第2話 恋煩い

 漆黒の軍服姿の戦士シルグは、日が傾いて薄暗くなった森の中、地面を覆う雑草を蹴立てながらひたすら走っていた。

 どこまでも続く木々の合間を縫うように進むことしばらく、大樹に寄り添うように張られた濃緑色の天幕の群れが見えてきた。歩調を早足程度に緩めて近づく。

 天幕の前方には丸太と土砂とで造成した応急の防壁があり、その陰に天幕と似た色の兜と軍服を身につけた兵士が十人ほどいる。その手にある筒状の物体は射筒ゲルファレットと呼ばれる武器で、真韻術マーレクスを用いて短矢サージを高速で射出するものだ。

 

 兵士たちが近づくシルグの姿に気付いた。手にした射筒を向けて警戒するが、すぐにそれは下ろされた。一人の兵士が後方へと走り出し、数人の兵士が防壁を迂回してシルグへと駆け寄って来る。

 

「アクリナクス隊長! ご無事でしたか!」

 

 シルグの名は正式にはアクリナクス・シルギットといい、家名がアクリナクス、名がシルギット。シルグとは親しい間柄でのみ用いる愛称だ。

 シルグは近づく若い兵士に尋ねた。

 

「何とかな。殿下は戻られているか?」

「はい。殿下を始め、第三戦士団の面々は全員無事に帰還しています。いま報告に──」

「シルグ!」


 名を呼ぶ声が森の中にこだました。目を向けると、防壁の間を抜けてこちらに向かってくる金髪の男がいた。

 先刻の飛翔機動兵による追撃戦において、シルグが先に撤退させた、友人でもあり上官でもある人物、イブルクイット・エクオルスだ。

 エクオルスは気さくな人の好い笑みを浮かべながら駆け寄ると、シルグの右肩をばんばんと遠慮なく叩いた。

 

「遅かったじゃないか。心配したぞ。もっともお前なら何とかすると信じていたがな。……どうした。どこか怪我でもしたのか?」


 エクオルスが笑みを引っ込め、代わりに心配そうに眉をひそめた。

 シルグは平静を装っていたが、長い付き合いのエクオルスには何かがおかしいと映ったらしい。周りの兵士にまで悟られないよう、軍服についた土や草きれを払うふりをしてごまかす。


「少々薄汚れていますが、どこも負傷はしていません。軽度の打ち身といったところです」

「そうか、それならいいんだ。とりあえずこっちで報告を聞こう」


 エクオルスはそう言うとやって来た方向へと歩き出した。シルグもその後を追う。

 防壁の先には、木々の枝葉の陰になるように張られた無数の天幕があり、濃緑や黒の軍服の兵士たちが忙しそうに行き交っていた。

 これら天幕の役目はもちろん人を休息させることだが、ここではさらに食料や武具などの備蓄や負傷者の治療所としての役目も与えられている。

 シルグが母国とする国の名はアルテネ王国。

 そしてつい先刻交戦した〝凍嵐の死神〟率いる飛翔機動兵が属するのはサングリクス王国。

 この二国は現在交戦状態にあり、ここはその前線司令部だった。

  

 エクオルスは森の中に築かれた司令部中央付近の天幕に向かった。入口脇を固める兵士にご苦労と声をかけながら中に入り、シルグもそれに続く。

 天幕中央には天井を支える支柱があり、そこに吊るされた円筒状の物体から放たれた白光が内部を満たしていた。これは真気ルフを光に変換する真具フィクターと呼ばれる道具だ。

 中には他に組み立て式の木製の机が一つと、椅子が十脚ほど並べられており、そのうちの一つに濃緑の軍服を着た男が座っていた。

 

「おお、アクリナクス殿、無事だったか……!」


 男はシルグを見るや否や感極まった声を上げた。椅子から立ち上がろうとするも、姿勢を崩して転びそうになる。シルグが駆け寄るよりも早く、前にいたエクオルスがそれを支えた。

 

