第13話 葛藤

 昨夜のことだ。結局あの後、すぐに俺は親父の自室を逃げるように出ていった。

 しかし、部屋を出る際横目で見たあいつの獣のような表情はどこか満足しているようにも見えた。

 ……あいつが何を考えているかは分からないが、俺は俺のやりたいようにやるだけだ。

 ただ一つ気がかりなのはあいつがエリという存在が俺のアキレス腱であることに気づいていたことだ。 今後あいつがエリに手を出してくるようなら、俺もそれに対抗しなければならない。

 エリを守らなければならない立場の俺という存在が、逆にエリを危険な目に合わせることになるならば、俺はエリから離れた方がいい。

 無論、俺が離れることにより、エリは一人で行動することが多くなるだろうが、それと秤にかけても、俺の近くにいることの方が圧倒的にリスクが高い。

 この国で最も敵に回してはいけないのは、誘拐犯でもテロリストでも警察でもない。『ヤクザ』だ。

 俺は奴らの狡猾なやり口を知っている。

 連中は狙った獲物は死ぬまで逃がさない。足の先まで飲み込みつくし、骨までしゃぶりつくす。

 うちの組の連中は構成員の数こそ中堅クラスだが、特に個々の能力が高く、敵に回すのは厄介だ。

 今はまだ、やつらにとって俺という存在は『組長の息子』として通っているが、いつ俺を標的にするかも分からない。あるいは、親父の思惑とは別に、俺の立場を利用しようとする奴も今後出てくる可能性がある。

 ……そうだな。俺はエリと縁を切った方がいい。

 親父の手の届かない、どこか遠くの街へ行って身を潜めるべきだ。

 そう思案していたところで玄関のチャイムが鳴った。


「ハルってば!早く起きないと遅刻するわよ!」


 毎朝のごとくエリが俺を起こしにきたようだ。


「なんだよ」

「なんだよじゃないわよ。っていうか起きてたの?珍しいわね」


 玄関をガチャリと開くと、いつも通り、金髪ツインテールをゆらゆら揺らす夏服の制服を着たエリがいた。


「お前、怒ってたんじゃないのかよ」

「わ、私は来たくなかったわよ。でもゆみちゃんがあんたと行けってうるさいから」


 ゆみちゃんと言うのはエリのおばさんのことだ。

 初めて会った時おばさんと呼んだら怒られたからそれ以来ゆみちゃんと呼んでいるらしい。

 俺には親をちゃん付けで呼ぶという感覚が理解できない。まあ、呼びたくもないがな。


「はあん」

「はあんって……わざわざ来てあげてるんだから感謝しなさいよね」

「別に頼んで無いがな」


 こう言うとエリは昨日までの怒りを思い出したかのようにムッとした顔になった。と、同時に俺も思い出した。


「ああ、そういえば昨日は……」

「昨日?」

「……いやなんでもない。お前は呑気でいられていいな」

「はあ!?なによそれ!」


 昨日の件について謝ろうかと思ったがやめた。こいつの身の安全のためには俺と縁を切った方がいい。であれば、こいつには嫌われていたままの方が都合がいい。

 少しだけ心苦しいがこのまま傍若無人を振舞おう。なんてことはない。傍若無人は俺の代名詞だ。いつもの俺とさして変わらない。そうだろ?

 ……何を自分に言い聞かせてるんだ、俺は。


「そう、そうよ、昨日よ!何だったの昨日のあれは?いきなりうち来て私の顔見てすぐ帰ったでしょ!?」

「ああ、おばさんに挨拶しようと思って尋ねたが、お前の顔見たら気分悪くなってな」

「なによソレ!なんでそんなこと言うの!?」

「なんでってそりゃ……」


 ……言いかけてやめた。

 お前が嫌いだからだよって言ったらこいつはどんな顔するだろうな。

 エリをソープに沈めると言った親父あいつの顔が頭によぎった。同時に、怪物が女の頭を撃ち抜く光景がフラッシュバックのように脳裏をかすめた。

 あいつは言っていた。俺が人間らしい顔をするようになったと。エリに対するこの葛藤が人間らしいということなら、どうやら俺はまだ怪物にはなれないらしい。俺はまだ、感情を殺し切れていない。

