剣の悪魔の恋戦記

冬空

第1話 剣の悪魔、恋に落ちる

 「はぁっ! はぁっ!」


 爆音が林立する木々を揺らし、迸る衝撃波が大気を震わせる。

 吐く息が白く染まるほどの寒さの中、黒の軍服を纏った青年は地を這うように疾走していた。

 服の上からでもわかるほどに鍛え抜かれた体を巧みに操り、短く切りそろえた黒髪をなびかせながら駆けるその様は、獲物を追い詰める狼のようだ。

 しかし青年の野性味あふれる精悍な顔立ちと、鋭い眼光に滲むのは決して小さくない焦燥。

 

「シルグ! 後ろとの距離は!」


 ひたすら走る青年──シルグは、自分の名を叫んだ並走者へと目を向けた。右側に、シルグと遜色ないほどに鍛え込んだ体躯を誇る、黒の軍服姿の若い男がいた。

 この地域では珍しい金髪碧眼の彼は、髪を振り乱しながら疾駆している。優男と呼ぶに相応しい整った顔立ちに張り付いているのは、命の危機への恐怖と焦り。

 彼の名はエクオルス。シルグの友人であり上官でもある人物だ。

 

「近づいてる! 振り切れそうにない!」


 シルグは肩越しに振り返りながら、声を張り上げた。

 もう何度目かわからない衝撃波が体を揺らし、僅かに遅れて届いた爆音が激しく耳を打つ。

 およそニ百ティトラ(約三百六十メートル)はあるだろうか。

 木々の合間から覗き見える青空を、白光放つ翼を広げる物体が飛んでいた。その上にあるのは人間の姿。

 あれは飛翔機動兵と呼ばれる兵士で、飛翔盾エウフーガという名の特殊な盾に乗って空を駆ける精鋭だ。

 三十騎ほどのそれらが大空に巨大な三角の陣形を作りながら、シルグたちを執拗に追撃していた。

 先刻から止むことなく森の中に響き渡る爆音は彼らによる攻撃で、シルグとエクオルスはそれから逃げていたのだ。

 しかし追手はそれだけではなかった。

 先ほどから吐き出している呼気が白いのは気温が低いからだったが、今はもう夏が近い五月で天候は晴れ。そこまで寒いはずがない。しかし実際に大気は肌を刺すように冷たく、凝結した空気中の水分が傾きかけた陽光を反射してきらきらと光りながら舞っている。

 それはシルグたちを押し包もうと、凄まじい速度で背後から迫っていた。

 

「あれが〝凍嵐の死神〟か!」


 シルグの横を走るエクオルスが叫んだ。

 編隊中央には誰よりも大きな青い翼を広げる飛翔機動兵がいて、その下面から白い霧状のものが散布されている。

 あれが森を覆い尽くさんとする冷気の源。すなわちこの寒波を生み出している元凶〝凍嵐の死神〟に違いなかった。

 

「追撃が速過ぎる! このままじゃ、前の奴らも寒波に呑み込まれちまうぜ……!」


 焦燥も露わに言うエクオルスの目は前方に向けられている。そこには森の中を広く分散しながらひた走る、黒や緑の軍服姿の群れがいた。その人数は数百以上。シルグの友軍兵士たちだ。


「エクオルス、俺が足止めする。その隙に逃げ切れ」

 

 シルグは低い声で告げた。エクオルスの碧眼をじっと見据える。

 彼は苦しそうに顔をしかめて口を開こうとしたが、それをぐっと呑み込んだ。

 

「頼む……!」

 

 絞り出すように短い一言を置いて、エクオルスは走る速度を上げた。前方の味方に追いつき、檄を飛ばしながらそれらを追い抜いていく。

 シルグはそれを見届けると、大地を踏み抜く勢いで右足を地面に突き立てた。降り積もった落ち葉を巻き上げながら急停止し、たった今やって来た方向へと全力で走り出す。

 目に映るのは、陽光を乱反射する無数の氷の粒と、氷結して幹が裂けてしまった木々。それらが間断なく襲いかかる衝撃波によってびりびりと震えている。

 

「アミッド、ルフィン!」

 

 シルグは走りながら鋭く言葉を紡いだ。

 次の瞬間、左手から黒い霧が溢れ出て手袋のように密着した。その一部を右手でむしり取り、さらに叫ぶ。


「ルフルファード、エウリク、ティバート!」


 黒い霧が透明に変化しながら、シルグの体に吸い込まれて消える。

 いまシルグが口にしたのは真韻マーレと呼ばれる神秘の言葉。この真韻を用いて、世界にあまねく存在する真気ルフに働きかけ、あらゆる事象へと変化させる技を真韻術マーレクスという。

 いまこちらに向かって来ている飛翔機動兵と〝凍嵐の死神〟もその真韻術の使い手であり、轟く爆音も辺り一帯を凍てつかせる冷気も、それによってもたらされたものだ。

 その中には体そのものを頑健化させたり、運動能力を底上げする効果を持つ術もある。シルグが唱えた『エウリク』と『ティバート』の真韻がそれであり、その結果シルグの走力は大きく跳ね上がっていた。