「イステルム殿、無理はなさらず椅子にお掛けください」

「無様な姿をさらして申し訳ない。私が功を焦ったばかりにエクオルス殿に負担をかけてしまった」


 イステルムと呼ばれた壮年の男は、何事にも動じなさそうな巌のような顔つきに、がっしりとした体躯をしている。しかし椅子に座り直しながら深々と頭を垂れる彼の右足や左腕には包帯が巻かれていて、軍服はところどころ赤く染まっていた。

 

 イステルムの名は正式にはイステルム・バルコリス。サングリクス王国との国境に接しているアルテネ王国アンテット州を治める領主イステルム家の次男だ。それと同時に彼はイステルム家が擁する戦士団の指揮官でもある。

 彼は、数日前に侵攻してきたサングリクス軍との初戦で敗走した後、態勢を整えて反抗作戦を実行した。それは戦線の東側に広がる森を突っ切って敵後背を突くという奇襲だったが、例の〝凍嵐の死神〟率いる飛翔機動兵に察知されてしまった。

 シルグたちが駆けつけたのは、今まさに逆襲を受けようとしていたところであり、シルグはイステルム率いる奇襲部隊を逃がすために殿を務めた。その戦いが先刻の〝凍嵐の死神〟との衝突だったというわけだ。

 椅子に座るイステルムの前に、エクオルスが片膝をついて話しかけた。


「頭をお上げください、イステルム殿。領民が殺され、父祖より引き継いだ土地を蹂躙されているこの現状を鑑みれば、焦燥されるお気持ちはよくわかります。しかしだからこそ、冷静に対処しなければなりません。私の主家アウルテットもイステルム家への全面支援を確約しておりますし、我ら直轄領警備軍第三戦士団一同も微力ではありますが、お力添えしたいと考えております。ここは協力してこの難局を乗り切ろうではありませんか」


 エクオルスが口にしたアウルテットとは、アルテネ王国の現王家の名だ。

 エクオルスはその分家筋に当たるイブルクイット家の次期当主であり、王位継承権を持つ人物でもある。

 イステルムが自分よりも若いエクオルスに丁重な態度を取るのも、シルグがエクオルスを殿下と呼称するのも、その地位を鑑みてのことだ。

 自身の敗走の衝撃で心が弱っているのか、エクオルスの激励を受けたイステルムは、込み上げるものを堪えるようにぐっと唇を引き結んだ。僅かな沈黙を挟んで口を開く。

 

「……エクオルス殿。真っ先に駆けつけてくれた貴殿の言葉、何よりも心に響く。しかし共に戦おうにも私はこの通り、当分は戦場に立てそうもない。そこで一つ頼みがある。貴殿に我が戦士団の指揮権を預けたい。どうか引き受けてはくれまいか」


 想定外の要請だったのか、エクオルスは一瞬言葉に詰まった。

 

「……よろしいのですか? ここアンテット州はアルテネ王国の一部ですが、イステルム家が統治する土地。私は分家筋とはいえ王家の一員でもあります。お父上が難色を示されるのでは」

