第9話

 やまとは明け方に一時間程まどろんだだけで起床の時間を迎えた。憔悴した様子のやまとと泣き腫らした目の奈月を見て、看護師は心配そうだった。

 二人は言葉少なに朝食を摂った。奈月は転院の話を詳しく知りたかったが、やまとは完全に上の空だった。目つきも険しく、当たり障りのないことを話してもそっけない返事しかしない。きっと真耶の体調が心配なのだろうと奈月は思った。

 午後、奈月だけが院内学級に行くことになった。やまとは寝不足のせいで顔色も悪く、欠席したいという希望は簡単に受け入れられた。奈月は後ろ髪を引かれる思いだったが、真面目な性格ゆえに欠席することはためらわれた。

 一人になったやまとは、ただ真耶が帰ってくるのを待った。不思議と心は落ち着いていた。不安や罪悪感よりも、早く真耶に会って話がしたいという気持ちが大きい。

 ふと思い立って、真耶のベッドに座ってみた。彼女はいつもここから窓の外を眺めていた。同じ視点で窓の外を見る。高い空。葉を落した桜の木。色のない街並み。とても殺風景だ。面白いものは何もない。真耶はどんな気持ちでこの風景を眺めたのだろう。どんな空想でこのキャンバスを塗りつぶしていたのだろう。やまとは目を閉じる。春の風景を思い浮かべた。秋よりも濃い青色の空と、桜吹雪。人間じゃないみたいな女の子。真耶。看護師のお姉さんに連れられて、もうすぐ僕がやって来る。そして僕と真耶は出会うんだ。

 ガラリと扉が開く音が聞こえた。

「あら、やまと君。真耶ちゃんが戻ったよ」

 看護師の声で振り返る。

 車いすに乗せられた真耶がやまとを見ていた。自分のベッドの上にいる少年を見て一瞬ぎょっとした後、すぐにうつむく。下唇をきゅっと噛んで、真耶はゆっくり立ち上がった。

「もう、大丈夫です。ありがとう」

 車いすを押してきた看護師に言う。看護師はやまとと真耶を交互に見て、やはりどこか心配そうにしながら病室を出ていった。

「どいて」

 真耶は自分のベッドに近づいた。看護師に礼を言った時とは違う、凍るように冷たい声と表情。やまとはすぐにベッドから降りたが、その傍から離れようとはしなかった。

「何か用?」

 明らかに嫌悪感のこもった声で真耶が聞く。

 やまとは静かに、床に膝をついた。

「真耶。僕は君を裏切った。許されない罪を犯した。本当にごめん」

 真耶はその様子を冷ややかな目で見下ろした。

「許さないって言ったでしょう」

 言葉とは裏腹に、真耶は跪くやまとの姿に奇妙な昂揚感を覚えていた。

「わかってる。僕には許してくれなんて言う資格はない。ただ、話したいことがあるんだ。聞いてくれないかな」

 やまとは真剣な目で真耶を見上げた。声が低くなり身長が伸びても、なお甘さの抜けないやまとの瞳。許されない罪を犯したと言うくせに、その瞳は穢れのない無垢に輝いていた。真耶はとても腹が立った。ベッドの中に伸ばした右足をすっと曲げる。少年は真耶が動いても視線をそらさなかった。

 真耶は小さな素足を無造作にやまとの顔に押し当てた。べたりと足の裏がやまとの顔をふさぐ。少年は目を閉じた。真耶はそのままやまとの額を強く踏んだ。ぐりぐりと力を加えていくと、やまとの頭は徐々に下がっていく。さらさらとした髪が足の裏に触れて、少しくすぐったい。口の端がくっと上がる。心地よい優越感があった。

 私が受けた屈辱を、少しでもわかってくれたらいいなぁ。

 やまとの顔が床につきそうになったところで、真耶は足を離した。

「聞いてあげる」

 足を再びベッドに入れ、ほんの少し柔らかくなった声をやまとに落とす。

「ありがとう」

 やまとは勢いよく顔を上げた。本当に嬉しそうな笑顔を見せる。真耶は早々に目をそむけた。少年がどれだけ美しくかけがえのない存在だとしても、どうせもうすぐ居なくなるのだ。真耶を残して。

 やまとは真耶の足で乱された髪を直すこともなく、床に跪いたまま話し始めた。

「手術の後、僕の病気はよくなってしまった。お医者さんが言うには、奇跡的だって。最悪だよね。こういう系統の奇跡は望んでやまない人たちがたくさんいるのに、なんで少しも望まない僕にって思う。この世界は本当にどうしようもない。馬鹿みたいな世界だ」

