5-3

 拓斗だけが出場権を得た十二月の全国選抜も終わり(基本的に舞台の大小にあまりパフォーマンスの左右されない拓斗は、いつも通り順調に決勝までを勝ち上がったが、決勝の競射で三本目を外して入賞は叶わなかった。一方で同じ都代表の松原はここのところ絶好調なようで、団体こそ入賞を逃したものの個人では準優勝を果たし、帰ってきた拓斗は真っ先に「あのひと今年強すぎるわ」と零していた。)、年が明けて三学期が始まった。高校二年の三学期ともなると、進学についての問題から目が逸らせなくなる。雅哉は早々に翠ヶ崎大学への内部進学に進路を絞っていたから受験勉強に悩む必要はなさそうだったが、優都はかねてから翠大にはない学部に行きたいと言っていたこともあり大学受験の準備を始めていたし、千尋も国立の大学に外部受験を考えていた。優都は変わらず勉強をおろそかにすることもなかったけれど、「都総体が終わるまではできる限り弓道に集中したい」とも口にしていた。

 三学期が始まって二週間ほど経った月曜の朝、千尋は朝礼の準備のために始業前の職員室を訪れた直後、廊下でばったりと雅哉に出くわした。「いいところに」と千尋の顔を見るなり言った雅哉は、ウィンドブレーカーを着込んだ姿ですこし息を切らせていた。

「体育教官室開いてないんだけどさ、道場の鍵って出せねえ?」

「ああ……クラ管がスペア持ってるよ。つーか優都は?」

 道場や部室の鍵は体育教官室と生徒会のクラブ管理局にスペアが置いてあるが、基本的にはメインの一本は部内で管理されていて、弓道部ではいつもだれよりも早く登校する優都の持ち物だ。千尋の問いに、雅哉は困ったように溜息をついた。

「森田が来ねえんだよ。連絡してんだけど、返事もないし。坂川と早川は来てるんだけど、どっちも教官室以外の場所は知らねえって言うから」

「まじか、あいつ来てねえのか。代わりに台風とか来そう」

 純粋に珍しいと思った。優都が遅刻をするところを千尋ですら見たことがない。体調を崩して休むにせよ、彼がそのことについて連絡を怠るということも考えづらかった。

「クラ管から鍵出すのわりと手続きめんどくせえから、適当にパチってきてやるよ。届けに行くからちょっと待ってて」

「サンキュー、助かる」

 雅哉はそう言って来た道を駆け戻って行き、千尋も講堂に向かおうとしていた目的地を変えて生徒会室に足を運んだ。

 千尋が生徒会室から勝手に持ち出した鍵を届けに道場に向かうと、入口の前では潮と由岐が立っていて、二人揃って千尋に挨拶をした。

「ごめん、遅くなった!」

 優都が息急き切らして部室に飛び込んで来たのはその数分後で、駅から相当全力で走ってきたのだろう、足を止めるなり咳き込んで次の句を継ぐまでにしばらく時間を要していた。

「ああ、おはよう、森田。どうした?」

「優都先輩! なんかあったかと思ってめっちゃ心配しましたよ」

 雅哉と潮がほぼ同時に反応して、優都はそれに短く「ごめん」と返すと、呼吸を整えてから、「寝過ごしちゃって」と答えた。

「慌てて家出てきたら、携帯置いてきちゃった。ごめんな」

「おまえ寝坊とかできたんだな」

 千尋のからかうような言葉に、優都は「自分でも絶対しないと思ってた」と返し、もう一度「ごめん」と続けた。

「油断してたのかも……鍵大丈夫だった?」

「教官室閉まってて、矢崎に生徒会室から借りてもらった」

「それは遠出させちゃったな……申し訳ない。というか、千尋、今日朝礼じゃないの? ここにいて大丈夫?」

「ああ、残りは後輩に全部押し付けてきたから別に平気」

「それ平気なんすか?」

「後進の育成的なやつだと思えば」

 でもそろそろ戻るわ、と千尋が立ち上がると、優都は「ありがとう、助かったよ」と千尋に頭を下げた。

「貸しでつけとくから」

「あとで甘いものでも奢るよ」

 そう言った優都は、千尋がコートを着直して部室を出る頃にはもういつも通りの態度で駆け足に朝練の準備を始めていたし、周りも彼の遅刻に関しては特にそれ以上なにも感じていない様子だった。