「父には私から伝えておく。今は些細なしがらみに囚われているときではないのだ。どうか、あのサングリクスの鬼畜どもを撃退してくれ……!」


 歯を食いしばってエクオルスに頼み込むイステルムの顔は、自分で出来るものならそうしたいという悔しさに滲んでいた。

 エクオルスはしばらく沈黙したままイステルムを見やり、そしておもむろに頷いた。


「……わかりました。イブルクイット・エクオルスの名に懸けて、サングリクス兵を一兵残らずこの地から叩き出してご覧に入れましょう」

「かたじけない。アクリナクス殿もどうか頼む……!」

「私は殿下の剣。殿下が口にされたことは、必ずや実現されるでしょう」


 迷いなく告げたシルグの言葉に、イステルムは険しい表情の中にも微かな笑みを浮かべながら頷いた。負傷していない左足を駆使して立ち上がる。


「ではエクオルス殿、私は我が戦士団の団長たちに、貴殿の指揮下に入るよう命じた後、父に事の顛末を伝えに行く」

「ええ。ここはお任せください。誰かイステルム殿の補佐を!」


 エクオルスが声を上げると、すぐさま二人の兵士が天幕内に入って来た。右足を引きずるイステルムに肩を貸しながら天幕を後にする。

 それを直立不動で見送ったエクオルスは、ふうと息をついた。開放されていた天幕の入口を閉じてから椅子に腰かける。


「……やれやれ。責任重大だな、こりゃ。失敗したら全部俺のせいになっちまうぜ」


 背もたれに体を預けて、若干乱れた金髪を手櫛で整える。

 エクオルスの口調は、イステルムに対するものとは打って変わってずいぶんと砕けたものになっていた。

 エクオルスは王位継承権を持つ王族の一員であり、一方のシルグは王家とは何の縁もない戦士。そのため、人目があるときは互いに立場を意識した口調を心がけていたが、いま天幕にいるのはシルグのみ。口調に気を遣う必要もない。

 いつものシルグならば、ようやく緊張が解けたエクオルスの会話に付き合ってやるのだが、今はそんなことも忘れてしまうほどに、頭の中はあることで一杯だった。

 立ったまま押し黙るシルグをエクオルスが見上げる。


「おいおい、シルグ。そこはいつもみたいに俺が何とかしてやるから大船に乗った気でいろ、とか言ってくれよ。不安になるじゃないか」

「……ん? ああ、すまん」


 気のない返事をするシルグに、エクオルスが髪と同色の金の眉を寄せた。


「やっぱお前、おかしいな。何があった? 怪我はしてないんだよな?」

「ああ、体は大丈夫だ」

「じゃあ、どうしたんだ?」

 

 エクオルスが椅子を指差しながら再度尋ねる。

 シルグは椅子に座り、机に両肘をついた。組んだ両手に額を当ててしばらく沈黙した後、机の木目を見つめながら口を開く。

 

「……なあ、死神って女なんだよな?」

「〝凍嵐の死神〟のことか? それなら確かヴァルフェルーラ・カルミナっていう名前だから、女のはずだぞ。……もしかして、お前が足止めした奴は女じゃなかったのか?」


 エクオルスの声が微かに緊張する。

 シルグたちを追撃していた者が〝凍嵐の死神〟ではなかった場合、今後本物の死神が戦場に投入されるかもしれないと、そう懸念したのだろう。

 

「いや、女だった。あの青い真気を纏ってる奴に斬りかかったら兜が外れて、出てきたのが女の顔だった」


 エクオルスが小さく息をついた。得心したように何度か頷き、次いで気遣わし気な口調で語り出す。

 

「……そういうことか。シルグ、お前の気持ちはよくわかる。女とは戦いたくなんかないよな。俺だってそうさ。想像しただけで後味が悪い。そして幸いなことに、これまではそんなことをする機会はやって来なかった。でもな、今は戦の最中だ。そして死神は間違いなく俺たちを殺そうとしている。現に、奴が引き起こした寒波で大勢の仲間が凍傷になってる。逃げるのがあと少しでも遅れてたら凍死してたはずさ。それを放置してたら、俺らには勝ち目はない。女だからって見逃すわけにはいかないんだ」

「わかってる、わかってるんだ。でもな…………惚れちまったかもしれない」


 懇々と説くエクオルスに、シルグは絞り出すように言った。

 エクオルスは体のあらゆる動作をぴたりと止めた。

 天幕内に沈黙が落ちる。

 

「…………すまん。よく聞こえなかった。いまなんて言った?」

「惚れたかもしれないって言ったんだ」

「……誰に?」

「死神に」


 エクオルスが机に両手をついて身を乗り出した。立ち上がった拍子にがたっと椅子が倒れる。


「マジか? 嘘だろ? 場を和ませようっていう冗談だよな?」

「……俺もよくわからないんだ。でもあの女を目にしてから、ずっと胸が苦しい。あの青い目と白金の髪が頭から離れないんだ」


 シルグは組んだ両手に額を預けたまま力なく言った。

 シルグ自身、確信しているわけではない。何しろこんなことは初めてなのだから。

 しかし〝凍嵐の死神〟の陽光を浴びてきらきら輝く白金の長髪と、青玉のような瞳が鮮烈に脳裏に焼き付いていて、まるで消える気配がない。胸が苦しくて、そしてもう一度会いたいと強く思う自分がいる。