 次々と襲いかかる氷の粒を、黒い真気を纏った左手で防御しながら、ひび割れた樹木の合間を猛速で駆ける。そして目印と定めていた地点で、疾走する勢いのままに跳躍した。

 シルグの体は一瞬で梢を超える高度に到達。速度が緩む前に、左手の黒い真気を右手でつかんだ。


「リア、エラール!」


 真韻を唱えつつ、真気を上方に向かってばらまく。

 空気に溶け込むようにして消えたその部分をシルグは全力で蹴りつけた。手応えを返さないはずの空気は、シルグの足裏をしっかりと押し返し、さらなる跳躍の礎となる。

 『リア、エラール』とは、空気を固化させる力を作り出す真韻で、本来は攻撃を防ぐ盾として用いるが、シルグはそれを足場として使うことを得意としていた。

 それをさらに二度繰り返す。

 上昇速度は跳躍時の数倍に達し、シルグの斜め上方に、極寒の冷気を撒き散らしながら空中を飛ぶ飛翔体が迫る。

 飛翔機動兵の編隊中央に陣取っていた〝凍嵐の死神〟が駆る飛翔盾だ。

 シルグの目的は、追手の中でも最大の脅威である〝凍嵐の死神〟を止めること。そのために荒れ狂う冷気に呑み込まれつつあった森の中を逆走し、上空目掛けて跳躍したのだ。

 

「エモネア、ムドム、レウニル、スレイクダルグ!」


 真韻を叫びながら、漆黒の真気纏う左手で腰の鞘を押さえる。

 前進する飛翔盾と上昇する自身の体が交差したその瞬間、シルグは残像すら残さない神速で剣を抜き放った。

 鞘口を覆い尽くしていた黒い真気によって、闇色に染め上げられた片刃の刀身は、何の抵抗もなく盾を斬り裂いた。

 しかしシルグの目は捉えていた。

 飛翔盾が斬られる直前に、それを駆る死神が空中に退避したのを。

 

「リア、エラール!」


 シルグは空気固化の真韻を唱えながら、頭上に真気をばらまいた。

 体を反転させ、天に作られた不可視の足場に着地。上昇速度を全て殺し、そしてたわめた膝を全力で伸ばした。

 空中で方向転換したシルグの狙いは、斬撃を回避した死神。

 紺を基調とした軍服姿の死神は、進行方向に投げ出されたまま空中で体をひねり、青い真気を纏った左腕をシルグに向けようとしていた。

 その距離、数十ティトラ。シルグが後方から追いすがる形だ。

 シルグはさらに空気固化の真韻で足場を作り、それを蹴って死神との距離を詰める。

 不意に死神の青い真気がごっそりと消え失せた。同時にシルグの正面の大気が歪む。

 シルグは黒刃を横に薙いだ。放たれた不可視の力が上下に切り裂かれて、後方に過ぎ去る。その直後、飛来物がシルグの側頭部をかすめていった。死神が被っていた紺色の兜だ。

 それを横目に、シルグはさらに死神との間合いを縮める。

 あと一歩で刃が届くところに入ったそのとき、それはやって来た。


 目に飛び込んできた光景に、シルグは息を呑んだ。

 白金色の長髪が、陽光をきらきらと反射しながら風になびいていた。

 次いで目に映ったのは、引き結ばれた赤く艶やかな唇に、すらりと引き締まった顎の輪郭、強い意思を感じさせる柳眉。

 そしてとどめと言わんばかりに二つの鋭い光がシルグの心を射抜く。

 それは瞳だった。

 磨き抜かれた金剛石にも負けない輝きを炯々と放つその色は、左腕に纏う真気と同色の青。

 強い敵意を宿していながらも、水底のように深く静かなその瞳がシルグの心を刹那の一瞬で鷲づかみにしていた。

 〝凍嵐の死神〟と称され、恐れられる戦士は女だった。

 それもシルグが攻撃するのを忘れて魅入ってしまうほどの美貌を持った。

 死神に向けて放たれるはずだった黒刃はぴくりとも動くことなく、シルグは彼女のすぐ傍を凄まじい速度で追い越してしまう。


「しまっ──」


 慌てて振り返る。

 しかし遅かった。

 そこには白金の髪を激しく波打たせながら、再度シルグに左腕を向ける美しい死神がいた。

 彼女の左腕から再び青い真気が消失し、不可視の力が迸る。そして衝撃。

 シルグは上昇時を超える速度で地面に吹き飛ばされた。

 このまま無防備に地面に激突すれば、肉体は原型を残さないほどに破壊されてしまう。

 シルグは迫る地面を凝視しながら体勢を整え足を大地に向ける。そして接地の瞬間、膝で衝撃を吸収しつつ体を旋回させた。激しく何度もごろごろと転がり、十分に勢いを殺したところで起き上がる。草や土を払いのけながら、体の各部に素早く意識を向けた。

