5-4

 放課後のホームルームが終わったあと、てきぱきと荷物をまとめた優都は、教室を出る前に千尋の席で足を止めて「部活に行こう」と声をかけた。

「行くの?」

「うん。土曜の練習から一本も引けてないし」

「ぶっ倒れねえ程度にしとけよ」

「元気なつもりなんだけどな」

「いまのとこ、そこの信頼ゼロだぜおまえ」

 そう言いつつも、昼からすれば顔色自体は良くなっているように見えたし、優都にとって、いまは丸二日も練習に穴を開けてしまったことへの焦りの方が大きいのだろう。

 部室にたどり着き、雅哉や後輩たちに囲まれて口々に心配の言葉を並べられた優都は、その中心でどことなく居心地悪そうに笑っていて、いつものように「大丈夫だよ」を繰り返していた。拓斗だけがある程度距離を置いた場所でそれを見ていて、千尋が彼に目線をやると、拓斗はふいと千尋から目線を逸らした。

 練習が始まったあと、優都は相変わらずきびきびと背筋を伸ばして弓を引いていたけれど、十一月の新人戦以来、春からずっと右肩下がりだった彼の弓の調子は完全に底を叩いてしまったようで、持ち味だったぶれのない射形が嘘のように安定感のない行射を繰り返すようになっていた。分析や練習を重ねても、むしろ重ねるごとにあちこちに粗が浮かぶようになっていく射に、優都は目に見えて苛立つことももう嫌だと吐き捨てることもしなかったけれど、追い詰められているのはたしかだ。「俺じゃ全然力になれなくてまじでふがいない」と先に雅哉が弱音を吐くほどで、優都の背中を眺めながら、やるせなさそうに顔をしかめていた。

「あんだけ続いたら俺だったら折れる」

 個人練習の時間、優都に頼まれて彼の行射の動画を撮ったあと、雅哉は優都には聞こえないようにぼそりと呟いた。射位から戻って来た優都は、拓斗が後ろで自分の射を見ていたことに気付くと、「どうしたらいいと思う?」と肩を落として問うていた。

弓手ゆんでが負けてるのは自覚あるんだけど……」

「それ意識して握りすぎてません? どっちかってと、胴造りの時点で歪んでるから引き分けで肩張れてない感じしましたけど」

 拓斗はわりと素直に優都に助言を返し、優都もそれを真剣に受け止めていた。二人に近付いて行った雅哉を加えた三人であれやこれやと話し合ったあと、優都は「型を見直してくる」と巻藁に向かい、同じく巻藁の前に立っていた由岐の隣でゆっくりと体の動きを確認していた。

 いつも練習時の的中を記録しているホワイトボードの優都の欄には、今日はとりわけ見ているほうが苦しくなるほどバツ印が連なっていた。今年度から入部してきた拓斗と由岐以外は、ここに二重丸が連続していた時期を知っている。だからこそ、優都自身も周りも、どうしようもなくやるせなさが募っているのだろう。

 それなりの時間を巻藁の前で過ごしたあと、優都は再び矢を取って的前に戻ってきた。射場の一番端に立ち、ゆっくりと息を吐いた彼は、祈るように一瞬目を閉じてから、的を見据えて弓を打起こした。

 四射をすべて引き終えたあと、優都はしばらくその場から動かなかった。表情を隠して俯いていた彼は、唇を引き結んで立ち尽くしている。「森田?」と雅哉が名前を呼ぶと、優都は顔を上げ、ようやく射位を離れた。

「もう駄目なのかな、僕」

 雅哉がどうかしたかと問うより先に、優都の口から零れた言葉にだれもが驚いたし、優都自身も言ったあとはっとしたように口をつぐんだ。優都は愚痴や泣き言を言わない。中学のころから、なにに対してもそうだ。意識的なのかそうでないのかはわからないが、彼がその献身を向けているものを諦めようとすることなどいままでなかった。いまのままでは駄目だと思ったとしたら、なんとか改善する策をすぐさま考え続けるような人間だった。

「大丈夫か? おまえ、最近きつそうだぞ」

「――ごめん、すこしだけ頭冷やしてきてもいいかな。すぐ戻ってくる」

 雅哉にそう告げるなり、弓を置いて早足で道場を去っていく優都の背を、皆が皆戸惑いながら見送るしかできなかった。、自ら練習時間に道場を離れたことの衝撃は大きかった。我に返ったような雅哉の指示でめいめいが練習には戻ったものの、どこか意識の浮ついてしまったような雰囲気はぬぐえない。