 少年は吐き捨てるように言った。真耶はそんなやまとを見てせせら笑った。

「だけど、やまともそんな馬鹿みたいな世界でこれから生きていくのよ。平気な顔をして。馬鹿みたいに」

「そう。僕はこの世界で生きるしかない。でも、僕はこんな世界に適応したりしない。平気な顔で馬鹿みたいに生きたりしない。僕はずっと真耶と同じ世界を描いて生きる。そうすれば僕の世界にはずっと真耶がいる。君は僕の思い出なんかにならない。ずっと、真耶が僕の全てだ」

「全て? 全てってどういうことか知ってる? 私のことをずっと忘れないとか、命日には必ずお墓参りに来るとか、そんな程度のことじゃないのよ?」

「もちろん、知ってる。真耶は、僕の、世界の全てだ。僕の世界は真耶がいるから成立してたんだ。君がいなくなったら、僕の世界は僕のものじゃなくなる。僕にとって完全にどうでもいいものになるってことだよ。真耶がいないならこんなつまらない世界、一秒だって生きる価値はない」

「そう。じゃあ自殺でもする?」

 突き放すように淡々と言葉を返す真耶に、やまとはゆっくり首を横に振った。

「それは、できない。自殺じゃ駄目なんだ。僕は価値のない世界から逃れたいっていう自分勝手で惨めな理由で死ぬことになる。病に侵され抗う術もなく死んでしまう、君の美しい運命とは違う。自殺なんかしたら、真耶と同じ世界にいられなくなっちゃう」

「だったら、どうするの? 頑張って事故にあう? それとも頑張ってもう一度病気をひどくする? それをやまとが本気でわざと引き起こすのなら、それはもう自殺するのと変わらないわ」

「僕もそう思った。だからその方法はやめにしたんだ。僕たちはあくまでも運命に従って死ぬべきだ」

 やまとはぐっと真耶を見上げた。ひるまないように眉間に力を入れる。真摯に張り詰めたまっすぐな眼差しは、真耶が今まで見たことのないものだった。思えば、こんなにじっとやまとを見つめるのも随分久しぶりのことだ。手術が成功してから、一年半。徐々に成長していく少年の姿から、真耶は目を背け続けた。だからこうして見てやっと気づく。やまとは以前より大人っぽくなった。真耶はもうその変化を厭わない。これは、何も知らなかったやまとが真耶の世界に近づいた証。あどけなさと引き換えに、瞳には危うい美しさが宿っていた。

 真耶は急に怒っているのが馬鹿らしくなった。美しい少年の瞳は全てを浄化してしまう。少女は何かを諦めたように、ふっと息をついた。

 真耶の心が静けさを取り戻していく様子を、やまとは祈るように見上げていた。

 やまとの目の下には深い隈が刻まれている。真耶はそれに気づいて、そっと指を伸ばした。

「昨夜、寝てないの?」

 少女の冷たい指先が、やまとの目尻に触れる。

「眠れなかった。真耶が味わった痛みを思うと」

 やまとの表情は苦しげに歪んだ。罪悪感と後悔が手にとるようにわかる。

「ずっと私のことを考えてた?」

「うん。ずっと、真耶のことだけ考えてた」

 少女は少年の頬を慈しむように撫でた。

「たくさん頭を使ったんだね」

 ついさっき自分の足でぐしゃぐしゃにしたやまとの髪を、真耶は丁寧に直した。そんな真耶の様子を、やまとは信じられないような気持ちで見ていた。とても眩しい、尊いものの前にいるような気がした。

「わかった。いいよ、ここに座って」

 真耶が手を引っ込めて、ポンとベッドを叩いた。やまとは言われるままに立ち上がり、膝を払ってから、浅くベッドに腰掛ける。

「聞かせて。やまとが昨夜考えたこと」

 真耶は寝る前に絵本の読み聞かせをねだる子どものように、やまとに笑いかけた。緊張していたやまとの心がほぐれる。すぅ、と軽く息を吸い込んでから、やまとは言った。

「僕は、この世界に生きる価値がないことを君に証明するために生きる」

 低くなった少年の声は真耶の耳に心地よく響いた。少女は微笑みながら、無言で続きを促す。

「僕の世界の中で、唯一価値ある美しいものが真耶なんだ。君がいなくなったら、僕が僕として生きる理由はない。だから、僕の残りの命は全部真耶のために使うよ。君の分まで生きるなんて、自己中心的な偽善じゃなくてね」

「うん」

「真耶はよく言ってたよね。この世界ではきっと、私が考える奇跡は起こらないって。病室の外の世界が、病室の中の世界よりも魅力的で価値があるとはどうしても思えないって。だけど本当にそうなのか、確かめられないから不安だって。僕がそれを、確かめてくる」

