陽が沈む時 =エーデムリング物語・2=

わたなべ りえ

第一章

赤沙地海岸


 どんよりと重く沈んだ灰の雲の下、藍色の海と赤色の砂地を切り分けるように、一頭の黒馬が疾走する。

 血を吸ったような砂を巻き上げ、時々押し寄せる波をしぶきに変えながら、馬は走り続ける。

 馬の黒い体からは、波しぶきにも似た汗が吹き出し、馬の鼻腔は真っ赤な皮膚が遠目からもわかるほど広がっている。

 馬はすでに限界に達していた。

 しかし、馬の乗り手はそのことに気がつかない。

 彼の心は、馬の状態よりも、深く深く傷ついている自分のみに向いていたからだ。

 ついに馬は砂の深いところに足をとられてよろめき、その反動で、乗り手は真っ赤な砂地に叩きつけられた。


 落馬した少年は、ピクリとも動かなかった。

「……うぅ……」

 と、小さな嗚咽を漏らしただけだった。

 痛くて泣いているのではなかった。落馬の衝撃など、彼の心の傷に比べれば軽いものだった。

 酷使された黒馬は、それでも主人が大事らしく、歩み寄ると首を下げ、少年の銀髪をモゴモゴと撫でた。

 

 赤沙地海岸に波の音だけが響いていた。


 やがて、少年は頭を上げた。馬の鼻息が、おでこをくすぐる。

「ごめんよ……。ひどい走らせ方をしたね」

 砂で汚れた自分の顔をほろうことなく、少年は馬の鼻面を優しく愛撫した。

 優しいエメラルドの色……。だが、少年の瞳はどこかはかなげで、不安定な色でもあった。

「君にはわかるかい? 僕はこの国では異邦人なんだ。母上は、確かに自分の意思でこの国に嫁いだのかもしれない。だけど、僕は自分の意思でここに生まれたわけではないんだよ。僕は……僕は、僕であることを認めてくれるところに帰りたい。そんなこと、皇子である僕が、誰にも言えるはずないだろ?」


