4.4
エクス・マイアミの海に夕日が沈もうとしていた。街路に怪しげな人影がポツポツと出始めて、並ぶ店は日中貯めた電気を振り絞りネオンを光らせはじめる。
オレンジ色に染まった街に、湿気った風が吹いていた。
それは半ばキングスの事務所と化している半月型のタワーホテル『ジャグラーズネスト』でも例外ではない。外壁は赤銅色の光をうけて、不吉なブラッドムーンと化していた。ただしそれは半月で、不吉の前兆なのか、吉兆なのか、誰にも分からなかった。
しかし、ひとつだけ確実なことがある。
ボスにタマナシと言われてカジノでの儲けとこれまでの稼ぎを使って女性の躰となったイワンは、いまは亡き相棒の仇を討つチャンスを得た。
正確にいえばグッドマン――カトーの手伝いでしかないのだが、バカなイワンにとっては、誰が手を下すのかは問題ではない。むしろ仇を討ってボスからボーナスが出れば、相棒の家族に会いに行ってやることだってできる。
ジャグラーズネストの一階ロビーに現れたイワンにとって、その赤い月は吉兆以外の何物でもなかった。
ふいに現れた背の高い美女に対して、ロビーに立つホテルマン――の真似事をするキングスの構成員は、鼻の下を伸ばして言った。
「お泊りですか? それとも、地下の『ダウンウォッシュ』の方に?」
イワンはそのいやらしい視線に、即座に弾丸を叩きこんでやりたくなった。堪え、黒革のハンドバックに手を突っ込む。カウンターの男は警戒しなかった。
イワンはカトーから託されたセリフの書き込まれた紙を取り出し、読み上げる。
「ええと、ボ――じゃない。ミスター・ブラッドリーから、伝言なんだ、わ。よ?」
「は? ええと、どなたですって? 私の言葉は分かりますか?」
「黙ってろ。間違える。ええと、『グッドマンを生け捕りにした。ジャックっていう賞金稼ぎが来てる。ミセス・ホールトンに会いたいとも言っている』。だって」
「……お客様、当ホテルのオーナーはいま病気療養中でして――」
カウンターの男の目つきが変わった。試すようにイワンを見ている。
しかし悲しいかな、イワンは言外でやりとりするなどという高度なコミュニケーション能力は有していなかった。
イワンはカウンターを叩いて、低い声で言った。
「いいから、ペントハウスに電話をかけろ」
ブラッドリーの下で借金の回収をしている内に身に着けた、脅しのテクニックである。残念ながら、声帯も変えてしまったいま、低い声と言っても凄みは利いていない。
それでもカウンターの男は、口調のみで何かを察したらしかった。
「少々お待ちください」
男が内線電話を取り、いずこかへ掛ける。
「ボス、ブラッドリーって奴の女が来てます」
妙な誤解をされているようだった。
「なんでもあの、半年くらい前の奴――そうです。生け捕りにした奴が、えっ? ああ、なるほど――はい、分かりました……はい、はい……では、失礼いたします」
電話を切った男の顔は、下心丸出しのホテルマンではなく、ボスから指示を受けたギャングの顔になっていた。
「お客様、賞金の方をこちらでご用意しますが、どうされますか?」
言外の圧力だ。やはりイワンには、相手の言わんとすることが理解できない。仕方なくメモに目を落とす。『困ったら、とにかくついてこい、と言え』とある。
「とにかく、早くついてこい」
言って、踵を返す。
「お、お客様! 少々お待ちください!」
カウンターの男が慌てて声をかけた。けれどイワンは止まらない。そんな命令は受けていないのだ。カウンターに行き、メモを読み上げ、手下を連れ帰る。あとはボスを守ってやればいい。命令はそれだけだ。それ以上のことは知らないし、知りたいとも思わない。それがイワンと、いまは亡きリュウにとっての、処世術だった。
*
イワンがカウンターでごちゃごちゃしたやり取りをする少し前、ジェシカはホテルのカウンターを素通りし、地下のカジノバー『ダウンウォッシュ』に降りて行った。
『お前も顔が割れてるかもしれないから変装しろ』
と、カトーに言われ、仕方なく、子供の頃のブラッドリーのスーツを着ていた。あのデブっちょの物持ちの良さにもびっくりしたが、それ以上にジャックに「よく似合ってる」と言われたのがまたショックだった。
なんでアタシがこんな恰好!
