film5

 からんころん。遠い昔の小さな鐘の音。


「……こんばん、は」


 控えめな入店。


「……こんばんは」


 そっけない歓迎。

 僕はほっと胸をなでおろす。同時に気が触れそうなほどにひどい幸福感に襲われた。

 ああ、なんてことだろう。こんな幸せなことがあっていいのか。散々な金曜日の最後を、素晴らしいミルフィーユで飾ることができるだなんて……。

 胸中の虚無から呆気ないほどに狂喜が沸き立つ。

 席はどこにしよう。いつもの隅の窓辺周辺の席もいいけれど、いつものカウンターの端の席もいいかもしれない。絶対に話しかけてはくれないでくれる居心地の良さを味わいたいような気もしているが、しかしひとりきりで悦に浸りたいような気もしている。悩ましい……。


「いらっしゃいませ」


 思わず、体が震えた。顔を上げると、いつかどこかで見たような、見覚えがあるようなないようなよくわからない……メイドキャップをかぶった高校生ともつかない女性が微笑を浮かべて前に立ちはだかっていた。


「…………」


 動く気配がない。なんて返したらいいんだろう。

 おじゃまします。いらっしゃいました。二回目のこんばんは。お久しぶりです……?

 良いフレーズがうまく浮かんでこない。


「こちら清掃中ですので、個室のほうを利用していただいてもよろしいでしょうか?」


 ああ、なるほど。得心する。

 僕という閉店間際の来客が迷惑極まりなかったのだろう……。


「構いません。遅い時間に、申し訳ないです……」

「いえいえー」


 作ったような笑顔に、僕は肩をすくめて萎縮する。店内を改めて俯瞰ふかんすると、どうやら他に客はいないようだった。ますますもって、居心地の悪さと申し訳なさに拍車がかかり、自分がわけもわからず一家団欒の食卓に飛び込んだ場違いなネズミになったような居心地の悪さと罪悪感に襲われた。

 ウェイトレスに案内されるままについていく。


「コーヒーとミルフィーユか?」


 しゃがれた低い、不愛想な声音。


「そうです」

「…………」


 カウンターから射かけられる鋭い眼光、しかし不快感はない。なぜだか気遣いを感じる老いた深い瞳。

 少しだけ、心が休まる。自分のことをよく知っていてくれる人がいる。それしか頼まないことを知ってくれている。押しつけの善意も、支配的なサービスも、僕にとっては恐ろしくてたまらない。地続きの日常がきちんと存在している事実に僕は確かに自分が毎日生存しているらしいことを再確認できた。

 しかし地続きの物事が安息を与えることがあるとはいえ、おおいにその例外は存在する。


「あの……これは?」

「オペラ・ルージュです」


 着席し、すぐさま差し出されたソレを見て、僕は頭をなぐられたかのような衝撃を受けた。

 テーブルに置かれた皿は、見覚えのある装飾を施された黒檀のドーム。幾重にも重ねられたチョコレートとクリームの層の中に真紅のベリーと桜で練られたソースの核があると思われる期間限定スイーツ。

 僕は愕然とする。


「……あの……ミルフィーユは……?」

「のちほどお持ちします」


 のちほど。のちほど……?

 こんな重そうなデザートを食べたら、次に食べるメインが色あせてしまう。満腹と満足の渦中かちゅうで一番食べたいものを食べるなど、もはや踏み絵にも等しい、いやそれ以上の冒涜的な行いだ。


