第8話

 陽はまだ落ちていない。

 だが、空を埋める木々の葉が、弱まる陽光を遮って周囲を黒く染め始めていた。


 ありえない事だろう。病室のドアを開けたら、そこに森が広がっているなど。

 ありえないと解っている。それでも、脳を掴まれているかのような痛みが少しだけ和らいだ事で、今度こそ真実に近付いているのだと確信した。


 外に出て振り返ると、そこにもう、病室はなかった。  

 ただ、連休の最終日、5月7日に佐奈さなと一緒に訪れた森だけが、広がっていた。


『あと少しだよ』

 佐奈の声が聞こえる。


『会いたいよ、勇吾ゆうご

「待ってろ、佐奈」

 重い一歩を踏み出す。

 真実へと近付く歩みが、暗闇に閉ざされようとしている納屋を近付けた。

 納屋との距離が縮まる度に、頭痛が治まっていく。


 突然、立ち止まったのは、自分の意志ではないように思えた。

 納屋はまだ先だ。何故、ここで急に立ち止まったのだろう。

 周囲を見渡し、考える。そうだ、この場所は。

「躓いた…… 何かに」


 足元を見る。


 たったそれだけの動作が、僕に全てを思い出させた。


 地面に横たわる男の頭から、血が流れている。


「そうだ…… 僕は」


 頭痛が、完全に消えた。まるで、脳が吸い取られてしまったように、すっきりと。いや、吸い取られてしまったのは、脳だけではない。


 僕の身体は、もう抜け殻なのだ。


 不意に視界に飛び込んだのは、佐奈と手を繋いで森を歩く、僕の姿だった。

 二人の背後に忍び寄る、グレーのパーカー、そしてフードを被った男が、金槌を振り上げる。

 その金槌は、僕の頭を砕き、僕から命を奪い取った。

 倒れ様に見えた男の顔。

 それは、正気を取り戻そうとする僕の意識の中で、友人となり、精神科医となり、真実への道に幾度となく立ちふさがった、あの男の顔だった。

 白昼夢が霧のように分散し、僕の視界に、再び足元が映った。

 頭から血を流し、地に伏して事切れている、僕がいる。


 5月7日、僕は、ここで殺されたのだ。


 佐奈の心が、僕の記憶に宿っていたのではない。

 佐奈の記憶に宿った僕の心が、僕だったのだ。


 今までの妄想の全ては、僕に底知れない絶望を与え続けていた。その絶望と対峙する度に、僕は涙を流し、震え、怯え続けた。

 だが、ようやく知り得た真実が与えてくれたのは、ひとつの、使命だった。

「佐奈。今行くよ」


 固く閉ざされた納屋の扉の前に立つ。

 最早、中に入るのに、この扉を壊す必要もないだろう。

 今の僕に、実体はない。

 扉に体を重ね合わせ、ゆっくりと前進する。

 扉をすり抜けた僕が見たのは、縄に縛られ、口をダクトテープで塞がれて座り込む、佐奈の姿だった。



 そう、僕の目の前に佐奈がいる。




 そう、私の目の前に勇吾がいる。




 目の前に、勇吾がいる。やっと、来てくれた。

 信じていた。もう一度、来てくれると、信じ続けていた。


 ついさっきまで、一緒に手を繋いで、森の中を歩いていた。

 勇吾が突然倒れて、何が起きたのか解らなかった。

 でも、金槌を持って立ち尽くしている男と目があった時、理解したんだ。

 勇吾が、殺されてしまったという事を。

 すぐに私も殺されると思った。でも、あいつはそうしなかった。

 私はここに閉じ込められ、あの男は車からカメラを取ってくると言っていなくなった。

 怖かった。もう一度、勇吾に会いたかった。側にいて欲しかった。

 だからずっと、目を閉じて、勇吾との思い出を掘り返していた。

 人の心は、記憶の中に宿るから。

 私も殺されてしまう前に、もう一度だけ、会いたかった。

 でも、私の記憶の中から出てきた勇吾は、すごく苦しんでいた。私と離れてしまった事を悲しみ、私を守れなかった自分を責めていた。

 喪失感や罪悪感、それらが勇吾の命を奪ったあの男の姿となって、勇吾を私から遠ざけていった。

 それでも、深い悲しみが作り出した幾つもの偽りの記憶を払いのけて、ここに来てくれた。


「佐奈」


 私も勇吾の名前を呼びたい。でも、口を塞がれていて、呻く事しか出来ない。