 優都はそれから十分もしないうちに戻ってきて、心配の表情を見せる部員たちに「ごめんな、大丈夫」と頭を下げて苦笑してみせた。

「情けないところを見せてばっかりだな。申し訳ないよ」

「優都先輩は、情けなくないです」

 きっぱりとそう言い切ったのは潮の声だった。彼は優都を見つめて一度言葉を飲み込み、再び口を開いた。

「調子悪くても、うまくいかないとき続いても、腐んないで諦めないでだれより頑張ってずっとめちゃめちゃ努力してたの知ってますし、優都先輩なら大丈夫って信じてるんで――」

「潮」

 熱の入ったその言葉を千尋が遮ったのは、ほとんど無意識だった。潮の言葉を聞きながら視線をわずかに床に落としていた優都の目も千尋に向いた。

「いい加減にしてやれよ」

 彼が、静かにそう言ったとき、だれひとり視線を動かすことすらできなかった。だれよりも静かに、なにも目立つことは言わないままにこの部を支えてきた人間が、いま、だれよりも冷たい声でこの場所の時間を握っている。

「優都がおまえのこと信頼してたから、ずっと黙って見てたけど、ここまで来て気付かねえんじゃもう駄目だろ」

「千尋、」

 ようやく千尋の名を呼んだ優都の声は繕いようもなく慌てていたけれど、不安を滲ませながら親友の表情を見遣った優都を、千尋は目線だけで制した。なにも言えず押し黙った優都と、うまく表情の窺えない千尋とを交互に見ながら、潮は震え始めた呼吸を飲み込んだ。

 千尋はこの五年間、ほとんど後輩を怒ったことがなかった。部員を叱るのはいつも優都か雅哉の役目で、千尋はむしろ怒られた後輩のフォローにまわる側の存在だった。その千尋が、理性だけで隠しきれないほどの怒りを孕んで、いま自分に相対しているという事実は、それだけで潮の首を絞めた。手足の先が温度を失っていく感覚が鮮明だ。この冷たさは、潮が昔から知っているものだった。

「優都に大丈夫でいてほしいのは、――優都が折れたら困んのは、おまえのほうだろ」

 千尋も、揺れかける声は意識的に抑え込んでいた。純粋な尊敬と憧憬に見せかけた作為が、潮自身の知らないところで、確実に優都を削り取ってきているのを、千尋はずっと隣で見ていた。それでもなにも言わずに傍観していたのは、当事者たる親友が、それで構わないとはっきり言い切ったからだ。潮がそのことに無意識であることが、千尋にはなにより恐ろしかった。僕は大丈夫だよ、と言う優都はなにもかもわかっていて、だというのに笑っていられる強さを持った親友のことを、なにも知らずに消費し続けられる後輩の行為が、その盲信をどうにか受け入れようと前を向き続ける親友の姿が、どうしたって、ただ怖かった。

「そりゃあ、価値観も、善悪の判断も、生き方も、他人のもんを全部まるごと使わせてもらえたら楽だろうよ。――おまえは、そうやって優都のこと追っかけてりゃ、なんも考えねえですむから、そうしてただけだろ」

「そんな、こと」

 やっと発した潮の声は掠れていたけれど、千尋はそれには耳を貸さなかった。「潮、おまえさ」と千尋が言葉を続ける。俯いた潮が恐る恐る顔を上げるまで待って、千尋は潮の視線を捉えた。自分の言葉に怯え切った瞳の色が、もうこれ以上はやめてくれと懇願するように微かに揺らいだ。千尋が息を吸った瞬間、潮は瞼を閉じた。

「ほんとうは、優都みたいに生きたいなんて思ったこと、一度もねえんだよな」

 その事実を、かつて千尋に教えたのは優都自身だった。「潮はね、」と語る言葉すらが、彼を慈しむようでいて、どこか息苦しそうでもあった。

「あいつは、ほんとうは、僕みたいな生き方のことは軽蔑しているはずなんだよ」と、優都はそのとき、微笑みながら続けた。

 どういう意味だと問うた千尋に、優都はわずかに肩を竦めてみせ、「言ったままだよ」と返した。目を細めた彼はしばらく沈黙したあと、千尋に視線を戻し、口を開いた。

「ずっと、そうやって育てられてきたはずなんだ。才能のない人間はそれだけで無意味で、能力もないのに無駄な努力を続けることなんて見苦しいし滑稽だ――って。能力が、才能があることこそが至上で、なによりも美しいことで、いくら努力を積んだとしてその絶対性には決して敵わない。潮はね、そういう価値観を引きずって、それでもそういうふうに生きることができなくて、自分のことをいまでも認めることができないんだ」