「さすがに、困ります。マスターには、ミルフィーユだってきちんと伝わってたのに……」

「サービスです」

「……無料ですか?」

「無料です」

「……断っても構わないでしょうか」

「するとこのオペラはゴミになります」


 そういうことは客の前で言わないのが業界のマナー、むしろ良心というものなのではないだろうか……。

 それにこのウェイトレスの押しつけがましい様子や言葉を見て取れば、どうやら閉店間際に来た僕という迷惑な客に残飯処理を頼む心づもりらしい。


「……持ち帰りテイクアウトは、できますか……?」

「できません」

「…………」


 がくりと肩を落とす。どうやら気に入りの喫茶店は意地悪なウェイトレスが闊歩かっぽすることによって、気軽に出入りできない地獄と化してしまったようだった。

 そもそもよく考えれば、ウェイトレスでなくマスターの手間を考慮するとカウンターの席のほうが負担も少なかったように思える。なによりこの意地悪で悲惨な状況の可能性を予測しカウンター席を無理やり頼んでおけば、常連として一人の客として、ウェイトレスに嫌がらせをされる機会も隙も作らずに済んだのではないだろうか……。

 急転直下、厄介な状況に陥って僕は空腹もあいまってかひどい頭痛に襲われた。


「ミルフィーユを……先にすることはできないんですか……?」

「チョコレートは溶けやすいので駄目ですね」


「……帰ってもいいですか」

「全部、ゴミになりますよ」


「……僕が、何をしたというんですか。何も悪いことをしていないのに……」

「ふふ、そうですねぇ」


 ウェイトレスは僕が悩むさまを愉し気に眺めている。深夜の来客はそんなにもアルバイトの機嫌を損ねるものだったのだろうか。ここまで執拗な嫌がらせをしたいと人を突き動かすほどに、強烈で抗いがたい衝動性を持った恐ろしい引きトリガーとなりうる出来事なのだろうか。


 来るんじゃなかった。


 僕はようやく後悔し始める。こんなひどい目に遭うのなら、真っ暗な部屋でインスタントスープを作ろうと簡単調理に格闘するほうがまだマシというものだった。

 疲労が思考と結合し、苛立ちを通り越して諦めの境地に突入していくのをどこか遠くに感じている。


「……じゃあ、ミルフィーユが来るまで待ちます。オペラがどろどろに溶けても、先にあちらが食べたい」

「困りますお客様」


 困ります? 僕が困ります。

 別にお客様を神様扱いしてほしいとは思わないけれど、食べたいものを先に食べる主張くらいは店員も認めても良いのではないだろうか。高級料理店やセレブの集う高級喫茶ならばコーヒーとデザートどちらを先に口にすべきかといったマナーはあるものなのかもしれない。しかし庶民向けのこの古風な喫茶で突然そのような押しつけのサービスを提供された上に食事順までウェイトレスの裁量で決めつけられてしまうのは、なんだか釈然としない。納得がいかない。


 そこで、はたと奇妙な。直感としか思えない不吉な予感が脳裏をよぎった。

 もしやこの中に何か、恐ろしいものが混入されているのではないだろうか。

 この個室に案内したのも彼女の都合であり、マスターにはミルフィーユとしか伝わっていないはずなのにオペラを持ってきたのもまた彼女だった。そして、決してミルフィーユを先に食べさせようとはせず、さらには店のスイーツを生ごみにしてやると脅迫までして帰そうとはしない始末……。


 ……考え過ぎだろうか? 海外サスペンスの読み過ぎか、ご都合主義か、はたまたどこかで見たストーリーの引用か。

 閉鎖空間に軟禁されたまま、僕はどうにかミルフィーユを食べて帰ることができないかと思考を巡らせる。

「君は、僕に残飯処理を頼みたいのかな」


 情報が不足している。どうにかして、この障害物を丸め込みたい。


「まさか。ただのサービスですよ、常連さんということですから」


 やはり考え過ぎだろうか。マスターは何があっても不干渉の人だと思っていたが、思いのほか人目に付かないところでは情が深い、ということなのかもしれない。


「でも常連ってことを知ってるなら、僕がミルフィーユしか頼まないこともよく知ってくれていると思っていたんだけれど。あれが、好きなんだ」


 そうだ、顔なじみだからこそマスターは僕がどれだけミルフィーユに執心しているか知っているはず。こんな素晴らしいスイーツを作り上げる人間が、メインの前にこんな重いチョコレートを差し出されて喜ぶはずがないことは熟知しているはずだ。

 量さえ詰め込めばしゃこうしんを煽れると思っている飲食店と、胃袋に詰め込めるだけ詰め込んで得したと思い込みたい豚のような自称美食家の関係とは違うのだから。

 しかし、と疑念が浮かぶ。

 するとこの女性は僕の気に入りの喫茶店を日頃貶めている……?