「待たせちゃって、ごめんな」

 謝らなくていい。ただ、側にいてくれるだけでいい。

 もうすぐ、あいつが戻ってくる。

 死ぬのなら、勇吾の側で死にたい。


「なぁ、佐奈。俺に何が出来るかな? こんなんじゃ、もうテープを剥がしてやる事も出来ない。縄を切る事も、出来ないんだ」


 勇吾が私の前にしゃがみ、頬に手を伸ばす。


「抱きしめる事も、出来ない」


 それでもいい。

 一緒に、ここにいてくれるだけで。


「決めてたんだ。佐奈の事、好きだって言った時。絶対に、俺が守るって」

『涙も枯れ果てる』とはこの事だ。勇吾のその言葉に、もう泣く事も出来ない程に感情が昂ぶる。

「もう少しだけ、待ってて。必ず、助ける、今度こそ」


『ダメ 行かないで』


 立ち上がった勇吾に向かって、心の中で必死にそう伝えた。


「佐奈、愛してる」


 勇吾がそう言って消えると同時に、ドアがゆっくりと開いた。

 フードを被った男が、右手に金槌、左手にビデオカメラを持って入ってくる。

 私には目もくれず、しばらく納屋の中を見回しながら歩く。

「誰か、いた?」

 ドアを閉めた男が、私を見てそう話す。

「そんな訳ないか」


 私の前にビデオカメラを置いた男が、手首を使って金槌を振り回す。

「ごめんね、待たせちゃって。彼氏の死体、隠してたら時間かかっちゃった」


 心の中に、勇吾が見えない。

 この男が再び現れて、私を恐怖で包んだせいなのか。

 もう、勇吾との思い出も、失われてしまうような気がした。


「陽が沈んだら、彼氏と一緒に埋めてあげるから。だからそれまで、いっぱい怯えた表情、見せてね。このカメラの方、ちゃんと見て」


 勇吾に、どこにも行って欲しくなかった。側に、いてくれるだけで良かったのに。勇吾の側で死ねたら、また勇吾と一緒にいられると、そんな儚い希望だけが、この恐怖から私を救っていたのに。

 心の中で、勇吾に呼びかける。何度も、彼の名前を呼んだ。


「あぁ、いいよ。すごいね。何考えてるの? 今、どんな感情? すごくいい顔してるよ」


 私の心の叫びは、勇吾に届かなかった。

 壁の板の隙間から、僅かに差し込んでいる光が消えるまで、私はただ、勇吾の命を奪ったこの男の喜ぶ声を聞いていた。


 床の軋む音が聞こえ、目を開ける。

 ビデオカメラを持ち上げた男が、全ての終わりを告げるような不気味な笑顔を浮かべている。

「暗くなってきたね。もう、いいかな」


 全身が震えているのが解る。


「大丈夫だよ。彼氏と同じように、逝かせてあげるから。これで」


 男が右手を振り上げる。


「バイバイ」



 その手に掴まれた金槌が、私の頭に振り下ろされようとした時、ドアが勢い良く、開いた。



「動くな!」


 男の背後から聞こえたその声の主は、男が振り向く前に動き出していた。

「警察だ! 抵抗するな!」

 男を床に組み伏せた警官が、私を見る。

 入口からもう1人警官が現れ、私の口に貼られたテープを剥がす。

「大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」

 声が、出ない。体の震えが、止まらない。

「容疑者確保。監禁されていた女性を保護。外傷の有無を確認中」

 ドアの外に立っている警官の声が聞こえる。

 フードの男が、警官に掴まれながら納屋の外へと出て行く。

 目の前の警官が、大きなハサミのような物で私を縛っていた縄を切断した。

「立てますか?」

 心配そうに私を見つめる警官に、返事が出来ない。

 恐怖と安堵が体の中で、音を立てながら入り混じっているようだ。

「もう、大丈夫ですよ。安心して下さい」

 警官がそう話した後、やっと私の喉から声がこぼれ出た。

「どうして……」

「はい?」


「どうして、わかったんですか? 私がここに、いる事が」


 心の内、凄まじい勢いで恐怖を駆逐していく大きな安堵が、連れて来た疑問だった。


「麓の民家に住む住民から、通報がありました」


 勇吾だ。

 勇吾が助けてくれたんだ。

 そう思った時、やっと涙が、こぼれ出た。



 







