ミチコ

渡辺 渡

出会い

 ひんやりとした感触が僕の肌を伝う。あまりにも滑らかな表面は僕の肌に溶け込み一体感を伴う。心地よい。僕はもう一度、そっと肌を撫でつけながら彼女と出会った日のことを思い返す。


 僕は教室の中で浮いている自分に嫌気がさし午後の授業をさぼって学校から歩いて十分くらいのところにある河原にきていた。川はゆったりと流れ、教室内で繰り広げられるスクールカーストという煩わしい制度を一時でも忘れさせてくれた。

 穏やかな午後。どこにも縛られるものはない。僕の行動は誰に決定づけられるものでもなく、ただ思うがままに足を動かす。

僕の心は揺らめく水のように不確かで先に臨む川の流れはそんな僕の心を映し出していた。整備された確かな道筋をたどり川辺に足を向ける。

どうして僕がこの河原にきたのかはわからない。少なくとも気持ちが安らげるような場所を探しているうちに何となく足が向けられたんだと思う。水ってなんだかそんな雰囲気を醸し出している。

ともかく僕はここに来ることで気持ちが落ち着いた。

ぬかるみにはまりそうな足元を誰かが気づいて、そっと方向転換し正しい方へと導いていく。そこに正体などは存在しなかった。それは僕の意志でないようで僕の意志だった。

教室の中は毎日毎日見えない何かで支配されていて、無言の圧力や暗黙の了解、遠回しの暴力や陰湿な嫌がらせがそこら中にはびこっている。正直言って居心地が悪い。僕はそんなスクールカーストのどの部分にもいなくて、空気のような存在だった。誰からも相手にされないし、僕の方だって誰かに話しかけることをいつからかやめていた。

これをいじめといっていいのかわからない。いじめかどうかなんて当人が決めることでそこに何らかの基準は存在しない。要は僕がいじめと思えばいじめであるし僕がいじめと思わなければそうではないというだけの話だ。

クラスメイトの数人は僕のことを憐れむ目で見ていた。

僕はいじめられている。まあ、それだけの話だ。

正義感の強い委員長はそんな僕を見かねて先生に告げようとしたけどクラスを牛耳っている女子たちに逆にいじめの標的にされて学校にこなくなってしまった。これについては僕もものすごい自責の念に駆られたけれど、どうすることもできやしない。

力のない空気、僕はただそこにいるだけで何もすることはできない。起こる出来事を眺め、事実として受け入れ、流れゆくときに身を任せる。僕の存在はその程度だった。

僕は空気として学校で一日を過ごし何事もなかったように家へ帰る。そんな日々をただ淡々と過ごしていた。自分でも気づかないうちに見えない何かが心の奥の方から蓄積していって、いつしか何もかもがつらくなって何の色も示さない無色の日々が暗闇に落とされた。何かは僕が無視され続けたことによるストレスだったのかもしれないし、他にいじめられている子を見て見ぬふりをする自分への苛立ちなのかもしれないし、もしかしたらこういったことが一向に無くならない社会へ対しての反感かもしれなかった。おそらくその全部だろう。

景色が黒く染まっていくのは居心地が悪いどころではなくて、息苦しさ、いや生きづらさといってもいい。僕は生きるのがつらくなっていた。

だから、昼休みに弁当も食べずにこっそりと学校を抜け出してきた。女子たちにあからさまにいじめを受けている次の標的を横目に。

(僕だってつらいんだ)

どこへ行っても暗闇から抜け出すことが不可能だってことはわかっていたけれどそうすることでしか僕は自分を助け出すことができなかった。あのまま教室にいたら窓ガラスをすべて割って回り、割れた破片で自分ののどを掻っ切ってしまってもおかしくないくらいに気が狂いそうだった。もちろんそれを行動に移す勇気なんてもち合わせていないけれど。

終わりの見えない闇の中で一滴でもいいから光のしずくを、そんなことを思いながら当てもなく歩いていると、この河原に行きついた。

偶然であり必然。矛盾する二つの言葉が同時に頭に浮かび、去っていく。僕にとってここに行きついた理由など何でもよかった。

堤防の上はサイクリングロードになっていてヘルメットを着けた人がロードバイクに乗ってさっそうと走り抜けていく。僕もあんな風にさわやかな表情が自然とできたらいいのに。そう思って一人笑みを浮かべてみたが散歩中の犬がわんわんと吠え出したのでやめた。犬はこうやってすぐに吠える。僕の顔が気味悪かったのは謝ろう。でもそんなに大声で吠えるのはいただけない。

