お人形の夢と目覚め (エステンのピアノ小品より)

 夕焼けの光に照らされて、甘い空気が金色に染まっていた。薄汚れた窓からは、緑とオレンジの絵画のような森が見える。ものがひしめき合う、埃っぽくて薄暗い部屋。きっとここの主人には狭いのだろうけれど、お人形の私には広すぎるくらいに広い。

 開けっ放しのガラス棚のとある一段で、足を静かに宙に投げ出して私はずっと座っている。耳をすませば、絨毯の上の綿ぼこりが囁いていた。目をこらせば、窓枠の中のまぶしい森がこちらに手招きしていた。寂しくも退屈でもなかったけれど、もし少しでも背伸びができたら頭を棚の上に擦ってしまいそうで、窮屈ではあった。

 そんな夢みたいな夕方だったから、ナイロンの髪も陶器の体もぽかぽかして、心はどこかへとんでいってしまいそう。あたたかい暗闇が私の中からやってきて、そうっと私をどこかこの部屋の奥へ連れ去っていった。


 気がつくと、私は見渡すかぎり真っ白なところに立っていた。

 ここはいったいどこなのだろう?足元はマシュマロみたいにふわふわで、わたがしの霧がすべての世界を覆っていた。見上げると霧の隙間から、わずかに群青の空と、そこから降ってきそうなこんぺいとうの星が見えた。息をするたびに、さわやかな果物の香りがする。その香りにさそわれて一歩足を踏み出せば、私の体もわたがしのようにふわりと宙に舞った。

 もうここがどこなのかなんてどうでもいい。棚に座っていた時の静かな私のつま先が、うって変わったようにマシュマロの地面を蹴ってリズムを刻む。陶器の体がうそのよう。信じられないこの感覚に、私ははたと思い当たった。

 ああ、これはきっと夢なのだ。夢のような世界にやってきたのではない、本当にこれは夢なのだ。私はまだ、夕焼けの日差しに照らされてじっと座っているのだろう、本当は。

 あたたまった体が、一瞬で冷えていく感じがした。マシュマロの地面に吸い寄せられるように、黙って両足をそろえた。そうやって動かずにいると、耳の奥で胸がどきどきしているのが聞こえる。それはだんだん全身に広がって、冷えた指先を再びあたためた。

 これが夢でも現実でもかまわない、いや、いずれ覚めるべき夢ならばなおさら、こんな気持ちを抑えてはおけない。群青の空へ、私はもう一度とびだした。風に舞う羊皮紙のように両腕を広げて、空想の物語を綴るペン先のように重くそして軽やかに。踊れ私のつま先、歌え私の声、今ならきっと、こんぺいとうの星もつかめるにちがいない。

 わたがしの霧の彼方から吹いてくる風にのって、思いっきり手をのばしたその時。ふいに体が強く地面へ引っ張られて、私は思わず目をつぶった。

 さっきの暗闇が迎えにきたのだ。

 真っ暗な中に私は放り出された。

 次に周りが明るくなったとき、私はいつもの部屋のいつもの棚から、時間の止まった空気の中へと飛び出していた。


 赤いベルベットのじゅうたんに、赤い私の靴が降りる。積もったほこりが楽しそうに舞い上がった。

 くるくると回ってみせれば、綿ぼこりたちは私の手を取って踊りだす。どこで覚えたわけでもない軽やかなステップで、小さな木の椅子へ、燭台を置いた丸いテーブルへ、絵の入っていない額縁の端へ、今自分が飛び出してきたガラス棚の上へ駆け上がった。

 さっきの夢は、夢じゃなかった!陶器だったはずの体は木の葉のようで、お気に入りのドレスがこんなにかわいく見えたことがあっただろうか?初めて動く球体関節は、私をどこへでも連れていってくれる。飾り棚の絵本の表紙にいるふくろうが、私の踊りを目で追っているのに気がついた。初めての観客に、挨拶にいかないと。一、二、三で足を踏みきり、部屋の反対側にある飾り棚へジャンプした。

 私はさっきの夢と同じようにふんわりと棚の間を渡り、回りながら上手に着地する。四拍子のリズムを体できざみながら、やさしくその観客にキスをした。ふくろうはちょっと恥ずかしそうに首をすくめてウインクを返した。それを受け取ったとたんに、自分がとてもきらきらしているように思えてきた。いっそう嬉しくなった私は後ろを振り返ると飾り棚から飛び降りた。

 めいっぱい膨らんだスカートを花びらのように広げ、もう一度じゅうたんの上の綿ぼこりたちをダンスに誘う。私がどんなに小さなステップを踏んでも、彼らはちゃんとついてきてくれた。大きなターンを、窓からの陽光を遮るジャンプを、指先から指先まで自分のすべてのパーツで踊りきった。

 高鳴る胸を冷たいからだの奥に宿した私は、大きく腕を広げてダンスを終えた。もうどれだけ長くこの部屋にいたかわからないけれど、ずっと棚の上から見ていたこの部屋が、今まで見たことのないところから、今まで見たことのない景色で、私を見つめ返していた。夢にまでみた初めてのダンスを見届けてくれた観客たちに、膝を折って最上級の感謝をおくった。

 そのとき、後ろから突然ひゅうっ、と風が吹いた。

 綿ぼこりたちがいっせいに、物陰に身を隠した。

 絵本も椅子も机も額縁も、みんなあわてて押し黙った。

 私は小さな物置の真ん中で、ゆっくりと振り返った。

 黒いドアが小さく開いている。そこには小さいけれど見上げるように大きな人間の女の子が、嬉しそうにこちらを見ていた。

「こんにちは、おにんぎょうさん」

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