film4

 上司に怒られた。

 ひとつは寝坊による遅刻。ふたつ目は電話を取ったのに取引先の話をメモし忘れたこと。みっつ目は焼きそばパンを買ってくるパシリ役として面白い醜態を見せられなかったこと。よっつ目は得意先の社長の娘さんからの個人的な宿泊付きディナーの誘いを断ったこと。いつつ目は罵倒するためにお茶を淹れさせたのに思いのほか旨かったらしいこと。むっつ目は就業時間終わりに物置に呼び出された時間を少し遅刻したこと。ななつ目は……やっぱり、気に入られていないからかなぁ……。


 肩を落とし、帰路を歩く。

 ワイヤレスイヤホンからはノイズと共にラジオの音声だけが流れてきていた。音楽プレイヤーの中には一切の音楽ファイルが入っていない。

 語学に限らずリスニング学習は社会人の常識だとかで親戚に十万円で売り付けられた容量五ギガバイトの中古品だったが、歌えないし歌も聞かない。良い曲だと思っても手元に置いたり、積極的に聞こうとは思えない僕にとっては、天気予報やニュース、時には電車の遅延なんかも伝えてくれるこのラジオ視聴機能付きの音楽プレイヤーがとてもありがたかった。


[明日は晴れですか。今年は花粉も少ないらしいですし、お花見日和ですねえ]

[桜は今月中旬までということですので、家族や友達と一緒にお出かけするのに最適ですね]

[花見といえばボク、この前さあ――]


 穏やかな会話。

 夜、閑静な住宅街を行く僕にとっては唯一の安らぎであり、頭を回さないようにしてくれる便利な麻酔薬。

 疲れた頭は余計なことを考えてしまいがちだ。職場の嫌がらせはこの先エスカレートして、今よりももっとひどい扱いを受けるようになるのではないか。もしウチの会社との取引停止をちらつかされでもしたら、あのワンマン気質で支配的すぎる得意先の社長の娘さんに無理やり婿入りさせられて、道具みたいな一生を過ごすことになるんじゃないか。むしろこれを機に、若いからと自分の時間を全て取り上げられてしまうのでは……。

 彼女と桜の下で抱き合った感触を思い出す。あの刺激的な、恐ろしい甘い香りが昨日のことのように五感に錯覚としてよみがえる。

 足りない。まるで、足りそうにない……。


[……――桜の木の周辺は危ないので、夜間の外出には注意が必要ということですね]

[今月だけで六人。夜桜も美しいですが、行くとしても決して一人では出歩かない、必ず家族か友達と一緒に――……]


 胸の中が空っぽになったような虚無感だった。この皮の中身には心臓やら肺やらがあるはずだというのにただただ、胸の中に真っ暗闇の穴だけがぽっかりと口を開けている幻肢痛にも似た錯覚症状が続いている。

 その感覚はあの一件以降から続いているような気もするし、前々からそういう気質だったようにも思える。何かを渇望しているような気もするが、結局のところ底の抜けたコップに何を入れても溜まらないように、実際はどういったものやことを求めているのか自分でも判然としなかった。


 それでも、いまの生活にそれほど不満はない。

 いつもいつもいろいろな人に所持金をむしり取られて貧しい生活を送ってきたが、いまは何を取り上げられたり奪われても、一千万円の貯金があるのでそれほど悩ましくはなくなった。食事も栄養不足で倒れない程度にサラダや魚を食べることができている上、なによりあの気に入りの喫茶店に貧しすぎるあまり通えない……なんてこともなくなった。


 それはとても、素晴らしいことだった。


 普段何も甘いものを口にする機会がない僕にとって、あの喫茶店の極上のスイーツは唯一の心のよりどころだった。あのミルフィーユを食べさえすれば、全て忘れられる。全て些末なことに思える。いまは気軽にコーヒーも頼めるから、文字通りマスターに用意された極上の午後のティータイムを過ごせるというわけである。


 ああ、そうだ……。


 僕はふと足を止める。街灯がひどくまばらな暗い路肩に、一件の古風な喫茶店が窓から暖色だんしょくの光を漏らしてたたずんでいた。

 腕時計を見る。現在十時三十分。

 閉店時間はいつだったろう。十八時だったような気もするし、二十三時だったような気もしている。いや、たしか曜日で営業時間が変わっていたはずだ。たしかホームページに変更があるときは掲載されていたはずだったが、思えば今日は目の回るような忙しさとプレッシャーで見る余裕がなかった……。


 少し、胸が高鳴る。

 気が付けば何かを強く欲しいと思うことなどなくなっていた灰色の日常だが、一度差し出された至福を簡単に忘れてしまえるほど、無私無欲の労働力というわけでもない。

 思わず一歩、足がそちらへ踏み出そうとする。その瞬間、眼前を黒い車が勢いよく。それこそき殺すような勢いで通り抜け、驚いて後ろによろけた。

 一瞬遅れて、冷や汗が噴き出す感覚が襲ってきた。些細なことだというのに、心臓がひどく乱れている。


「……ふ、くく」


 笑ってしまうほどに、恐ろしいできごとだった。

 単純にして明快。子供も大人も老人も、等しく車道に飛び出せばフードプロセッサーに投入された肉塊のように骨ごと粉砕される。地位ある人も、貧しい人も、健常者も、障碍者も。みな平等に。

 財布を確認する。所持金は、札類は没収されたので小銭ばかりだが九百八十円。万が一の交通費に取っておいてある靴底の一万円を考慮すれば、深夜のティータイムの参加費には十分足りそうだった。


 僕は笑いが収まるのを待って、その気に入りの喫茶店へ向かった。

 扉には『OPEN』の札がかかっている。変え忘れ、ということでなければどうやら営業中のようだった。曇りガラスからは、ただ明かりがついているということ以外には中の様子はうかがい知れない。イヤホンをポケットに押し込み、洋風な丸いドアノブに手をかける。

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