と、プリプリしている。
普段は露出度の高い服装をしているからか、肌に纏わりつく感触が気色悪い。それにどうせ頭に乗せるならジャックのようなカウボーイハットが良かったし、右目を隠す眼帯は邪魔でしょうがなかった。パリっとしたスラックスは丈が足りてなくてカッコ悪いし、ベストもスーツも重くて暑い。なにより、愛用の山刀をもっていけないのが不安だ。
苛立たしげなジェシカの役割は、ダウンウォッシュのエレベーターを調べることだった。
カトーの記憶に従えばペントハウス直通のものがあるはずだという。ジャックが行けばバレたらコトだし、カトーもブラッドリーも準備があって、ジェシカにしかできない役割らしい。
頼りにされるのは嬉しいが、頼りにしてくれてるのがカトーなのが腹立たしい。ジャックの方は何か思い悩んでいるばかりで、心配ひとつしてくれない。
まったくもぅ。
不機嫌そうな靴音が廊下に響いた。通路の先にある両開きの前に、ドアマンが二人。両手を躰の前で組み、丸腰だと嘯いている。左肩があからさまに下がっているから嘘に違いない。
ジェシカはドアマンの前まで歩くと、ため息交じりに口を開いた。演技力には自信がないが、本気でついたため息だから、安心だった。
「もう店は開いてる?」
ドアマンは顔を見合わせ、ジェシカに向き直った。
「カジノバー・ダウンウォッシュは年中無休だよ、ボクちゃん」
イラっときた。山刀があればと思う。
しかし、ホテルに来る前カトーに言われた通り、余計なことは喋らない。
ジェシカは苛立ちを隠すことなく、理由のひとつを包み隠さず言った。
「人を探しに来たんだよ。入っていい? お酒は飲まないし、すぐに出るから」
演技なんかしなくていいし、嘘はバレるからつくなと、指示されていた。
再び顔を見合わせたドアマンたちは、両手をあげる仕草をした。
「構わんよ。ただ、ボディチェックをするから、両手をあげてくれ」
子供相手にも油断しないあたりはプロっぽくていいと思う。
ジェシカは素直に両手をあげた。ここで無駄に抵抗して話が長くなると面倒だ。
向かって左の男がサングラスを外し、帽子を取る仕草をした。先ほどの評価は訂正しよう。よく訓練された連中だ。帽子を取ってみせてやる。
右目を瞑って、眼帯の内側をチラ見せする。「おい?」と聞こえた声には、
「義眼をジロジロみられるのは好きじゃないんだ」
と、真実を告げておく。
男は小さく肩を竦めて屈みこみ、ジェシカのボディチェックをはじめた。
両腕、脇、脇の下、胸!? 両方のポケットに太ももと足首。
ムカっときた。ボディチェックだから仕方ないけど。
男は指を回して、後ろを向けと示した。
ジェシカは眉間の皺を深くし、振り向いた。
肩、背中、腰、尻!
「よし、いいだろう。そう怖い顔しないでくれ。規則なんだよ、ボクちゃん」
戻ってきたら絶対に山刀の柄尻でぶっ叩く、とジェシカは心に誓った。不貞腐れた顔のまま『ダウンウォッシュ』に入店する――と同時に、少しだけ機嫌を直したようだ。
長いカウンターには頭にプレートを仕込んだバーテンが一人いて、その奥には色とりどりの酒瓶が並ぶ。テーブル席がいくつかあって、少し大きなルーレットテーブルがひとつに、カードゲーム用と思しきテーブルが三つ。
そしてカトーの言っていたように、わざわざスポットライトで抜かれたクラップスのテーブルがある。どのテーブルにもギャングなのかディーラーなのか分からない強面がついていて、客の方は時間が早いからか、まだまばらだった。
まずは言われた通りに、
『ジェシーと違って女っぽいメリハリついた肢体の、流し目と足首がエロい』女とやらを探す。
さっきのボディチェックが思いだされた。
ジェシカはカトーのことも一発殴ってやりたくなった。外にいた男と違って、カトーは殴っただけで死にそうだから、許してやるけど。
言われた通りの女の姿を探しつつ、ジェシカは店内をうろついた。カトーがいうには、直通と思しきエレベーターは、クラップステーブルの客側から見て右手に――あった。
赤ロープと金メッキの柵が侵入を拒んでいるが、無視して入る。
「ちょ、ちょっと!」
クラップステーブルのディーラーが言った。
無視して階数表示を見上げる。地下一、二階と、十一階にしか止まらないらしい。これだ。
ジェシカは、とりあえず押してみるかとボタンに手を伸ばした。
しかし、指が届くか否かというところで、ディーラー兼セキュリティに肩を叩かれた。
「ボク? そのエレベーターはスタッフ用だ。乗せられないよ」
「ここにはいないっぽいから、上に行きたいんだよ」
「おい。お兄さんが怒りだす前に、外に出ようか?」
ジェシカは鼻で息を吸い込み、唇を尖らせる。
「分かったよ、おじさん。どうも十一階にしか止まらないみたいだね、これ」
「そうだよ。そいつはペントハウスにしかいけないんだ。要はないだろ?」
「ちょっと行ってみたいけど。きっと眺めもいいんだろうし」
「だったら十階で我慢しな。ラウンジがあるから、街の夜景は十分に楽しめるよ」
言いつつ、ディーラーはエレベーターの前からジェシカを離す。
「で、誰を探してるんだって?」
「……いなかったから、もう帰るね」
用も果たした。女もいない。長居は無用だ。
ジェシカは踵を返した。同時、男に肩を掴まれた。ヤバい。
「おい坊主、何号室に泊まってるんだ? 探してたのは――」
素早く視線を動かす。バイオニック・アイじゃないのがもどかしい。クラップステーブルの客が騒ぎをを見ていた。
「お客さんをあんまり待たせたらダメだよ、おじさん」
言って、ジェシカはクラップステーブルを指さした。男が顔を背けた瞬間、手を振り払う。走ったら追いかけられるだろう。早足で逃げる。
「おい、坊主――」
「なにやってんだ! 早くゲームの続きを――」
遠ざかっていく声は、追跡が打ち切られたらしいことを示す。店を出ると、すぐにドアマンが振り向き、心配そうに眉を寄せた。
「どうしたボクちゃん、汗がすごいぜ? まさか酒飲んでないだろうな?」
「飲んでない。怒られただけ」
「何してんだよ。探してた人は見つかったのか?」
「ここにはいないみたい。上の方を探してみるよ。またね、おじさん」
振り返る余裕はなかった。言われてはじめて頬を伝う汗に気付いた。ジャケットの襟をつかんで整える。手汗もびっしょり、シャツは背中に張りつき不快だった。
愛用の得物が手元にないと、ここまで心細いものなのか。
素手で店に乗り込み勝負をしたというのなら、カトーは実はすごく肝が据わっているのかもしれない。
ジェシカが上に戻ると、入れ替わりにイワンがホテルに入ってきた。少し急がないといけないようだ。
それにしても、とジェシカは思う。
まさか、本当にひとつも嘘をつかずに済むとは。
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