ヌラッカの涙

「キリオ! 浮気、ダメーっ!」


ある日の朝、第一〇七六四八八星辰荘からは毎度おなじみの声が聞こえてきていた。一号室のマフーシャラニー・ア・キリオーノヴァがユウカにちょっかいを掛けて、ヌラッカが怒っているのだ。


ただ、その日はいつもと違っていた。


『ヌラッカさん…!?』


透明な不定形生物であるヌラッカが普段のヒューマノイド型の姿ではなく大きな口を開いた怪物のような姿になって怒っていたのである。それはユウカにとっても初めて見る姿だった。


「もう許せない! キリオ、キライ!」


そう言って、怪物の姿のままで、ヌラッカがアパートを飛び出していってしまった。


「あちゃ~、マズったかな。ま、いいや」


ヌラッカが出て行ってしまった玄関を見ながら、キリオが頭を掻く。だが、マズいとは言いながらそれほど気にしている様子でもなかった。ユウカにはそれが信じられなかった。


「キリオさん! 追いかけなくていいんですか!? ヌラッカさん泣いてましたよ!」


そう、ユウカの言う通りだった。人の形をしていなかったから分かりにくかったが、ヌラッカは確かに泣いていたのだ。なのにキリオは、


「あ~、大丈夫大丈夫、いつものことだから。落ち着いたら帰ってくるよ。彼女はちゃんと僕がヌラッカのことを一番に愛してるって知ってるから」


と、余裕なのか軽んじているのかよく分からない感じで肩を竦めただけだった。しかも、


「それより、せっかくだからこのまま二人で愛について語り合わないかい?」


などと肩に手を回してきたのだった。これにはさすがに呆れて、


「私、軽薄な人キライです」


といつも以上に辛辣な言葉が出てしまった。さらにそこに、心底不機嫌そうな怒りのこもった声が。


「キィ~リィ~オォ~!」


ガゼルガウ・ホリアーバルゲ・グレヌハフだった。相変わらず外見は小学校低学年と言った感じの幼い彼女だったが、角さえ生やしそうな怒りの表情は無視できない迫力がある。


「毎度毎度ナメた真似してくれて、今日こそ決着を付けるわよ、この泥棒トカゲが~っ!!」


「おう、そんな怖い顔してたらチャームポイントが台無しだよ、ベイビ~」


超人的な体術を誇るガゼを相手にも、キリオは余裕だった。


実はキリオ自身、元々身体能力が異常に高い種族で、特に格闘技などは心得ていないがガゼ程度なら怖くもなかったのである。圧倒的なリーチ差を活かし、ガゼの頭を押さえて拳を届かないようにしてあしらうその姿は、完全に大人と子供のケンカだった。


『ヌラッカさん…大丈夫かな……』


ガゼとキリオのやり取りに頭を抱えながら、ユウカは出て行ってしまったヌラッカのことを考えていた。


「やっぱり心配だし、私、ちょっと見てくる…!」


ヌラッカが出て行ってしまった後、部屋でガゼと一緒にアニメを見ていたユウカだったが、いてもたってもいられなくなってそんなことを言い出したのだった。しかしガゼは冷めた目で言う。


「別にほっときゃいいと思うけどね。二人の問題なんだし」


「そうかもしれないけど……」


ガゼの言うことももっともだろう。これは本来、キリオが解決する問題であって、ユウカには何の落ち度もないのだ。むしろキリオに言い寄られて迷惑している被害者でさえある。ヌラッカに引け目を感じる必要さえない。


しかし……


『でも、やっぱり放っておけないよ……!』


と考えてしまうのが、石脇佑香いしわきゆうかという少女だった。いや、見た目は変わってなくても既に少女という年齢ではないが、それでもここにいる人間達の中ではかなり若い方ではある。


「だけど、気になってたらせっかくのアニメが楽しめないよ」


「はあ…ホントにお人好しだなあ、ユウカは。ま、それがまたいいんだけどさ」


アニメに集中して楽しむ為にも是非とも解決してほしいと考えるユウカに、ガゼも呆れながらも腰を上げた。


そして二人でヌラッカを探す為にアパートを出る。自分の給料で買った電動キックボードに乗って。


ちなみにここには<道交法>というものがない。数少ない自動車は決められた動きしかできないので違反のしようがなく、それは電動キックボードもそうだった。車道には出られない、通れないところには入っていけない、事故は起こらないし起こせないのだ。