「――だから、おまえのことをあんなに追っかけんのか」

 自分の価値観に嘘をつく、というのが、容易なことでないのはわかる。その価値観が、自分の根底を為すものであるほど、それは困難だ。他人を盲信するというのはたしかに合理的な手段ではある。特別に才能があるわけではなく、けれど努力だけは人一倍実直に重ねていて、そうして培った実力には矜持があっていつでも背筋を伸ばしていられる、森田優都という存在は、その意味での最適解だ。結果が出せなくても何度も立ち上がってもう一度、と言えてしまう優都の背中だけをひたすら追い求めてさえいれば、たしかに、才能なんかなくても、努力を続けられるということは美しいと思い込めてしまう、という論理は千尋の中にもすんなりと根を張った。優都は、合点がいったように千尋が発した言葉を受け止めて、何度か瞬きをした。

「きっと、そうしないとただ、普通に生きていくことすら、あいつには難しいんだろうな」

 そう、呟くように、自分を納得させるように言った優都の言葉の意味は、いま目の前の潮の表情を見ていると、どうしようもなくよくわかるような気がした。違和感も、確信もずっとあったのだ。潮の優都への偏愛が、まったくの純粋な尊敬ではないということに。それを、たとえば恋のような普遍的な感情に取り違えることがどうしたってできなかった理由も、いまならわかる気がした。それは、他人を愛すことよりももっと根源的で、致死的な問題だ。自分が、自分という連続体であるためにもっとも必要なもの。息をして、明日を迎えるためのもの。

 潮が千尋に反論することはなかった。瞼を閉じたままの潮は、涙こそ流さなかったものの、唇がすこし震えて、そのまま彼は両手で耳を塞いだ。

「いい加減、親でも兄弟でもない他人を利用して、自分だけそのことから目逸らしてへらへら笑ってんのはやめろよ」

 潮の手も、喉も、震えていたのは見えていた。けれど、千尋もそこからは目を逸らした。言わなければいけない、と決めた言葉があった。いまにも瓦解しそうな後輩の姿と、動けずにいる親友の横顔を同時に視界に入れて、千尋は潮を見据え、冷えた冬の空気を吸う。

「おまえの中の勝手なを押し付けて、これ以上優都を潰してくれるな。――頼むから」

 潮の呼吸がひどく揺らいだのが聴こえた瞬間、彼は耳を塞いだまま地面に蹲った。荒い呼吸と湿った咳が静かな空間に重たく響き、京が弾かれたように潮の名前を呼んで駆け寄った。潮を支えようと膝をついた京の横では、由岐が不安げな表情で二人を交互に見やっていて、その後ろでは拓斗が一歩引いたところからその様子を見ていた。優都は苦しそうな表情で、両耳を握りつぶすように掴みながら唇を噛む潮の姿から目を離せずにいた。次になにか言うなら口を挟もうと決意したのか、優都は隣に立つ千尋を見上げたが、千尋は黙って潮たちのほうに視線をやったまま、それ以上はなにも言おうとしなかった。

「ふざけんなよ」

 凍り付いた空間を切ったのは、隠しようもなく震えた京の声だった。あからさまな敵意を孕んだ瞳が、千尋の眼を捉えた。京は、爪が白むほどにきつく指を握りしめていた。京が自分に向ける怒りの正体を千尋はとうに知っていた。それは、つい先ほどまで千尋が抱いていたのと同じ類の感情で、自分にとって大切な存在が、傷ついてほしくないと心から願う相手が、不条理に苦しめられることに対する、失望と悔しさともどかしさが入り混じった、どうにも堪えようのない淀んだ怒りだ。

「わかってたんなら、なんでほっといたんだよ。わかってて傍観してたあんたのほうがよっぽど卑怯だろ。うーやんが、なんも考えねえでいつもへらへらしてたように見えてたのかよ、――そうじゃないのなんて、なんも知らねえ俺でもわかるよ。うーやんも、優都先輩も、どっちもしんどい思いしてんだったら、なんでうーやんだけ悪者みてえに言うの」