 だが、このまま中途半端に行方を眩ませるより、エリとの関係をすっぱり切った方がいい。それがエリのためでもあるはずだ。

 よし、少しずつこいつの自立を促そう。差し当たってまず、一人で登下校ぐらいはできるようになって貰いたい。


「まあいいや……それより今日は気分が悪い。学校休むから石井に報告たのむわ。んじゃ」

「んじゃじゃない!」


 玄関の扉を閉めようとしたところでエリが扉に勢いよく足を挟んできた。


「っつぅー……」

「なにやってんだ……お前」


 エリは扉に挟まれた足を痛そうに抑えている。痛がるならやらなきゃいいのに。


「んじゃじゃない!」

「二回も言わんでいい」

「どうせまたサボりでしょ!」

「いや、気分が悪いのは本当なんだよ」

「嘘よ、人一倍頑丈なあんたが風邪なんて引くわけないじゃない。もうその手には引っかからないわよ」


 親父の件で気分が悪いのは事実だったが、今までこういうやりとりを何度もしてきたせいで信じて貰えないらしい。狼少年とは悲しいものだな。

 まあ確かに風邪なんて引いたことが無いがな。


「いやどう見ても病弱体質の気弱のイケメンである俺をまるで風邪引かない馬鹿みたいに言うのはやめろ」

「あんた自分で言ってて恥ずかしくない?それに風邪引かない馬鹿ってまさにその通りじゃない」

「だから今絶賛風邪引いてるんだって。ほら顔色も悪いだろ?」

「別に、普通に見えるけど」

「おら、もっと近くで見てみろって」


 そう言って俺はエリの眼前まで顔を近づけた。


「ちょっ、近い!!」


 エリは顔を真っ赤に染め、目をそらしながら俺の胸を押しのけた。


「ああ、すまん。怖かったか」


 男性恐怖症であるエリにとっては、やはり幼馴染の俺でも少し怖いのかもしれない。


「ち、違う!怖いとかそういうのじゃなくて!」


 ツインテールをぶんぶん揺らしながら首を振っている。


「とにかく!ちゃんと学校行くわよ!」

「嫌だ」

「だめよ」


 もうこのやりとりも飽きたな。うん、言おう。


「もうこのやりとりも飽きたな」

「わたしだって好きでやってるわけじゃないわよ。あんたがいつも子供みたいにわがまま言うからでしょ!」


 エリはこんな風に言っているがどこか楽しんでいるようにも見える。まずいな。このまま行くと結局こいつが泣きそうになって俺が折れるいつものパターンだ。

 ふむ、ならば仕方ない。いつもと攻め方を変えてみるか。


「分かったよ。じゃあ一発シコってから行くからお前先行ってていいよ」

「え?一発シコ?って何?」

「は?」

「シコってから行くってどういうこと?」

「お前まじか……」

「何が?」


 素で聞き返されてしまった……。

 いや、この反応が正常なのかもしれない。相手は性教育を受けているかも怪しい中学生女子だ。まして、父親も兄弟もいなく、男に免疫の無いエリのことだ。ひょっとしてこいつはそういった知識や経験が皆無に等しいんじゃなかろうか。

 ……こいつAVとか見た事あるのかな?うん、言おう。


「お前AVとか見た事ある?」

「エーブイ?あ、図書館とかのAVコーナーのこと?」

「いや、アダルトビデオのことに決まってるだろ」

「……アダルト?あだ、あだ!!??」


 どういうビデオか気づいたのか、瞬間湯沸かし器のように顔を真っ赤に染め上げた。地肌が白いから顔が赤くなると分かりやすい。

 ていうかこいつ面白い反応するな。


「えっちなやつってことでしょ!?なんで今それ聞くの!?っていうかセクハラよ!セクハラ!!」

「……」



 反応からしてマジに知らなかったらしいな。

 いや、むしろ、俺が育ってきた環境の方が異常だったんだろう。俺の周囲の大人たちは、平然と子供に陰部の粘液を擦り付けているところ見せつけていた。

 俺も少なからずやつらの悪影響を受けている。気をつけねばなるまい。

 なんかエリには悪い事をしてしまった気分だ。こいつに下ネタを言うのは何故だか罪悪感が凄い。

 よし、この路線はやめだな。


「とにかく学校は一人で行ってくれ。一生のお願いだ」

「だめよ。あんたこれで何度目の一生のお願いよ?」

「俺は一生のお願いとは言ったが、一生に一度のお願いとは言っていない。一生に一度のお願いはまだ有効だ」

「そんな小学生みたいな屁理屈はいい!もう!そろそろ遅刻しちゃうからいくわよ!」

「どうしてもダメ?」

「だめよ」


 だめだ。真摯にお願いしても即却下だ。こいつはなんでこんなに強情なんだろうか。

 ならば仕方ないか。これはできれば使いたく無かったが、最後の手段だ。鬼札ジョーカーを切らざるを得ない。


「いーーーーやーーーーだーーーー!!!!!いーーーーかーーーーなーーーーいーーーーー!!!!!いーーーきーーーたーーくーーなーーいーーーー!!!!!」


 俺は床に転がって赤ん坊のように手足をわしゃわしゃさせながら思い切り叫んだ。

 これが俺の切り札。秘儀『駄々をこねる』だ。その見た目があまりに惨めかつ、使った後の虚無感による反動が凄まじいことから禁じ手とされてきた最後の手段だ。おそらく俺と同世代でこの技を使いこなせるやつはそうそういないだろう。

 これで、ばっちり。ドン引きしたエリの好感度を下げつつ、あきれ果て俺の今日の登校を諦めて貰う算段は整った。


「いーーーやーーーだーーーー!!ぜーーーったいいーーやーーーだーーー!!!いーーーやーーー……」

「……」


 エリは俺を見て何も言わない。そろそろツッコむなりなんなりしてくれないと心が痛い。視線が痛い。


「いーーやーーーーぁ……」

「いつまで続けるつもり?飽きたならいくわよ」


 無慈悲に放たれたその言葉は床に転がる俺の心を容赦なく砕いた。


「……あのさ、俺の奇行にドン引きしただろ?だから一人で行けって……」

「別に。小学生の頃のハルを思い出して少し微笑ましかったわ」


 その微笑は、むき出しになった俺の羞恥心を鉄やすりでこするかのような優しさを持っていた。俺は学校をサボることを諦めたのであった……。

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