 1ヵ月後、私は事件があった山の麓に来ていた。

 事件の後、ローンを組んで購入した軽自動車を運転しながら、流れていく景色を眺める。

 道路沿いに広がる畑と水田、窓から吹き込んでくる温かい風、そして晴れた青空が、近付いてくる夏を感じさせた。


 勇吾の葬儀が行われた時、私は涙を抑える事が出来なかった。

 出棺の際、声を出して泣いていた私は、不意に視線を感じた。

 勇吾が、どこからか見守ってくれているような気がしたのだ。


 カーナビの音声が、入力された住所に到着した事を知らせる。

 見渡す限りの畑の中に、小さな民家が一軒。

 その家の前に佇む軽トラックの隣に、車を停める。


 玄関の扉に近付くと、家の角から物音が聞こえた。

「あの、すみません」

 そう声を掛けると、鍬を担いだ老人が姿を見せた。

 お爺さんと目が合い、息を呑んだのは、それが私の知っている人物だったからだ。

「あぁ? あんた、確か」

 5月6日、連休の最終日の前日。勇吾と一緒に行った、チェーンストアで会ったお爺さんだった。

「お久しぶりです。急にお邪魔してしまってすみません。あの、どうしてもお礼を言いたくて、来ました」

「お礼? お礼って、そうか、やっぱり、あんただったのか」

 驚いているのは彼も同じのようだ。それは感じ取る事が出来たが、『やっぱり』の意味が解らない。

「ここの方が通報してくれたと、警察の人に教えてもらいまして」

「誰か来たの?」

 玄関の扉の向こうから、声が届く。

「純子。この間の、ほら」

 お爺さんがそう言いながら扉を開く。

 ゆっくりと外に出てきたお婆さんは、曲がった腰を少し伸ばして、私を見上げた。

「あら、まあ。店員さんの奥さん、こんにちは」

「純子、だからあれ、あそこの店員さんじゃないって」

 そう言って、お爺さんが笑う。

「覚えてるよ。本当に、無事で良かったねぇ」

 にこやかに話すこのお婆さんもお爺さんも、明らかに、監禁されていたのが私だと言う事を知っている様子だ。警察の人が詳しく説明したのだろうか。


「あの日は、びっくりしたけどねぇ。すぐに、わかったよ。あの緑色の服はよく覚えてたからねぇ」

「え?」

 少しだけ、胸の中が跳ねる。


「旦那さんでしょ? あの時と一緒の服着て、突然駆け込んで来たのよ。女の子が山の中の小屋に捕まってるって、必死で叫ぶもんだから。そりゃ、急な事だったから、びっくりして、怖かったけどね。でも、親切にしてくれた人の頼みだからと思って、急いでお巡りさんに電話して……」

 お婆さんの言葉に、お爺さんが笑顔で頷く。

「いや、本当に、無事で何よりだ」

 お爺さんがそう言った時、私の視界はもう、涙で滲んでいた。

「あの、すみません、あの、ほんとうに」

 涙は手の甲で拭えるが、漏れ出した嗚咽は止められず、うまく話せない。

「あらあら、どうしたの」

 私を見上げるお婆さんと、お爺さんを、涙を通してしっかりと見据える。


「ほんとうに、ありがとう、ございました」


 それだけ言うのが精一杯だった。

 その場に泣き崩れた私の肩に、お爺さんが手を添える。

「大丈夫か? ちょっと、ゆっくりしていくといいよ」

「美味しいお茶飲んで行ってね。取れたての野菜もあるからねぇ」

「はい、はい、ありがとうございます」


 人の心は、記憶に宿る。

 それはとても温かく、時に心の闇を灯す、光となる。



                                 完

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ドリームエンコーダー ぴぃた @pyta

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