 魔の島全土をほぼ手中に収めているウーレン国の第一皇子・セルディーン・ウーレン。

 彼の名は、母・フロル・セルディン・ド・ウーレンが、思いを込めて付けたものだった。

 しかし、セルディにとっては、これは異国の王の名前にしか過ぎない。

 その上、セルディは、ウーレン族にふさわしくない銀髪と緑の瞳を持って生まれてしまった。

 これは間違いなく、母方のエーデム族の特徴だ。


 ――ウーレンの民にとって、父にとって、自分は望まれていないのだ。


 何かあるたびに、セルディは居心地の悪さを感じてしまう。

 特に、双子の弟と比べられる時、差をつけられる時には……。


「おぉーーーい……」

 風に乗って声がする。

 セルディは立ち上がって地平線に目をやる。

 砂煙にも似た赤い影が近づく。

 セルディの表情が一瞬曇った。あの影は、今回の事件の発端だ。

 驚くばかりのスピードで影はみるみる近づいて、やがて姿をはっきりと見せた。

 燃えるような鬣の馬。調教を終えたばかりの若駒だ。

 セルディは、慌てて顔を手でぬぐい、衣服を整えた。


 真紅の馬から、燃え立つような髪の少年が飛び降りた。

「セルディ、どうした? 大丈夫か?」

 双子の弟、アルヴィラント・ウーレンだった。

 アルヴィは、まさに父に良く似ていた。ウーレン族らしい真っ赤な髪と瞳を持ち、とがった耳先に飾り毛を持っていた。

 多くの民は、彼を愛している。双子として生まれながら、彼はまったくのウーレン王族だった。

「あいつの言ったことなんか、気にするなよ。俺、鞭で叩いてやったからな」

 アルヴィは、にっこりと笑いながら、セルディの肩に手を置いた。

「ごめん……。心配かけちゃったね」

 セルディはうつむいた。

 弟の、屈託のない明るさがまぶしかった。




 昨日は二人の皇子の、十歳の誕生日だった。

 遠く戦場に出向いていたウーレン王も帰国し、華やかなパーティが催された。

 その席で、王から息子たちにプレゼントがなされた。

 それは、馬だった。

 セルディにはごく普通の黒馬が、しかし、アルヴィには特別な赤馬が与えられたのである。

 赤馬は、劣勢遺伝でめったに現われない馬であるが、すべてにおいてすぐれた種である。

 戦乱の歴史の中、英雄の傍らには、つねに燃える鬣の赤馬がいた。

 赤馬に乗ること自体が、英雄の証とも言えた。

 喜びを素直にあらわす弟の横で、セルディは必死に気持ちを押さえていた。


 ――やはり父は、僕のことを愛していないのだ。


 そう浮かんでくる考えを、必死に打ち消した。

 たった一頭しかいない赤馬だから、僕よりも馬好きなアルヴィにあげた。きっと、そうに違いない。

 それに、この黒馬だって小柄だけど、けして悪い馬ではない。


 お礼を言わなければ……。

 セルディは、頭を上げた。王と目があった。

 ギルトラント・モア・ウーレン。ウーレンの王にして、魔の島をほぼ統一した英雄である。

 ウーレン・レッドと呼ばれる王族特有の赤い髪と瞳を持つ。これは、ウーレン王族としての濃い血を意味していた。

 なぜ、僕は父に似なかったのだろう? アルヴィのように父親に似ていれば……。

 王は、セルディの心を見透かしたように、鋭く燃える瞳を向けていた。

「ありがとうございます。父上」

 セルディは、慌てて深くお辞儀をしながら、手短にお礼を述べた。

「二人とも、よく励むよう……」

 父の返事はさらに短かった。



 翌日、つまり今日であるが、馬場に出たアルヴィは、上機嫌であった。

 馬場でちやほやされるアルヴィを横目に、午前中は放牧場で読書などして、セルディは時間をつぶした。

 しかし、もらった馬を放っておくわけにもいかず、午後からは乗馬の練習をはじめた。

 厩舎の中に自分の馬を見つけると、セルディはますます悲しくなった。

 アルヴィの馬は、かつて父と一緒に戦場を駆け巡ったクリムゾン号が父馬と記載されている。

 ところが、自分の馬は……ひどい血統だ。その上、牝馬だ。たしかに形よいが、小柄である。

 馬はセルディの顔を見ると、きょとんと不思議そうな顔をした。

 セルディは若干心がゆるんで、微笑んだ。

「君は……気持ちはやさしそうだね」

 乗ってみると柔らかい反動で、性格も素直なことがわかった。

 しかし、心なしか回りの人がこそこそしながら、セルディを見ている気がする。

 そんな時だった。

「オホホホ……。所詮はエーデム族ですものねぇ。第一皇子といえど、ウーレンきっての名馬なんて、あげられるはずはありませんわよねぇ」

 わざと聞こえるような大声で、貴族の女が高笑いした。

 その声で、セルディの中で何かが切れた。

 日々、必死に押さえつけていた感情が、堰をきったように溢れ出した。


 所詮は異邦人なのだ!

 ここでは、僕は異邦人!


王族が持つウーレン・レッドの髪も、燃える瞳も、飾り毛も持たない。

 母の持つエーデム族の血を濃く持った僕を、誰もが白い目で見ているではないか!

 父すらも、やさしい言葉のひとつもかけてくれない!

 銀の髪ゆえに、緑の瞳ゆえに……。

 父上は……ウーレンの人々は……僕を疎んじている。

 いつも、いつも……。


 セルディは思わず鞭を打った。

 馬は驚き、セルディの感情のまま出した命令にしたがって、埒を飛び越えた。

 セルディは泣きながら、馬をメチャクチャに走らせた。

 そして、この赤沙地海岸までやってきたのだった。



「……え? アルヴィ、もしかして鞭で叩いたって、あのリナ・ウーレンをかい?」

 弟の言葉尻を捕まえて、セルディは慌てた。

 リナ姫は、王家の血を持つ唯一の女性で、異国からきた王妃の小姑的存在だった。

「もちろんだ! あのババァ! 腹が立つったら」

 兄が青くなることを、弟は真っ赤な顔をして、けろりと口にする。

「セルディ、俺と君は双子の兄弟なんだ。同じ血を分けているんだ。たしかに見掛けは違うけれど、血は一緒だ。だから、君がエーデム族だったら俺もエーデム。俺がウーレン族なら君もウーレンだ」

 アルヴィの瞳は怒りで燃えていた。

「あの……馬だって。そうだ! 交換しよう。君にだって、あの馬はふさわしいんだ。そうみんなに宣言してやるよ」

 アルヴィは本気のようだ。


 弟も母も……僕は愛している。

 父も……尊敬している。

 でも、どうしても僕は異邦人でしかないのだ。

 そして、家族を心配させないように、愛にこたえるために、僕は演じ続けなければならない。


 セルディは、弟を抱きしめて言った。

「バカだな……。リナ姫にそんなことをしたら、母上がまた困るじゃないか。アルヴィは、考えなしなんだから……。それに馬だって、僕は結構こいつを気に入っているから、交換は嫌だよ」

 アルヴィは、困惑した顔をした。

「でも、ありがとう。アルヴィ……君の気持ちがうれしいよ」

 セルディは、にっこり微笑んだ。

 エーデム族特有の、人の心をとろかすような優しい笑顔に、アルヴィの心もとけていった。


 二人は城に戻ろうとして、馬に乗った。

 走り出そうとして、アルヴィが小声でつぶやいた。

「セルディ……無理はするな」

「ああ、こいつは疲れているからね。ゆっくり走るよ」

「こっちも付き合う……ゆっくり帰ろう」

 馬は軽くキャンターで走り出した。

「セルディ……。無理はするな」

 アルヴィはまた同じ言葉を繰り返したが、走り出したセルディには聞こえなかった。


 ――無理はするな。楽になれ。


 俺は、いつも君の味方だから……。

 君を守ってあげるから……。

 並んで走る母そっくりの兄の横顔に、アルヴィは孤独を見る。

 重い雲はいつのまにか薄くなり、西日が所々、海を、砂地を染めていた。 


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