供物ふたり ―庭園寄宿舎の退屈なひとかけ

八島えく

第1話 供物と番人

 この年の供物が決まった。静かに行儀よく先生の話を聞いていた生徒たちは、突如ざわめいた。

 静かに、と先生がいさめる。


 この寄宿舎――水中庭園を模した男子寄宿舎には、毎年ひとり、天へ捧げる供物が選ばれる。その選定基準は、天に背く行為をはたらいた者、と言われている。


 どうにかどよめきのおさまった教室で、赤毛の少年――リドリーは、その話をつまらなそうに聞いていた。

 自分が供物でなくてよかった、という安心感。また平凡で面白みのない日常に微睡むのだろう、という諦観。机に頬杖をついて、先生に指摘される前にふるい教科書とノートを開いておいた。


「――して、供物が捧げられるのは1か月後。その間、供物の身の回りの世話係として、『番人』が選ばれるのは、すでにみなさんご存じですね?」

 はい、と素直な生徒たちは頷く。


「その役目はリドリー、あなたに決まりました」

「え」

 リドリーは、ぱちぱちと黄金の瞳をしばたたかせた。


   *


 リドリーというのは苗字であって名前ではない。この庭園寄宿舎では、生徒同士、先生同士、先生と生徒などどのような間柄であっても、苗字で呼び合う習慣になっている。だから誰かの名前を知っているという者はごくわずか。名前を知るもの同士というのは、ひそやかな深い関係を持っている、とされる。当然リドリーにそんな耽美な関係者はいない。いつもひとりだから。


 供物の番人。供物として生を終わらせることとなった生徒への、せめてもの慈悲。ひとつきの間は庭園寄宿舎内を実質自由に歩き回っていい。好きな時に好きな場所へ行っていいし、好きな時に好きなものを食べて良い。ただし、寄宿舎から出ることは許されない。

 そんな供物の監視役と目付を兼ねた役が番人というらしい。この番人という役目は、生徒にとっては誉れ高い役目だった。ただこの年の番人に選ばれたリドリーは、なぜだか嬉しくもなんともなかった。


 供物は寄宿舎から遠く離れた『隠れ家』に隔離される。基本的に供物はそこで寝泊まりする。日中はどこへ行こうと自由。むろん番人も、供物に付き従う形で、寄宿舎の授業を欠席することもできる。


 リドリーにとっては、退屈な授業を合法的に抜け駆けできるから、ラッキーくらいにしか思っていない。

 供物、というのにも興味はない。どんな背信行為を働いて供物にされたのか、それだけ少し気になる。


 庭園寄宿舎はだだっ広い。ひとつの家、学校、それよりももっと広い、ひとつの街として形成されていると言っても良い。

 特筆すべきは、清らな水があちこちで流れていることである。この水が名物でもあった。水路に噴水、池に庭、あらゆる場所に水が満ち、寄宿舎を輝かす。

 さあさあと水の流れる水路の橋を渡り、隠れ家へ足を運ぶ。番人の世話はもう始まっている、顔を合わせておくように、と先生のお達しだ。授業がサボれるならいいや。リドリーはずっとそればっかりだった。


 リドリーは隠れ家をひょいっと覗き込んだ。俯いて手遊びに興じる人がいる。供物だ。

「……なあ」

 遠慮がちにリドリーが声をかけた。ぴく、と供物が動いた。


 ゆっくりと、供物がこちらを振り向いた。突如、リドリーの息が止まる。


 少しくせっけの焦げ茶の髪に、濁った緑の目が映える。愛らしいというよりは凛々しい顔立ちの少年だった。

 白い肌に薄いシャツ。まだ制服を着る権利は残っていたらしい。ただそれらは丈に合っておらずぶかぶかだ。

 袖から覗ける細い指に、赤い毛糸が絡まっている。


 ぽかんとした表情の供物が、わずかに首を傾げた。


「だれ? 番人?」

「あ、ぁ」

「きみが番人なの? よかった」

 供物が、ふわっ、と微笑んだ。柔らかなあどけない微笑。天使だって聖女だって、こんな笑顔はできやしない。リドリーの心臓が高鳴った。

「僕はアリステア。きみは? なんていうの?」

 供物――アリステアはそっと立ち上がって毛糸をポケットに突っ込む。背丈はリドリーよりも頭ひとつ小さい。体も一回り華奢だ。

「俺、は。リドリー」

「リドリー。っていうんだ。これから1か月、よろしくね」

 そっと差し出された右手。リドリーはおそるおそる受け取った。

「こちらこそ、よろしく」


 かくして、リドリーの番人生活が、始まった。

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