 いまにも泣きそうな表情を隠しもせずに、京は真っ直ぐに千尋を睨み、しかし潮の肩を抱く手は離さなかった。

「自分だけはしんどくねえ立ち位置に居るあんたに、うーやんのことを責める権利なんてねえだろ。うーやんはたしかに、優都先輩に悪いことしてたのかもしんねえけど、それに気付かなかったのはこいつだけじゃねえし、わかってたなら、あんたがどうにかしようとすんのが筋じゃねえのかよ」

 京の言葉に、千尋はなにも返さなかった。「なんとか言えよ!」と声を荒げた京の名前を呼んでそれを制したのは、それまで沈黙を守っていた優都の声だった。「京」とひとこと、たしなめるように落ち着いた、それでもいつもよりはすこし上ずった声。どれだけ感情的になった相手にでも、優都の静かな声が届く、ここはそういう場所だ。京ははっとしたように優都を見やり、しかし謝りはせずに押し黙った。

「千尋の言ってることは、正しいよ」

 絞り出すように、優都はひとことそう言って、「僕が、言えなかっただけだ」と続けた。

「ただの虚勢を信じさせてしまっていたのを、わかっていて言えなかった。……ごめん。それを、貫き通すこともできなかった」

 優都は、うずくまる潮と、ついに泣き出してしまった京に視線をやり、あたりをぐるりと見まわして、最後に千尋でそれを止めた。「僕は、」と言った声はだれひとり聞いたこともないくらいひどく震えていて、それに気付いてか千尋は一時だけ優都から目を逸らし、しかしまたすぐに彼の眼に向き直った。千尋は、優都が言葉を探すあいだの沈黙を、だれよりも当たり前のように待っていた。

「僕には、正論では救われないやつに、正しいことを突き付ける勇気がなかったんだ。――正しいことがひとを救うとは限らないし、正しいことがすべてなら、潮があんなに苦しい思いをすることも、なかったはずだから」

 優都の言葉はわずかに揺らいだイントネーションで形作られていて、それも懐かしい、と千尋は過去に思いをはせた。きらきらした目で部の将来を語っていた、背の小さな関西弁の少年の姿を知っているのも、いまここでは千尋だけだ。何度も挫折を味わっているはずなのに、決して本当に折れてしまうことはなく、ひたすらに前だけを見ているのは途方もない強さに見えて、ほんとうのところは優都のいちばんの弱さだ。言葉ひとつ探すのにもひどく時間をかける、喋るのが遅いあの少年は、いつだって、自分を置いて進んでいく世の中に追いついていくことだけにただ必死だった。立ち止まったら置いて行かれるという恐怖に突き動かされてひた走ることを、強さだと言われるたびに、努力をやめることが余計に怖くなっていき、その恐怖から逃れるためにまた走り続ける。それを繰り返して擦り減っていく親友の姿を、千尋はこれ以上黙って見ていることができなかった。

「じゃあ、おまえは、おまえが潰れるまであいつのでいてやるつもりだったのか」

 努力を、不断の努力を積める人間はたしかに宗教だと思う。それと同時に、他人を偶像と呼ぶことは暴力だ。優都はそういう信仰が自分に課せられていることは知っていて、あるいは自らそれを受け容れようととはたらきかけて、他人の呼吸を丸ごと背負おうと息を切らしていた。腐らず折れない清冽な矜持を抱いて、どんな道であっても立ち止まらずまっすぐに歩くこと以外、潮は優都に許さなかったし、優都はそれに応えようと必死だった。

「他人の人生と価値観を、全部押し付けられて、そんなの抱えきれるほど強くもなくて、ほんとうは自分のことで精一杯なくせに、他人のためにおまえが駄目になることはねえだろ」

 千尋の声も言葉も、だれよりもずっと冷静で、彼は最後まで顔色ひとつ変えなかったものの、ただ、このときだけ、一言だけわずかに声が震えた。千尋はその言葉を、優都の眼を見て言おうとして、最後すこしだけ目を逸らした。千尋のその癖を優都は知っていた。彼は、感情をそのまま言葉に乗せるとき、相手の眼を見続けることができない。

「俺は、そんなのはいやだよ」

 だれひとり、そのあとなにかを言うことはできなくて、黙り込んだまま止まってしまった空間の中に、潮の荒い呼吸と京のすすり泣く声だけが響いていた。おそらく、だれよりも潮に声をかけたいと思っているのが優都だと言うことを皆が知っていた。けれど、優都ですら、そこに立ち尽くす以外の行為は許されていなかった。

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