 考える時間は充分ではなかった。不安だらけの精神状態で、判断力も最大限に発揮できたとは言えない。それでもやまとには真耶が何を望むのかがなんとなくわかった。

「とても面白そう」

 真耶は声を弾ませ笑った。やまとは少女の笑顔が消えてしまわないことを願いながら言葉を紡いだ。

「外の世界に価値がないことを確かめられたら、真耶の世界は絶対的なものになる。生まれた時から隔離されて、ずっと病室の中で生きた君は、価値のない世界に毒されないでとても美しく幸せだったということだよ。外の世界の奴らがどれだけ君をかわいそうだって憐れんでも、それは間違いだ。負け惜しみだ。だって本当にかわいそうなのは奴らの方なんだから」

 少年の言葉はひとつ残らず真耶を喜ばせた。与えられて初めて真耶はそういう言葉を聞きたかったのだと気づいた。自分でも知らなかった願望が、やまとの言葉で覚醒する。

 少女は十五年間、母親をはじめとするたくさんの大人から憐みの視線を受けてきた。自分は本当にかわいそうなのか。疑問と不安、言い知れぬ屈辱感。そんな思いから解放されるかもしれない。やまとが生きることによって。

「私は、かわいそうな子じゃなくなるの?」

「ああ。むしろ世界で一番幸せな女の子だってことになる」

 世界で一番、幸せな女の子。

 ずっと自分とはほど遠いと思っていた存在。

「素敵」

 真耶は感嘆の息を漏らした。

「そのために僕が証明する。残りの人生を全部使って、この世界に価値のあるものなんてひとつもないことを確かめる」

 やまとの話は真耶にとって、本当に夢みたいな内容だった。やまとが言うとおりになればいいと心から思う。しかし、そう願えば願うほど、胸をかすめる不安もあった。

「ねぇ、やまと」

 声を小さくして、少年に語りかける。

「外の世界には、一見価値があるように見えるものがたくさんあるらしいの。ほとんどの人はそれを本当に価値があるものだと信じ込んで生きていくんだって」

「その方が楽だからね」

 うん、と真耶がうなずいた。

「やまと。私はあなたが惑わされてしまわないかとても心配。だって、やまとはとても純粋なんだもん」

「純粋? そんなことないと思うけど」

 やまとは不思議そうに首を傾げる。

「そんなことあるよ。だから、ちゃんと気をつけてね」

「うん。わかった。大丈夫、誰にも心は開かないよ」

「本当? じゃあ、誰とも仲良くならない?」

「友達も恋人も死ぬまで作らない」

「優しい誰かが近づいてきたら?」

「拒絶する。それでも駄目なら逃げる」

「楽しそうなことや面白そうなことがあっても、騙されないでいられる?」

「絶対に近づかないよ。少しでも楽しそうだと思ったことはすぐにやめる。趣味も娯楽もいらない」

 少しの迷いもなく答えるやまとを見て、真耶は満足だった。目を細めて笑う。少女の心からの笑顔を見て、やまともまた笑った。満ち足りた時間が二人の間に戻ってくる。しばらく笑いあった後、真耶が確かめるように言った。

「やまと。あなたは私が死んだあと、友達も恋人も作らず一人ぼっちで、何一つ楽しいことも面白いこともないまま生きていくのね」

 やまとは、小指を立てた右手をすっと差し出した。

「誓うよ。僕は真耶のいない世界では絶対に幸せにならない」

 それを聞いて、真耶も右手の小指を差し出す。

「それなら、私も誓う。死んだ後も、ずっとやまとを待ってるよ」

 二人の小指はきゅっと結ばれた。

「これで絶対、また会えるね」

 額がぶつかりそうな距離に顔を寄せて、真耶がささやいた。

「長く待たせるかもしれないけど、必ずいくから」

 絡めた指が離れる。少年はそっと少女の背に腕を回した。硝子細工を扱うような慎重さで、ふわりと体を引き寄せる。実際に、ほんの少し力を加えただけで壊れてしまいそうな程、真耶の体は細く小さかった。柔らかな手ごたえも、肌のぬくもりもあまり感じられない。本当に人間じゃないみたいだと、やまとは思った。

「待ってるよ。必ず証明しに来て」

 真耶は全てを受け入れた。自らの運命も、少年の裏切りも。たったひとつこの誓いさえあれば許すことができる。

「やまと。私、あなたに会えて本当によかった」

 体を離し、真耶は微笑んだ。それはやまとが今まで見た中で、最も美しい少女の笑顔だった。

 ひと月後、やまとは元の病院に移っていった。

 翌年三月。大気が温かさを取り戻し、桜のつぼみが膨らみ始めた春の早朝。真耶は眠るように息をひきとった。十五歳だった。

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