しかし同時に、車道以外なら殆ど規制されていないので電動キックボードを使う者も少なくない。まあ、一番多いのはやはり自転車だが。わざわざ買わなくても集合住宅などには住人用のものが備え付けられているからだった。ユウカが電動キックボードを買ったのは、アニメの主人公が電動キックボードをさっそうと乗りこなしていたのを見て『面白そう!』と思ったからである。


ガゼもお揃いの電動キックボードで付き合ったが、ヌラッカを探すというよりは、


『なんかデートみたい♡』


と、ユウカとのお出かけを楽しんでるだけであった。だがその時。


「あ、ヌラッカさん!」


川の近くの公園のベンチにヌラッカの姿を見付け、ユウカが声を上げる。するとガゼは、内心、


『チッ。もう見付かったのかよ。もうちょっとデートを楽しませろっての』


などとは思いつつ、それは口には出さずにユウカについていく。


「良かった、ヌラッカさん。キリオさんのこと、ごめんなさい」


ベンチで黄昏ていたヌラッカの前に立ち、ユウカは躊躇うことなく頭を下げた。その隣でガゼが少し呆れたように見ている。


『なんでユウカが謝るの? 関係ないじゃん』


でもやっぱりそれは口には出さず、敢えてユウカの好きにさせた。


そんなユウカのことを見上げてヌラッカも言った。あまり表情を作るのは得意ではない彼女だったが、その時の顔は確かに悲しそうに見えた。


「ユウカ、悪くない……悪いのはキリオ……私、もう疲れた……」


「……え…?」


これには、てっきりいつもの感じで仲直りするんだろうと思っていたガゼも呆気に取られたのだった。




ヌラッカとキリオの馴れ初めは、ユウカがここに来る十年前に遡る。


ヌラッカ自身はその時点でここに来てもう三百年ほどになっていたが、正直、ヒューマノイド型の人間達にはあまり馴染めずにいたのだった。それにその頃は不定形生物らしく決まった形をとっていなかった。


だから、


『ニンゲン…ナニカンガエテル…? ワカラナイ……』


決まった形しかとれない人間のことがまるで理解できなくて戸惑うしかできなかったのだ。


そんな時、この公園のこのベンチで今のように黄昏ていたヌラッカに、キリオが声を掛けてきたのである。


「どうしたんだい? こんなところで。良かったら僕が話し相手になるよ」


『…ナニ、コノニンゲン…コワイ……』


最初はその馴れ馴れしい態度に恐れすら抱いていたヌラッカだったが、他に行く当てがなくこの公園で過ごすしかなかったことで、


「やあ、また会ったね。元気かい?」


とキリオが話しかけてきて、何度か顔を合わせるもののその態度があまりに<普通>だったことで、


『ヘンナニンゲンダナ……』


と、キリオに対して興味を抱いてしまったのだった。なにしろ、他の人間達は不定形生物の自分に対してはどうしても戸惑いを隠さなかったのだから。


無理もない。どこを見て話せばいいのかも分からないし、何を考えてるのか表情から読み取ることもできない。しかも不定形生物だから元々のメンタリティが全く違う。ヌラッカが人間の心理を理解できないのと同じで、人間の側もヌラッカの心理を図りかねていたのである。


なのにキリオは、そういうことを一切感じさせなかった。ヌラッカの話に耳を傾け、言うことにきちんと相槌を打ち、どこを見ていいのか分からないのなら全体を見ればいいとばかりにヌラッカ自身を見てくれた。


そんなキリオに対し、ヌラッカはいつしか好意を抱いていたのだった。


そして、


「ワタシ、イマノアパート、トモダチイナイ……』


と打ち明けたヌラッカに対してキリオは、


「じゃあ、僕の部屋においでよ。僕、君のことが気に入ったよ」


と屈託なく笑ってくれたのである。


そうしてヌラッカはキリオの部屋に住むことになり、彼女の好みの女性のタイプを再現しようと今の姿になったのだった。そう、キリオはヌラッカが好みの女性の姿をしていたから誘ったのでなく、本来の姿のヌラッカを好きになってくれたのだ。