 朝練と朝礼を終えてクラスで再会した優都とは、三時間目の英語と四時間目の日本史が同じ選択科目で、彼は相変わらず一から十まで真面目に授業を聞き、ノートをとっていた。優都と千尋は、中学一年で同じになってからはずっとクラスは離れていたものの、高校二年でまた五十音の名簿の前後に名前を連ねることになっていた。翠ヶ崎では、文系と理系は選択科目の違いだけで、ホームルームのクラスは区別がなく、高校二年と三年のあいだにクラス替えがない。そのため、文系の千尋と理系の優都であってもホームルームでは同じ教室に机を並べているし、来年もそうであることがいまのところ確実だ。

 四時間目が終わると、優都は昼食もとらずになにか書類を抱えて足早に教室を飛び出して行き、昼休みが終わる十五分ほど前に教室に戻ってきた。優都はいまは持ち主が席を外している千尋の隣席に腰を下ろし、「遠征関連の申請とか片付けてたら遅くなっちゃった」と言いながら、購買で買ってきたらしいサンドイッチの封を切り、ツナサンドを一口咀嚼して飲み込んでから、すこし目を伏せて息を吐いた。

「朝のことへこんでんの?」

「ちょっと。寝坊とかしたことなかったから、久しぶりにものすごく焦った」

「だれだってあるだろ。おまえはむしろその睡眠時間で生きてる方が不思議だよ」

「それは別に平気なんだよ。前からずっとそうだし」

 部室の鍵を持っていながら朝練に間に合わなかったことに、優都は周りが思うよりも自己嫌悪を覚えているようで、考え詰めたような表情をしながら黙々とサンドイッチを喉に送り込み続けていた。優都は拓斗とは対称的に典型的なショートスリーパーだが、日中も眠そうなそぶりはまったく見せずに活動するし、寝起きも寝付きも抜群にいい。

「でも、最近ちょっと寝付き悪くて、それかも」

 だから、優都がそう呟いたことには多少驚いた。「絶対それだろ」と返しつつ、千尋は鞄から取り出したペットボトルのお茶を呷った。

「なんで? それも珍しいじゃん」

「なんだろう。なんだか、こう、まだやり残したことがあるような気がして不安になるんだよな。もうちょっと数学の課題進めときたかったのにな、とか」

「いや、おまえそれさあ……」

 優都がそういったことを、千尋の前であるとはいえ素直に口に出す時点で、本人の自覚はともかくとしてかなり参っているのはたしかだ。「別に昼間そんなに眠かったり調子悪いわけでもないんだけど」と言い訳をして、優都は食べ終わったサンドイッチの包み紙をビニール袋に戻し、袋の口を結ぶ。「そういう問題じゃねえよ」と返した千尋に、優都は「わかってるけど」と軽い溜息をついてから、「大丈夫だよ」とだけ言った。

 その後、始業までのわずかな時間で、空になったペットボトルの二本目を買いに行こうと立ち上がった千尋に優都も便乗し、購買前の自動販売機まで二人で歩いた。朝のお礼と称して千尋の分のお茶の代金を払った優都は、自分の分のコーヒー缶もついでに買うまではいつも通りの表情を浮かべていたが、自販機から教室まで戻るわずかな道のりを歩いている途中、ふいに歩みを緩めて俯いた。

「優都?」

 振り向いた千尋が声をかけるのにも、彼は返事を返さなかった。「どうかしたか」と千尋が歩み寄ろうとした途端、彼は肩を震わせて口元を手で押さえ、そのまま千尋を振り払って教室とは逆方向に向かって走り出した。優都の顔色からはひどく血の気が失せていて、こめかみに汗が薄く滲むのが見えた。

「おい、大丈夫か?」

 階段横のトイレに駆け込んでうずくまってしまった優都は、五時間目が始まるチャイムが聞こえてもまだそこから動けないままでいた。真っ青な顔で床にへたりこむ優都の背をさすりながら、クラスメイトのひとりに連絡を送って、教師への伝言を頼む。優都は苦しそうに何度かえずいたあと、ようやく胃の中身をすっかり吐き出して冷や汗を浮かべながら呼吸を整えた。