午後一番の川岸には散歩をする人やベンチで眠る人、河原にポツンと座るスーツのおじさん。ランニングを楽しむ主婦らしき人、などなど。僕とは違う世界にいる人ばかりに見えた。(スーツのおじさんはもしかしたら僕と同じような思いなのかもしれない)

そんな彼らを素通りし、僕はゆったりと流れる川よりもゆっくりと足を運んでいた。どこへともなく。僕の足はベルトコンベアを流れる食品のように規則的で、行先はわからないはずなのに目的地は僕の意志とは離れたところであらかじめ決まっているようにも思える。でも、僕にとってはどうでもいい。静かで落ち着けさえできるなら。

おそらく、闇に落ちていない世界にいたら心地がいいのだろうそよ風が優しく肌に吹き付ける。優しいという言葉が頭の中に浮かぶだけましなのかもしれない。世の中には負のワードしか思いつかないほど苦しんでいる人なんて山ほどいるだろう。たぶん自殺する人ってそんな人なんじゃないかな。僕は一歩踏みとどまっている。自殺志願者予備軍みたいなものだろうか。

言葉なんて意味ないのかもしれない。この気持ちに名前を付けたって何にも解決はしないのだから。僕は日に日にのどが締め付けられるように苦しくなっている。空気中から少しずつ、少しずつ酸素がなくなっている。そんな感じだ。

(どうにかして息をしたい)

(深海に落ちた僕を日の光が届くところまで引き上げてくれ)

僕はいつの間にか足を止めていた。思考にとらわれて運動が伴っていなかった。周りには人気が無く、鳥の鳴き声以外に聞こえてくる音はなかった。

(静かだ、ものすごく)

文字通りの静けさにどこか危ないところにきてしまったのかと錯覚したが、そこはどう考えても先ほどから続く河原であることに間違いない、静けさだけが不気味だった。静寂を求めていた僕にも気味が悪く感じられるほどに。

僕はなんとなしに河原にあった大きな石の上に座り川の流れを眺めることにした。水は澄んでいて川底が見える。それほど深くはなさそうで魚が泳いでいるのさえ見えるほどに水は透明だった。

対岸にも人気はなくこの世界が僕一人のもののように錯覚する。

(世界が僕一人だったらどうなるのだろう…)

ありもしないことが頭をよぎり、透き通る川の水面に映る自分の姿を眺めてみるがいつもの僕と何ら変わりのない、疲れた顔をした僕が映るだけだった。

ふと、自分の横に目を向けると何の変哲もない握りこぶしほどの大きさの石があった。石はどこにでもありそうな、本当にただの普通の石でその石が目についたのがおかしいくらいだった。しかし僕の目をとらえて離さない。石は石のはずなのにどうしてか惹きつけられる。

時が止まる。

実際にはありえないのだが僕には本当に時が止まったということが空気を通して感じられる。

目に焼き付いた何の変哲もない石は、僕の姿を追うようにして心に訴えかけてきた。これが幻想だなんてことは微塵も思わない。石は、僕を、いや僕がそれを求めていたのかもしれない。

「…きみは、僕を探していたのか?」

自然と口からこぼれた言葉はどこからともなく聞こえてくる鳥の鳴き声にかき消された。

答えのない問いは誰も耳にすることはなく風に吹かれてどこかに運ばれていくだけなのだ。


出会いはあまりにも唐突で僕と彼女は出会ったということすら気が付かなかった。僕らはそこにいて、ここにいる。世界の一部で、どこへともなく消えていく。

まるで出会いなどなかったかのように当たり前の出来事で彼女が目の前にいることをはじめから知っていたみたいな気がした。当然のことのはずなのにどうしても理屈を超えた感情が胸に浮かぶ。暗転していく世界が掻き消えて、広がる光は目に痛い。

運命としか考えられなかった。

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ミチコ 渡辺 渡 @ten_yyyal

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