 上手く衝撃を逃がせたのか、あちこちが痛むものの行動に支障はなさそうだった。追手がかかる前に急いでその場を離れる。

 〝凍嵐の死神〟が騎乗していた飛翔盾は破壊した。あれがなければこれ以上追ってはこれない。そして彼女は飛翔機動隊の指揮官でもあるはずだから、編隊全体の動きを止められたと見ていいだろう。

 それは非常に重要なことだったが、シルグの頭の中はそれ以外のことで占められてしまっていた。

 

「まずい。これは……たぶんまずい……」


 心臓が、たった今繰り広げた戦いのものとは異なる理由で激しく跳ねていた。

 彼女の整った顔立ちと白金の長髪、そして青い瞳が鮮烈に焼き付いて頭から離れない。

 シルグは未体験のことだったが、何が起きたのか概ね察していた。

 自分は〝凍嵐の死神〟に一目惚れしてしまったのだと。

 シルグは嵐の中の小舟のように激しく動揺する感情を必死に抑えつけながら、林立する木々の合間を駆けた。

 


                 ◇

 

 

 紺色の軍服に身を包んだその女は、真韻術によって固化された空気の上で片膝をついていた。

 青い瞳で純白の冷気に包まれつつある広大な森を見下ろしながら、風にそよぐ白金の長髪を右手で撫でつける。

 

「カルミナ!」

 

 名を呼ばれて女──カルミナは立ち上がった。

 声の方向を見やると、白い翼を広げた飛翔盾に乗った栗毛の女が、それを巧みに操って近づいて来ていた。盾を蹴るとともに、左手首につながれた革紐でそれと結ばれた飛翔盾を引き寄せて、カルミナのすぐ傍に降り立つ。

 

「怪我はない?」

「少し裾が切れただけ」


 カルミナは勢い込んで尋ねる女に笑いかけながら視線を下げた。すらりと引き締まった太腿を包むズボンの右裾が少しほつれていた。

 

「それよりアイビシアはどうだ? 私のすぐ後ろを飛んでたけど、あいつの攻撃を受けてないか?」

「こっちも問題ない。ほかの皆もね」


 カルミナがアイビシアと呼んだ女は、淡褐色の目に安堵の色を浮かべながら顔を上げた。二人の周りでは、白い翼の群れがゆっくりと旋回しながら警戒に当たっていた。

 それを眺めながらカルミナは小さく息をついた。改めて空中に膝をつく。

 

「カルミナ、ごめんなさい。まさかこの高さまで斬りかかって来る奴がいるとは思わなくて、下の警戒が弱かった」

「謝るのはこっちのほう。それを想定していない編隊を組ませたのは私なんだから、責任は私にある」


 うなじから垂れ下がる髪を押さえながらカルミナは眼下の森を見据えた。

 たった今、森の木々よりも遥かに高い位置を飛んでいたカルミナを襲い、そして逃げ去った戦士の姿はすでにどこにもなかった。

 空気を砲弾のごとく撃ち出すカルミナの真韻術を喰らい、高高度から地面に叩きつけられたはずなのに、落下地点と思しき場所にはそれらしい形跡は見当たらない。

 カルミナの目には、まるで闇そのものが具現化したかのような漆黒の真気を操る姿と、黒としか言い表せない禍々しい光を放っていた瞳が焼き付いていた。

 地上を凝視するカルミナに、アイビシアが潜めた声で尋ねる。

 

「もしかして……あれがアルテネの〝剣の悪魔〟?」

「たぶん。噂によれば〝剣の悪魔〟は黒い真気を纏っていたという話で、そしてさっきのあれが使っていたのも黒の真気だったから間違いないだろう。モンタルサスとの戦いで、敵兵千人以上の腕を切り落として勝利をもぎ取ったアルテネの鬼神。耳にした噂の数々は尾ひれがついたものだと思っていたけど、あの戦いぶりからすると、どうやら噂が正しいらしい」

「それなら追撃する? 今なら奴は単独で行動しているはずだから、始末する好機だけど」

「いや、やめておこう。ここは奴らに地の利があるし、逃げたふりをして私たちを待ち受けているかもしれない。今回は奇襲の撃退が目的で、それは達成したからよしとしよう。撤収するぞ」

「了解」


 アイビシアは頷くと、左手首の腕輪を右人差し指で叩き始めた。

 それを横目に立ち上がったカルミナは、もう一度眼下の森林へと目を向けた。

 〝剣の悪魔〟がカルミナに最接近したあのとき、漆黒の刃を構えた悪魔は剣撃を放つことなく通り過ぎていった。カルミナの目をじっと見つめながら。

 攻撃できるのに、それを実行しなかったと、そのようにしか思えなかった。

 そこから考えられることは一つしかなかった。

 あの悪魔は、いつでもカルミナを殺せると言いたかったのだ。

 カルミナはぐっと拳を握りしめた。

 

「悪魔め。次はこうはいかない……!」

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