「あ……」


それを思い出したヌラッカの頬を涙が伝った。


「キリオ……」


両手で顔を覆い、ヌラッカは体を震わせた。それはもう、完全にユウカ達ヒューマノイド型の人間の仕草そのものだった。長年その形を取り続けたことで、すっかり身に着いていたのだ。


『ヌラッカさん……』


どう声を掛けていいのか分からずに、ユウカが何も言えないまま日が傾き出した頃、ヌラッカとユウカとガゼの前に、人影が現れた。キリオだった。


「じゃあ、帰ろうか」


いつもと変わらない軽薄な感じで声を掛けるキリオだったが、ヌラッカは両手で顔を覆ったまま何度も頷いた。そのヌラッカを抱き締めながら、キリオはユウカ達を見た。


「ありがとう。ヌラッカの話を聞いてくれて」


ユウカ達に話したことで、ヌラッカは当時の気持ちを思い出したのである。


そして話を聞くことでそれを思い出させてくれたユウカ達に、キリオは礼を言ったのであった。




しかし、キリオがヌラッカを迎えに来たことで何となく良かった良かった風で終わった今回の話だが、よくよく考えてみればキリオがヌラッカの気持ちも考えずにユウカにちょっかいを掛けたのが原因の筈である。それを考えれば全然、良かった良かったではないのだ。


ユウカはそれに気付いていなかったが、ガゼはそれに気付いていた。


『やっぱりあいつ、最低な奴じゃん!!』


と、内心、憤慨していた。


さりとて、当のヌラッカがキリオを許してしまったのでそれ以上口出しする訳にもいかなかった。


『せっかく元鞘に収まったのに、いまさら蒸し返すのもなあ……』


そう。問題を蒸し返す程はガゼも幼くもないのだ。


ただし、実はこのことについてはガゼもあまりキリオのことを言える立場にないと言えるだろう。と言うのも、実はガゼ自身、かつて男性と女性に対して二股をかけたという前科があったのである。


それは、ユウカと出会う数年前、ガゼは一人の男性と付き合っていた。その男性のことは確かに好きだったし、告白は向こうからだったが付き合い始めた頃は嬉しかったりもした。だが、付き合い始めると、何か違和感を感じてしまったのである。そう、この時点では彼女は自分が同性愛者寄りのバイセクシャルだと気付いていなかったのだ。


しかも、職場の本屋の常連の女性に対して恋愛感情を抱いてしまい、同性という気軽さからその女性に甘えてしまったのだった。性的な意味でも。


が、この話は実はここからが本番で、ガゼを通じて知り合った彼と彼女がお互いに殆ど一目惚れという形で恋に落ちてしまい、ガゼは結局、その両方にフられてしまったのであった。それだけではない。少々姑息ではあるが、その二人の間に娘的なポジションで収まろうと画策さえした。結局は失敗に終わったが。


とまあ、ガゼはその幼い外見に似合わず、肉食系と言うか恋多き女性だったという訳だ。


もっとも、今はユウカ一筋である。以前の失敗を反省したというのもあるが、とにかく今はユウカのことだけが好きだった。なので過去の経験は秘密にしている。彼も彼女も既に遠く離れた場所に引っ越してしまったから事情を知る者もいない。


それでも、いずれにしてもキリオのことをあまり強くは言えない筈なのだった。


でもまあ、また部屋に戻ってきてユウカの膝に座ってアニメを見始めると、キリオのことも忘れて彼女のぬくもりに包まれてそれに浸ったりもしたのだが。


だが今度は、


「ユウカ、お邪魔していい?」


と、七号室のメジェレナ・クヒナ・ボルクバレリヒンが顔を出す。仕事を終えて帰ってきたのだ。


「いいよ~」


「……」


不満げなガゼには構わず、ユウカはメジェレナを招き入れた。そして三人でアニメを見ることになったのだった。


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