。

 大きく重厚な木の扉をメイドさんは押し開けて、私を中に入れてくれた。


「あの、あなたが箒さんですか?」


 広い玄関で靴を脱ぎながら私はメイドさんに聞いた。


「いえ、私はこの屋敷の使用人兼保護者を務めている鳥籠葛というものです」


 聞いてから屋敷の主人がメイド服を着ているわけないか、と自分の馬鹿さに呆れた。


「私達を待っていてくれたのですか?」

「ええ、あのロープウェイが動き出したのはここから分かりますから」


 私がふと後ろを振り向くと、無人のロープウェイは動き出し、また下へと戻って行くのが見えた。

 私たちは玄関を通って大広間に案内された。


「今何かお飲み物をお持ちいたしますのでそちらに座ってお待ち下さい」


 大きな円卓には蝸牛の殻のような模様が彫られた凝ったデザインの木製椅子が、等間隔に七つ置かれていた。私と先生はその内の二つに並んで座り、渦巻きに背中を預けた。


「大丈夫かい?」


 今頃になって先生は私を心配しだした。


「もう大丈夫です」


 私が素っ気ない返事をし、大広間をきょろきょろと見まわした。


「立派な建物ですね」

「そうだね。建ってからかなり経つと聞いているが、綺麗に保存されているようだ」


 ロープウェイがバブルに買われたものということは、この屋敷もそれくらいの頃に買ったのだろうか。

 屋敷の中は西洋の雰囲気を持つ壁や、今目の前にあるテーブルの真上にはシャンデリアが吊り下げられてあり、煌びやかで輝かしいもので溢れていた。私は唐突に少女時代に読みふけっていた少女漫画を思い出した。ここはあれに出てくる情景そのものだった。


 しかしそのことを思い出しても感動は無かった。子供の頃夢見ていたことが叶ったが、そんなものは子供の頃に叶ってこそ意味がある。今こんなものを見せられても、ただ羨ましいとか妬ましいとか成金趣味めと罵ることしかできない。少女時代の私が今の私を見たらきっと幻滅するだろう。いや、案外あの頃の私は、今の私をやっぱりねとしたり顔で受け入れるかもしれない。


 きいっという年季の入った音を出しながら重厚な扉が開き、お盆を持った葛さんが入って来た。お盆の上には氷の入った麦茶が乗っていた。葛さんは音を立てないように慎重に私と先生の前に麦茶の入ったグラスを置いた。私は「ありがとうございます」と言って麦茶を飲み、ふうっと落ち着いた息を吐いた。体調も大分正常に戻ってきたようだ。


「こういうお屋敷で、しかもメイドさんが出すんだから、てっきり紅茶かなにかだと思ったんだがねえ」


 先生は目の前の麦茶を見ながら失礼なことを言った。


「日本人ならお茶は麦茶でございましょう」


 葛さんは冷ややかな口調ではっきりそう言うと、先生はにやりと笑って「確かに」と言い、麦茶を飲んだ。


「あら、別に紅茶でもよろしいんですよ、静喪さん」


 透き通るような美声が、先ほど葛さんが入って来た扉の方から聞こえてきた。そこに視線を向けると、そこには赤色のドレスを纏った少女が立っていた。


「やあ、久しぶりだね箒ちゃん。久しぶりついでに言わせてもらうと、私を呼ぶときは『さん』ではなく『先生』と呼びなさいと言っただろう」


 先生は私の先生だった頃時々見せた大人っぽい表情でそう指導した。箒と呼ばれた少女はにっこりと上品に微笑んで「そうでしたね。すいません、静喪先生」と言った。


「葛さん、挨拶がしたくてここに待たせておいてと頼んだけれども、どうやらお疲れのようだから先に部屋を案内してあげて」


 少女は生徒の雰囲気から大人へと変貌し、メイドさんにそうお願いした。


「残りのお客様はまだお見えにならないようですから、全員いらっしゃってからまた会いましょう」

 ん?全員?