 聞き及んだ情報から自分の様子を客観的に分析すると、これは一目惚れとしか思えなかった。


「シルグ、俺を見ろ」


 名前を呼ばれて、懊悩するシルグは顔を上げた。

 エクオルスが机に両手をついた姿勢で真っ直ぐに見ていた。真剣な眼差しと口調で切り出す。

 

「俺たちが置かれた状況はわかってるよな。言ってみろ」

「三日前に隣国サングリクスが南の国境を超えて攻め込んできて、ルブルーダの町とアウブルム鉱山を占拠、アルテネと交戦状態にある」

「そうだ。しかも奴らは宣戦布告もなしに奇襲して、占領した土地は昔から自分たちのものだったとぬかしてやがる。イステルム家の戦士団は大きな損害を受けて、俺たちはその救援のために北の国境から、本隊を置いて急いで駆けつけてきたわけだ。で、俺たちは何をしなけりゃならない?」

「占領された土地を取り戻して、サングリクスの奴らを本国に叩き返す」

「その通りだ。南のルブルーダは逃げ遅れた住人がまだ千人以上いるという話で、安否は不明だ。鉱山に至っては、防衛兵ごと捕虜になったらしい。それがどんな扱いを受けるかなんてのは考えるまでもない。戦の名を借りれば、人間なんざすぐに心のたがが外れる。今ごろ男は殺され、女は兵士どもの慰み者にさせられちまってるだろう。こんな状況は急いで解決しなけりゃならん。でもそれには大きな障害がある。言わなくてもわかるな?」

「……〝凍嵐の死神〟だ」

「そう。俺たちがわざわざ北の国境から呼ばれた一番の理由は、奴がこの紛争に参戦するっている情報があったからだ。そして奴は、たった一人で千人以上の兵士が立てこもる要塞を一人で陥落させたっていう逸話を持ってる。その力が野戦で使われたら被害は数千人を超えるだろう。そんな奴を止められるのはシルグ、お前しかいないんだ」


 エクオルスに言われるまでなく、シルグは自分の役目というものを自覚していた。改めて指摘されることで、その重責をより強く思い知らされる。

 エクオルスはシルグが役目を成し遂げることを期待し、シルグもそれに応えたいと考えている。ゆえにここは心機一転できたと告げて、友人を安心させるべき。そうわかっていた。しかしシルグはそれを口にできなかった。いまの精神状態のまま〝凍嵐の死神〟に遭遇したとしても、満足に戦えるとは到底思えなかった。

 エクオルスは沈黙するシルグを見やり、小さく息をついた。左右に頭を振って体を起こす。


「シルグ、お前はきっと疲れているんだ。何しろ、ここに駆けつけて休む間もなく戦場に向かったんだからな。一晩寝れば頭も整理できるし、朝にはすっきりしてるさ。お前の天幕は用意してあるから、今日は休め」

「……そうだな。わかった」


 シルグは力なく言うと、椅子から立ち上がって天幕の入口へと向かった。

 足を止めてエクオルスを振り返る。

 

「悪いな、こんなときに妙なこと言って」

「いいってことよ。むしろ打ち明けてくれて、俺は友人として嬉しい」

 

 エクオルスは整った顔にいつもの気さくな笑みを浮かべた。シルグを元気づけるように、背中を一つ叩いて送り出す。

 エクオルスの言うように、眠ることで心の整理がつくはず。

 シルグはそう願いながら、しっかりとした足取りとは裏腹に酷く頼りない精神状態のまま天幕を後にした。

 

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