「常連さんだからこそ、もっといろいろな味を知っていただきたいと思いまして。ほかのメニューは食べたこともないのでしょう?」

「そうだけど……」

「コーヒーとミルフィーユの味しか知らないでいるなんて、常連さんといえるんでしょうか?」


 挑戦的な態度。

 本当に、僕はウェイトレスをここまで怒らせるようなことを何かしただろうか……。


「……食べたいものを食べるのでも、別に良いじゃないか」

「知識も味も広く知らないと」


 彼女は暇か。暇なのか?

 僕は自らの気がひどく落ち込んでいくの感じ取った。この会話に意味はあるだろうか。いや、あるはずもない。ミルフィーユを食べられないのでは、意味がない……。

 いったい何を企み、悪意を画策しているのだか。

 フォークを左手でつまむ。そこでまた、卓上にはナイフとフォークしかないことに気が付いてげんなりとした。


「……フォークは、二本お願いしたいな」

「…………」


 ウェイトレスは無言で微笑んでいる。どうやら食べるまでは退出してくれるつもりはないようだ。

 なんだか僕は意地悪な心地になって、あえてナイフを使わずフォークのみでオペラ・ルージュのドーム状の立体を両断するような形でゆっくり、ふんわりとフォークで分断していく。金箔と桜の花びらが銀の食器により離ればなれになっていく。


 すると、生臭いような酸っぱいような、記憶にある薫りが鼻をついた。

 両断された黒檀のドーム、その幾重にも重ねられたチョコレートの層の断面の中央部からどろどろと。緋色のソースと赤黒い大粒の欠片が皿に流れ出し赤い海を広げていく。鉄臭い匂いがふわりと舞い上がってきた。しかしどことなく桜の香りもしているような気配がある。

 僕はカチリと、フォークを皿に置いた。


「……食人カニバリズムの趣味はないんだ」

「美味しいですよ」

「君がこれを?」

「はい。ソースと仕上げを」


 良かった。マスターが作ったのではないらしい。ほっと胸をなでおろす。気に入りの場所でそんな惨劇が繰り広げられているとは思いたくなかった。

 しかしするとますます、このウェイトレスは店の看板とキッチンを血と不名誉の泥でひどく汚しているということになる。


「加熱調理してありますし、事前の血液検査も良好でしたので口にしても大丈夫ですよ」

「……彼女のかな」

「そうです」

「……なおさら、食べたくないな」

「そんな、もったいないですよ」


 僕はだんだんと状況を理解していく。そうして、疲れた頭ながらもうんざりするほどに推理が展開されていくのを遠くに感じていた。

 おそらくこのウェイトレスこそが、彼女――桜の下で銃殺した自殺志望の彼女の共犯者だったのだろう。

 そして、決行当日。彼女が僕に対して携帯電話や怪しげなスイッチといった物質的強迫手段を持たなかったのはこのウェイトレスという協力者がいたからに他ならない。何か予定外があればそのウェイトレスが僕の家族を殺害するか、なんらかの被害を及ぼす手段を講じる手はずだったはずだ。それに抱きしめ合った場面も、メスと魚包丁を手に彼女の核を探していた時も、きっとこのウェイトレスはどこからか見ていたのだろう。

 また、厄介な人物に目をつけられてしまった。


「ひとつ訊きたいんだけど」

「はい」


 無垢な微笑。あるいはそれを装った微笑。


「君は、僕にどうしてほしいんだ」

「協力してほしいです」


 何を?

