大人に成るということ

休み明け。ユウカがいつものように仕事に行こうと朝の用意をしていると、突然、


「もう! ママはいっつもそうやって私のことを子供扱いする! ママなんて大っ嫌い!!」


と外からそんな声が聞こえてきた。


「リリさん…?」


思わずそう呟いたユウカには、その声に聞き覚えがあった。二号室のマニの娘(?)のリリエルタァエムス・ングラニャーァハガの声だと思った。窓から外を見下ろすと、アパートの玄関前に二つの巨大な筋肉の塊、いや、人影が立っていた。やはりマニとその娘のリリだった。


「私はあなたのことを心配して言ってるのよ!? どうして分かってくれないの!?」


マニがそう言い返すのを聞きながら、


「またケンカしてるんだ。仲がいいんだか悪いんだか…」


とも呟いてしまう。


リリはもう既に独立して別なところに住んでいるのだが、時々会いに来てはケンカをするというのが恒例になっていたのだった。


それ自体はいつものことだから別にいいものの、この時のマニの言動に対しては、


『マニさん…その言い方は反発を招くだけって気がします…』


と、正直、共感できないものを感じてしまう。その最たるものが、今まさにマニが口にした、


『私はあなたのことを心配していってるのよ!? どうして分かってくれないの!?』


という言葉だった。


これとよく似た言葉を、ユウカの両親もよく口にしていたからだ。そう言ってこちらの反論を封じ込めて従わせようとする両親が、ユウカは嫌いだった。


こういう言葉を口にする大人はこういうこともよく言う。


『あなたも大人になれば分かる』


『いつか分かる』


などということを。


ユウカはもう既に、あの頃の両親の倍近い年月を生きてきた。だが、


『いまだにそれは分からないんだよね……』


と思っていた。分かりたくもなかった。分かったのは、それは単なる大人の逃げ口上でしかないということだけだ。分かるように説明できない自分を正当化したくてそういうことを口走るのだというだけだった。


だからそれを思い出してしまうマニの口ぶりにも、つい反応してしまうのである。


『マニさんはすごくいい人だし、悪気があってそういうことを言ってるんじゃないって分かってる。本当にリリのことを心配してるんだっていうのも……


でも、それをリリさんに上手く伝えられない自分の未熟さをリリの所為にするのは違うんじゃないかな……』


そう思いつつ、今ではこうも思うのだ。


『マニさんだってまだまだ成長途中なんだろうな』


と。


ここに来た時の両親の倍近い年齢になって一番実感したことが、


『年齢重ねただけじゃ大人には成れないんだな』


ということだった。いまだに自分が大人に成れたなどという実感がまるでない。体が十四歳当時のままというだけじゃなくて、人間として自分はまだまだ未熟だという実感しかなかったのだ。


自分はここに来ていろんな人と出会って話をして学んできた。ここに来た当時よりは多少は成長したかもしれないと自分でも思う。でも、大人に成ったかと言われると全く自信がなかった。それどころか、大人に成れば分かると両親が言っていた『どうして分かってくれないの』という言葉の意味が、自分の努力不足を棚に上げた甘えでしかないっていうのが分かってしまっただけだ。


ここでは、それぞれの価値観があまりにも違い過ぎてお互いに理解できることの方がむしろ少ない。自分のことを分かってもらおうと思えばそれだけ言葉を尽くし手間をかけ、努力しないといけない。だからこそ、自分の両親がその努力をしていなかったことが分かってしまったのだった。


「ママのバカっ! 知らない!!」


ユウカが仕事に行くために玄関までくると、リリが捨て台詞を残して走り去っていく気配が感じ取れた。するとあとに残されたマニが、


「はあ…」


と大きく溜息を吐きながら独り言を言っているのも聞こえてきてしまう。


「ああ…ダメね私……自分の言葉が足りないのをまたあの子の所為にしてしまった……親失格ね……」


そう、マニは自分でも分かっていたのだ。


きちんと自分の気持ちを伝えることをできていないのがこのケンカの原因なのだということが。


分かっていてもなお、上手く伝えられないのである。努力はしているつもりなのだが、そう簡単に上手くはいかないのも人間というものだ。マニはそれを承知していた。


『マニさんも努力はしてるんだもんね…』


だからユウカは、自分の両親と同じようなことを口走ってしまうマニのことは嫌いじゃなかったのだった。


『私の両親と同じような言葉を口にしてても、マニさんはあの人達とは違うんだ…』


そう思えるから。


もし、自分の両親がマニのような人だったら、上手く伝えられなかったんだろうなと『大人に成ったら分かる』だろうし『いつか分かる』とも思えた。実際にマニのことは分かった気がしていた。


「マニさん。いつかリリさんにも分かってもらえるように諦めずに伝えていきましょう。私も応援してます」


玄関を出て、肉の壁の如く目の前にそびえたつマニの背中に向かい、そう声を掛けていた。


「ユウカちゃん。ありがとう。そう言ってもらえると私も頑張れる。だって、私はあの子の親なんですもの。私もちゃんと成長しなくちゃね」


涙を拭い鼻をすすりながら応えるマニに、ユウカは穏やかに笑い掛けていたのだった。


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