「ごめん、千尋……授業始まっちゃったよな」

「いいよ。具合悪かったの?」

「いや、ほんとうにそんなつもりなかったんだけど、急に……」

 息も絶え絶えにそう言った優都は、背を支える千尋の腕に力の抜けた身体を預けた。なまじ普段はタフで規則正しい生活を送っているからこそ、優都は自分の体力の限界に鈍いのだろう。彼の繰り返す「大丈夫」という言葉は、優都にとって嘘ではないのだろうが、本心なのか暗示なのかは自分自身にももはやよくわかっていないのかもしれない。

「今日はもう帰れよ。疲れてんだろ、いい加減オーバーワークだ」

「ちょっと休めば大丈夫だよ、遠的も近いし、練習しないと――」

「おまえさ、いい加減にしろよ」

 いくぶん声を低くした千尋に、優都はびくりと肩を震わせたけれど、すぐにまっすぐに千尋の眼を見た。

「できねえことはできねえし、そうやって無茶ばっかして体壊すまでやって、おまえになにが残るの」

「わかってるけど!」

 珍しく声を張った優都は、指が震えていた。すこし俯いたまま絞り出した声そのものはしっかりとした芯を持っていたものの、優都はそこにいつものように自信を持った正しさを込めることだけができていなかった。

「頑張らないでいるほうが、よっぽど苦しいし、なにもしないでいるなんて、僕にはそっちのほうができないよ」

 止めないでよ、と縋るように言った優都の言葉を否定する術を千尋は持たなかった。優都が最後にはそう言うであろうこともわかっていた。それだけの献身を、無意味だと切り捨てられるほど、自分自身が真摯には決してなれない。

「頑張っても無駄だって言うわけじゃねえよ。そう聞こえたなら悪かった。だけど、おまえが吐くまでしんどい思いしてんの見て、まだ頑張れとはさすがに俺は言えねえし、調子悪いときは物理的に体休めんのも絶対に必要なのはわかるだろ」

「――うん、ごめん。心配してもらってるのに、完全に逆切れだったな。恥ずかしい」

「いいって。言いたいことあんならついでにそれも吐いとけ」

 優都が弱音をあまり吐かないのは、強がっているからというよりも、自分が苦しいのだということに目を向けるのが苦手だからだ。不器用なこの男は、なにかに対して、真正面から向き合う以外の方法を知らない。だから、逃げたいと言うことはおろか、考えることすら優都は自分に許さない。他人にその選択肢を与えることはできたとしても、決して自分がその選択をすることがない。

「僕のやってることには、価値があると、信じてるから」

 だから、大丈夫。と優都ははっきりと言い切った。普段は千尋より体温の高いはずの優都の身体は、体調がよくないせいか今日はかなり冷たい。

「合宿んときみたいにまじでぶっ倒れられても困るし、今日は休めよ。古賀には適当に言っとくし、あいつも相当おまえのこと心配してるから」

「そうするよ。……ごめんな、いろいろと」

「別に謝ることねえだろ。ちゃんと飯食って、やること残ってようがなんだろうが今日はとっとと寝ろ」

「うん、ありがとう」

 さきほど買ったばかりのペットボトルの封を開けて優都に手渡せば、優都は時間をかけてそれを飲み、千尋が「まだ気分悪いか」と聞けば首を横に振った。

 千尋が優都に手を貸して廊下に出たところで、探しに来たのであろう担任とばったり出くわし、優都はそのまま存外大人しく担任に引き渡された。「頑張りすぎるのもよくない」と担任に軽くたしなめられた彼は、すみませんと頭を下げたあと、制服のポケットに手を突っ込んで二つの鍵が下げられたリングを取り出した。

「古賀かだれかに渡しておいてもらっていい?」

「了解」

 それを千尋の手に差し出した優都の指は、まだすこしだけ震えていた。

「一日くらいなんもしなくたって死なねえから、ちゃんと休めよ」

 その言葉に、うん、と頷いた優都を担任に預け、とうに五時間目が始まっている教室に戻る。この時間は別の選択科目で使われているホームルームのクラスから聞こえてくる物理かなにかの授業を聞き流しながら、ロッカーから古典の教科書を取り出し、自分の科目の教室へ向かう。道中、優都と担任が並んで階段を降りている後ろ姿が見えた。優都は思ったよりもしっかりとした足取りで歩いていたけれど、途中、右手が階段の手摺を強く握っていた。