「招待されたのは私達だけではないのですか?」

 私は驚きの反応を見せる。

「申し訳ありません。招待状にそのことを書くのを忘れていました」


 葛さんが私に向かって上品な仕草で謝った。


 私たちだけが招待されたわけではないのなら、私が招待された理由も少し分かってきた。私はおそらく他の招待客のおまけみたいなものなのだろう。ついでに呼ばれただけだと思えば、自分なんかが呼ばれた理由に少しは納得できる。


 葛さんは「では、こちらに」と言って私達を大広間から出した。


 私と先生は葛さんの後に続いて長い廊下を歩いていく。廊下の両脇には蝋燭に似せた電気ランプがあり、屋敷の雰囲気をより西洋らしくさせていた。また床には赤いカーペットが敷き詰められていて高級ホテルみたいだった。


 大広間を出て右に曲がり廊下の突き当りをまた右に曲がると、両脇に部屋が計六つ配置されていた。


「ホテルみたいですね」


 私が廊下から見える屋敷の構造をそう例えると、葛さんはこちらを向いて答えた。振り向くとき長いスカートがふわりと揺れてなんともエレガントであった。


「ええ、ここは元々ホテルとして建てられたものですから」

「それを東寺さんが買い取ったんだね」

「そうです。ここは山奥のホテルとして観光名所にする予定だったらしいのですが、建設途中でバブルがはじけ頓挫してしまったのです。残ったのは稼働前のロープウェイと作りかけのホテルだけ。それを箒ちゃんのお父さんが道楽で買い取ったらしいですよ」


 道楽か・・。幼い頃に両親を亡くし、親戚の家をたらいまわしにされ、裕福とは程遠い生活を送ってきた私には理解しがたい感覚だった。まあきっとそういう人が経済を回すのだろう。


「あれ、君はメイドなのに箒ちゃんはちゃん付けだし、お父さんはさん呼びなんだね。様とかで呼んだりしないのかい?」

「この格好は箒ちゃんの趣味で着せられているだけですよ。私はただの家政婦兼あの子の保護者ですから。そこまでのキャラ付けは不要だと思っています」


 葛さんはメイドらしくない少し小悪魔っぽい笑みを浮かべた。そこには普通の現代の若者らしさがあった。


「女性の方はこの六つの部屋から好きな部屋をお選びください」


 凛とした口調に戻った葛さんはそう説明し「では後ほど」と言って、また大広間へと戻っていった。

 残された私たちは適当に部屋を選びとりあえず呼び出されるまで待機することになった。


「何なら同じ部屋にするかい?」


 どの部屋にするか軽く考えていた私に、先生はまたいやらしい笑みを浮かべて言った。私はもう反応するのにも疲れてしまって「結構です」と冷たく先生をあしらい、一番近くの角部屋に入った。

 部屋に入ってドアを閉めると、すぐ隣の部屋のドアが開く音が聞こえた。どうやら先生は私の隣の部屋に入ったらしい。


 部屋は六畳半ほどの広さがあり、柔らかそうな羽毛布団を被ったセミダブルのベッドと、窓際には小さなテーブルと椅子が置かれていた。テレビや冷蔵庫などの家電はなく、天井の真ん中にある丸みを帯びた電灯と、ベッドの脇にある間接照明だけがこの部屋の電化製品だった。

 クローゼットはドアを入ってすぐ左側にあったので、とりあえず私はスーツの上着とハイヒールと靴下を脱いでしまいこみ、クローゼットに入っていたスリッパに履き替えた。


 窮屈な密室から解放された私の足は、森の中で深呼吸をした時のような清々しさを感じていた。

 私はぺたぺたと力ない音を鳴らしながらベッドの近くまで行き、今履いたばかりのスリッパを脱ぎ捨てて倒れこんだ。


 私の体は柔らかなものに包まれた。疲れがベッドに吸い込まれるような錯覚を覚えつつ、私は「安楽死というのはこういう感じで安らかに息絶えるのだろうな」と思いながら眠りについた。

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