 椅子の背に、体を預ける。まるで囚人にされたような気分だった。罪状は、閉店駆け込み罪といったところだろうか。

 愚考しているとウェイトレスは真白なテーブルクロスが張られた卓上に三枚の見知らぬ人物写真を並べた。


「自殺志願者です。殺人希望だそうですよ。報酬は左から十万、四十万、六百万。値段があがるほど、難易度が高くなっていきます。うふふ、面白いでしょう?」

「……困ります」


 肩をすくめる。そんなこと、できるわけがない。

 そもそも、彼らが彼女のように根っからの自殺志願者であるかどうかさえ判断材料がない。なによりそのような厄介ごとに自ら関わっていきたいとも思えず、また、この陰湿で意地の悪いウェイトレス直々の話を喜んで聞こうとはつゆほども思えなかった。


「でも、いつもやっていることでしょう?」

「いつもじゃない」

「あの人が終わってからもう六人目じゃないですか。一人二人増えても、変わりませんよ」

「……ミルフィーユが食べたいな……」

「食べたら帰るつもりなんでしょう?」


 なぜ食べたいものを食べた後に帰ってはいけないのだろう。居座られるのが嫌なアルバイトなら、まさに僕は良客のはずだというのに。

 話に疲れて額に手を当てる。


「どうしましたか?」


 生温かい温度。


「熱でもあるかなと思って。頭を使ったり、無駄に話をしていると額が熱くなるものだから」

「熱くなっていましたか?」

「いや全然」

「そうですか」


 僕は重いため息をついて、腕時計を確認した。あと数分で零時だった。一体どれだけの間、このウェイトレスの意地悪に付き合っていたのだろう。どれだけ至福のおあずけを喰らわせられていたのだろう。

 なぜこんなにも、悪目立ちしたり意地悪な人に目を付けられてしまうのか……。

 血濡れたフォークの柄でオペラの艶やかな黒檀の外壁をズルズルと剥がす。誰かが見ていれば食べ物で遊ぶだなんてと嘲笑のネタにでもするだろうが、そういう輩はここには一人しかいない。

 作業はいい。作業は無駄な思考や自己嫌悪を切り離してくれる……。

 僕は諦め、妥協することにした。


「……なら、あとで話そう。二人きりで」


 この気に入りの喫茶店を離れられるのならなんでもいい。


「桜の木の下で?」


 それは暗喩(暗喩)のように。


「それでもいい」

「穏やかじゃないですね」

「君が言った」


 露骨な示唆しさ。悪戯な微笑と気まぐれな悪意は調子はずれの狂詩のようですらある。


「もちろん、引き受けてくれますよね?」

「もちろん」

「ちなみにもうお分かりだとは思いますが――」

「家族のことだね」

「あれ、本当にもうわかっていたんですね。意外です」

「……」


 僕は静かに目を閉じる。

 家族の命がかかっている。では、なんとしてもどうにかしなければ……。


「では今回は脅迫しないでおきます。楽しいことのスタートラインが見えているんですからね」

「人が死ぬのに楽しいだなんて……」


 ウェイトレスは恍惚とした様子で自身の頬に手を当て、嬉しそうに笑みを咲かせる。

 そんな様子と、どこか懐かしいような猟奇的で強制的な、イケナイ領域への誘引剤のようなこの室を満たす気配にだんだんと頭がくらくらしてきていた。


「……では先に、あの方の時と同じ場所で待っていてくださいね」

「わかった。ところで――」


 どうやら話は済んだようだ。意味深な瞳と表情を浮かべるウェイトレスを上目にうかがいつつ、僕はそろそろ確認したいと思っていたことを訊いてみることにした。


「……ミルフィーユはまだですか?」


 ウェイトレスは肩をすくめて、苦笑した。


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