いじわる令嬢のゆゆしき事情 白雪姫の逃避行

九江 桜/角川ビーンズ文庫

特別書き下ろし短編『幼少期』

 十年前、ヴァインフェス家の庭。

 フリッツは、そではもちろん顔にかかる金色交じりの茶色いかみまで涙にらして泣いていた。

 はしばみの木の下から聞こえる泣き声に、通りかかったイザベラは黒い目を皿のようにする。

「あたしの秘密のかくにいるのはだぁれ?」

「ふ、え? ご、ごめんなさい!」

 背に流した黒髪が乱れるのも気にせずのぞき込むイザベラに対して、フリッツは涙をこぼしながら謝った。

「ここはあたしの場所よ。あなた、どうしているのよ?」

 秘密の場所を取られたイザベラの声はとがりぎみで、無断で庭に入り込んだフリッツは委縮いしゅくしてしまった。

「ごめん、ごめんなさい。あ、謝るから……」

「なんで泣いてるの?」

「う、えっと、ごめんなさい」

何処どこ怪我けがしたの?」

「ご、ごめん」

「なんで謝ってばかりなのよ」

 赤くなった目の縁から涙を零し続けるフリッツに、イザベラもあきれた様子で腕を組む。

 フリッツは謝ってやりすごす以外に対処法を知らず、だまり込んでしまった。そんな自身が情けなくて、また涙がき出る。

 そんなフリッツに、イザベラは答えを待ちきれず、勝手に体を調べ始めた。

「ちょっと、あんまり動かないで。……よし、怪我はないみたいね」

「う、うん。ない、よ……」

「そう。じゃあ、どうして泣いてるの? 痛いところはないんでしょ」

「ご…………、えっと……」

 反射的に謝ろうとしたフリッツは、さすがに対応として間違っていることはわかっているが言葉が続かない。

「じゃあ、どうして謝るの? 何か悪いことしたの?」

「僕……、勝手に入って。それに、な、泣いてるから」

「泣いてると謝るの?」

「泣くと、大人に、怒られるから……」

 家で泣けば、見苦しい、情けないと使用人にしかられ続けていた。だからこそ、フリッツは息が詰まって苦しくて、げたいという衝動しょうどうのまま、気づけば榛の下にいたのだ。

「どうしても、泣きたくなって……、出てきたんだ…………」

「泣くためにうちの庭にいたわけ?」

 イザベラの確認に、フリッツはずかしくてまた目に涙が浮かぶ。うなずけば、イザベラは不意に手を伸ばしてきた。

 反射的に目をつむったフリッツを気にせず、イザベラは優しく頭をでる。

「……え…………? な、何?」

 驚いてフリッツがイザベラを見ると、途端とたんに黒いひとみみに細められた。

「あら、涙止まったわ。良かった」

 そのままめるように頭を撫で続けるイザベラに、フリッツは身を硬くするばかり。

「おねえちゃぁぁああん!」

 突然響ひびいたおさない声に、フリッツは肩を強張こわばらせた。

「ヴィヴィだわ。あたしの妹」

「あ、ごめん……」

 余人の存在に、フリッツは庭から出ようとあわててこしを上げた。すると、イザベラは可笑おかしそうに首をかしげる。

「変なの。もう泣いてないのに、どうして謝るのよ。妹が呼んでるから、あたし行くわ」

「え……。僕を、追い出さないの?」

「追い出さないわよ。いていいわ」

「いて、いい……?」

「あたしの隠れ場所だったけど、特別にいていいわ」

 自慢げに告げるイザベラに対して、フリッツは言われたことがすぐには理解できず茫然ぼうぜんとしてしまう。

「あたしもお姉ちゃんだから泣けないの。あたしが泣いたらヴィヴィまで泣くんだもの。そしたらお母さんがすごく困るのよ」

 唇を尖らせ不満そうに言うイザベラに、フリッツは頷きを返す以外に思いつかない。

「だから、どうしても泣きたいときにはここで泣くようにしてるの。あたしも同じよ。だからあなたもここでは泣いていいってことにすればいいわ」

 泣きたい時があるとは思えない、屈託くったくのない様子でイザベラは告げた。

 何よりフリッツを驚かせたのは、イザベラが口にした言葉こそ、今、フリッツが欲しかったものであったこと。

 いていい、泣いていいと許されたことが、フリッツにとっては青天の霹靂へきれきだった。

 フリッツにとって泣くことは、父でさえわずらわしそうな顔をする悪いことだった。継母ままははに至っては、当てつけかと怒るほどのことだった。

「……なのに許してくれるの?」

「おねえちゃぁぁああん!」

 フリッツのつぶやきは、先ほどよりも近づいたヴィヴィの呼び声にき消された。

「ヴィヴィが探してるわ。あたし、行くわね」

 言うと同時に、イザベラはかろやかに立ち上がった。

 このままでは行ってしまう。フリッツは榛の木の下から身を乗り出した。

「あ、ありがとう……っ」

 伝えた瞬間しゅんかん、黒髪と裾をひるがえしてイザベラが振り返る。その顔には照れたような満面の笑みが浮かんでいた。

 去るイザベラの背を見つめ、フリッツは息が苦しくなった。押さえた胸元むなもとでは心臓しんぞうが速く、背筋が粟立あわだつ感覚もある。

 それは少年が今まで知らなかった感情。

 そしてこれから知って行く想いの片鱗へんりん

 フリッツは、イザベラと出会ったその日から、ヴァインフェス家の榛へ、イザベラに会うため通うようになった。

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