 翌日、優都はまた連絡もなしに朝練を欠席し、そのあとの朝のホームルームにも姿を見せなかった。雅哉からも担任からも、なにか聞いていないかと問われたものの、千尋も「なにも」と答える以外の術を持たなかった。一、二時間目の選択科目を終えて、三時間目の英語のためにクラスに帰って来ても、やはり窓際の席に優都の姿はない。朝送ったメールには返信もなく、携帯に電話をかけてみても繋がらなかった。

「家にかけたら、朝普通に出て行ったってお母さんはおっしゃってて」と、授業前に千尋を呼び出した担任は眉をひそめていた。

「さっき電話したんですけど、携帯電源入ってない感じでしたよ」

「そう。どうしたのかな、親御さんに嘘ついて学校サボるような子じゃないし……」

 それから、優都の普段使う路線と通学路について千尋に確認をとった担任は、そのまま足早に職員室まで戻っていった。中等部の頃から合算しても、優都は体調を崩して休んだことこそ何度かはあるけれど、遅刻は恐らく皆無だろう。朝練にすら遅れたことがないのだから当然だ。

 結局優都は午前いっぱい学校には現れず、メールにも電話にも返答はないままだった。騒がしい昼休みの教室で、優都をひたすらに心配している様子の雅哉からの連絡に返事をしつつ自席で菓子パンを食べていると、ちょうど昼休みも半分ほど終わったころ、その騒がしさとは似つかないほどゆっくりと教室の後方のドアが開いた。隙間から体を滑り込ませるように恐る恐る教室に入ってきた優都は、ドアに近い席に座る千尋と目が合うと、どこか気まずそうに首を傾げた。昨日の昼ほど体調が悪そうな様子ではなかったものの、あまり顔色は晴れない。

「おはよう、優都」

 千尋のその言葉に、優都はほっとしたように表情を緩めて、「おはよう」と返した。

「なんかあったの?」

 それだけ聞いた千尋に、優都はすこし迷ったように黙り込んだけれど、結局「そういうわけじゃないけど……」と言葉を濁して首を横に振った。

「ふうん。ならいいけど」

 連絡のひとつもなしに朝練どころか午前の授業にすら来なかった理由も、おそらく千尋以外にも何人もの友人から送られている「どうかした?」のメッセージにも、学校や家族からの連絡にも返事をしなかった理由も千尋は聞かなかった。優都はそのことに安心したようで、コートを脱いで鞄を抱えると、千尋の横の席に腰を下ろした。

「大丈夫か?」

「うん――ごめん」

「担任が、事故にでも遭ってんじゃねえかって心配してたから、来たってことだけは言っとけよ」

「……そうだな、行ってくる」

「付いてこうか?」

「ううん、大丈夫。ありがとう」

 そう言って、鞄とコートを一度自分の席に置いてから教室を出ようとした優都は、途中で何人かのクラスメイトに捕まっていろいろと問い詰められ、困ったように笑いながら「ごめん」と「大丈夫」を繰り返していた。

 そのあと職員室に向かった優都は、昼休みの終わる直前に戻ってきて、「ちょっと怒られちゃった」と肩を竦めた。それから彼はようやく携帯を開いて電源を入れ、送られてきていたメッセージのひとつひとつに返信を送り始める。さっきまで、そういうことができなかったのだろう、と横目でそれを見ながら千尋は息をついた。あらゆることを適当に扱うことができないこの男が折れるときは、きっとなにもかもができなくなってしまうのだと思う。

「なあ、優都」

「うん?」

 頬杖をついて自分の名前を呼んだ千尋に、優都は携帯から顔を上げて向き合った。

「俺は、おまえのやってることは報われてほしいとは思ってるし、口出す気もないんだけど。――おまえが、潰れない限りだからな」

 ほんとうはそんな恩着せがましいことを言うつもりもなかったのだけれど、言葉は口から滑り落ちていた。優都はすこし目を丸くしてから、かすかに視線を伏せて「うん」と言った。

「千尋にそんなこと言ってもらえるなんて、僕もまだ捨てたもんじゃないね」

 そう続けて表情を緩めた優都は、そのまま携帯を閉じて立ち上がり、予鈴が鳴るのと同時に窓際の自分の席へと戻っていった。


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