第9話 8

その日、私は屋上に出た。

 その日は、水曜日だった。週に一日、水曜日だけは屋上の鍵が開いているのだ。

 理由はなかった。強いて言うなら、学校生活、一度くらいは屋上に出てみたかったというのが多分、理由だ。

 初めて出た屋上、正直なところ自宅マンションと同じか、それよりも低いので、感想もなにもなかったが。

 私は、学校の屋上というものに、何かロマンのような何かを感じていた。感じすぎていた。

 青い澄んだ空も、吹き抜ける風もそこにはなかった。あったのは、遠くの雨雲から、雨の日特有の憂鬱になる匂いを運び続ける夕暮れだった。

 ただ、ロマンは裏切られたが、ロマンスは私を裏切らなかった。

 私の目の前には、漠然としたボーイミーツガールが、ずうずうしく、映画のように、フェンスに寄りかかっていたのだ。

 藤村くんはこっちに気づくと、振り向いて、「おう」とだけ言った。

 これだけでは何気ないロマンスのワンシーンなのだが、彼は、フェンスに寄りかかっていた彼は、靴を履いていなかった。

  そして、彼の横には、綺麗に揃えられた靴が、夕日につま先を向けて、置いてあった。


 その時私の中から出てきたのは、自殺者って本当に靴を脱ぐんだなあ、という、危機感も何もない、つまらない感想だった。彼の自殺に関する疑問でも、彼を止めようとする意志でもなく、そんな感想だった。

 そして、理性が生成した言葉は、遅れてやってきた。

「なに、やってるの?」

 私がそう聞くと彼はなにも言わず、ただ、首を横に振った。

「なに、それ」

 私は苦笑いしながら、彼に近づいた。私たちの影は平行線を伸ばしていく。

「靴、履いたら」

 彼の足を指差しながら、言った。私は変に落ち着いていた。

「そうだね」

 はじめて彼は口を開いた。彼は横の靴を履くと、こっちをじっと、じっとじっと見つめてきた。

 茜色の空は夜へと変わりゆき、影の平行線は薄くなっていく。数秒間の沈黙はあまりにその夕暮れとマッチしすぎていて。

「死のうと、思ったんだ」

 おもむろに、彼は口を開いた。声は低く、落ち着いているように見えた。

「死のうと思ったんだけど、いざ死ぬとなると、こう、ためらうんだ。なあ、地面と激突すると、どれくらい痛いのかな?」

 本当に死のうと思っているような台詞ではなかった。しかしただ、自分に、自分の全てに絶望したような表情だった。

「毎週、ここにいるの?」

「お見通しか。そう、毎週ここに来て、ためらって、帰るんだ」

 模試の時あった彼と、懐っこい笑顔の彼と、同一人物とは思えない顔だった。

 ただ、彼のその自虐的な笑みは私にはロマンチックすぎた。強度不足な私の心は揺れる。ゆらゆら、ぐらぐら。

「ためらうんだ。やり残したこととか、あるんじゃないかって」

 ここで、理性は無くなった。脳のウェルニッケ野もブローカー野も、最適な言葉を生成しない。ならば私のここからの言葉は、どこから出ていたのだろう。心か、はたまた……

 彼は私を見つめる。日は完全に落ちて、遠くのビルの光がつき始めるのが見える。

「ごめんね。こんな話聞かせて。僕は、どうしようもないクズだから」

 彼の言葉を否定も、肯定もしない。私の話す言葉は、決まっている。誰が決めたのかわからないけど、決まっている。

 彼が下を向いた瞬間、肺から送られた空気が声帯を鳴らす。

「やりのこしたこと、やりにいこうよ。そしたらさ、」

 私は息継ぎをする。息を吸って、唾を飲み込み、再び声を鳴らす。

「私が、痛みなく、死なせてあげるから」

「私も、一緒に、死んであげるから」

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