第6話 一歩

 結局のところ、お金もなく仕事も失ってしまった私にとって、無料でしばらく寝泊まりできる場所があるというのはありがたい話だった。

 先生の誘いじゃなければ二つ返事で了承していただろう。回り道はしたが、とりあえずはそのお屋敷とやらでお世話になろう。それからのことはそれから考えればいい。


 私は今の状況に対する不満に、そんな折り合いをつけた。


 東城という名前を聞いて思い出したことがあった。日本においてその名前を知らないものなどいないくらいの大企業、「東城グループ」のことだった。医療から日常生活、はたまた軍事産業に至るまで、事業拡大をした企業だ。どうして見てすぐに思い出さなかったんだと驚くくらいの企業だ。


「まあ、分かりやすく言うならバイオハザードのアンブレラ社みたいなものだよ」


 先生はそんなことを言った。


「いや、故人が立ち上げた偉大な企業を、バイオハザードなんか起こした企業と一緒にしないでください」私は呆れた声で言った。


「そんな社長の一人娘ということは、遺産も相当なものだったんでしょうね」

「君も案外俗物だなあ」先生はいやらしい笑みを浮かべた。

「でも、そんなには貰わなかったそうだよ。まあ、一生遊んで暮らせるくらいのお金を受け取ったそうだが、それでも本来貰えるはずの5%にも満たないものだ」


 私は恵まれた境遇に生まれた女の子に対して、哀れな嫉妬心抱いたことが恥ずかしくなった。


「それはその子の意志だったんですか?」

「私の知る限りではね」


 私たちが乗ったタクシーは、埼玉県秩父市に入った。そして、そのままタクシーは緑生い茂る山に向かって進み、山の麓で降りた。タクシー代は諭吉さんが三人以上使うほどの金額になっていたが、先生は涼しい顔で払っていた。


「さて、行くか。別荘はこの山の上だよ」

「え、私ハイヒールなんですけど」

「大丈夫さ。もう少し歩けばロープウェイがあるから」


 そして、五分ほど歩くと、『ロープウェイ乗り場』とい書かれたさび付いた看板が見えた。そこには思っていたより一回り程小さい、遊園地の観覧車二つ分程しかないゴンドラがあった。


「あれだね」


 先生は指を差してゴンドラを示した。それは人が乗るには余りにもぼろぼろで、つつけばばらばらに崩れてしまいそうなほど錆びついていた。


「あの・・あれなんですか?」

「どうやらこのロープウェイはバブルに作られた観光用のものみたいだね。東寺さんは屋敷を建てるときにこのロープウェイも一緒に買ったのだろう」


 いや私が聞きたかったのはそういう裏事情ではなく、至る所が錆びついた汚い箱が、人を乗せてはるか上空を移動する乗り物なのかということだ。


 そもそもなぜこんな山奥に別荘なんか建てたんだろうか。お金持ちの考えることはよく分からない。

 先生は意気揚々とゴンドラに乗り込んだ。先生が体重をかける所全てからきぃきぃと軋む音がした。


「このボタンを押せば頂上まで行けるみたいだね。さ、早く乗りなよ」


 個人用に改造が施されているらしく、ゴンドラの中から操作が可能な仕様になっていた。

 私はゴンドラのスッテプに足をかける。


「どうした?入りなよ」


 先生は私に笑みを向ける。まるで罪の無い子供の様な無垢な笑みを。


 先生は、回りくどい策略を使ってまで私をここまで連れてきた。この山の頂上には私に見せたいものがあるのだろう。それは教師としての意志なのか、はたまた大人として子供の成長を願ってのことなのかは分からない。


 だけどどちらにせよ、ここで逃げることは自分を子供だと証明することになると私は思う。そしてここで乗ってしまえば、先生の馬鹿な策略に付き合ってあげれば、私は少し大人になれるのかもしれない。


 しょうがない。どうせ乗りかけた船もといゴンドラだ。毒を食らわば皿まで。最後までこの人に振り回されることを我慢してもいいだろう。

 私はゴンドラに乗り込む。


 先生はボタンを押した。ゴンドラは不快な軋む音を響かせながら動き出す。眼下に広がる緑豊かな森や、底の見えない谷を越え、私は上へ上へと運ばれていった。

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