第12話 組長

 思考を切り替える。

 何も考えなくていい表の時間は終わりだ。


 俺が今歩いているのは、新築の一戸建てが並ぶ閑静な高級住宅街。

 どの家屋も、日本とは思えないほど敷居が広い。

 人気は驚くほど少なく、たまに自転車で巡回している警察官とすれ違うくらいだ。

 豪勢な門には、たいてい警備会社のプレートが掲げられていて、ちっぽけな空き巣の付け入る隙は一切無い。

 ここには、この都市の支配者層が住むのにふさわしい物々しさがあった。



 普段は静寂で、波打つ事の少ない心の膜。

 そこに、わずかな波紋が広がり、次第に大きくなっていく。

 緊張の波――。



 インターホンを押すと、しばらく待って女中の声が帰ってきた。


「俺だ。親父は帰ってるか?」


 俺は、大滝組組長『大滝龍司おおたきたつじ』に呼び出されていた。



 数分待たされた後、ようやく敷地内に入ることを許された。

 敷地内には、黒塗りの高級車が複数止まっている。


 玄関をくぐり、庭の池を眺めながら、長い廊下を渡る。

 大滝組のシンボルである、鯉が泳ぐ大きな池。

 そこには、数千万かけて作られた、壮大な滝がある。

 その道の職人に作らせた傑作だ。

 初めてこの池を見る人達は、皆感嘆の声を漏らし、その趣に魅入られる。

 冬の鯉のように、ただ茫然と立ち尽くす。

 しかし俺は、こんな池を見ても、なんの感慨も沸きはしない。

 ガキの頃から、そこにあるのが当然のように毎日見てきた。

 今ではただの水溜りだ。


「お帰りなさいませ。坊ちゃん」


 途中、ギラついた目をした部下達と出くわし、軽く挨拶を交わす。

 そいつらの目は畏怖、好奇、あるいは闘志であったり様々だ。

 親父の部下達が、俺の事をどんな風に見ているかは計りかねている。


 親父のいる部屋の前までやってきた。

 障子越しに、部屋の明かりがぼんやりと漏れ出している。

 中から声は聞こえない。

 しかし、酒を勢いよくあおって、喉が鳴る音が聞こえる。

 その音を聞いて、緊張感が一気に高まる。


「落ち着け」


 小声で自分に言い聞かせるように呟く。

 俺の心は、滝に打たれた池の水面のように、水しぶきを上げ、激しく波打っていた。


 懐に入れた、『グロック17』を握りしめ、波打った心を静める。

 ざらざらとした鉄の感触を確かめると、やがて心の波は消え、静寂な水面を取り戻す。


 障子の向こうに、俺の母親を殺した、親父がいる。

 殺したいほど憎い、親父がいる。

 俺は、声を上げず、気配を押し殺して、ただ静かに障子を開けた。



「よく来たな」



 全身が総毛立つような、ドスの利いた低い声。

 障子を開けた瞬間、底なしに冷たい、漆黒の龍の瞳に睨まれた。


 飲みこまれる――。

 目を見ただけで、そんな感情に支配される。

 血液が氷結したのかと思うほど、身が委縮して動かない。

 恐怖、狼狽、動揺、あらゆる負の感情が脳みそを一気に駆け回る。


「……ああ」


 それら全部を飲み下して、ようやく捻り出したうめき声に似た小さな声。

 それを聞いて、男は肉食獣のような巨躯を持て余すように気だるげに身を起こした。


「座れ」


 言葉に宿る、有無を言わさぬ絶対的な圧力。

 俺はそれに抗えず、暴力の支配者、大滝龍司の目の前に腰を下ろした。


 2メートル近い巨体に見下ろされる。

 喉はカラカラに乾き、胃が締め付けられるような感覚。

 猛獣を前にした小動物の気分だ。

 今にもはらわたを食いつくされそうな悪夢に襲われる。


「調子はどうだ」

「……問題ない」


 発せられた言葉に意味は無い。

 こいつは、俺の体調など毛ほども気にとめていないはずだ。

 例え俺が重病を患わっていても同じ問答がなされていた。


「学校は楽しいか?」


 ――まるで父親のような言葉。

 こいつは俺のことを息子として見た事は一度たりとも無い。

 これは儀式のようなものだ。

 俺とこいつの関係を、再認識させるためだけの言葉。

 俺を繋ぎとめておくための戒めの鎖。


「……ああ。楽しいよ」


 だから俺も、思ってもいない事を口にする。

 これは親子の仲睦まじい和やかな会話。

 それでいい。

 今は、その鎖を自ら首輪にして錠をかける。

 いずれ噛み殺すために。


「用件は何だ」


 俺は早速ここに呼び出された理由を尋ねた。

 虫唾が走るような思いを堪えて、こんな会話をしていたくは無い。

 この猛獣の檻から、さっさと抜け出したい。


「そろそろ女でもつくったか?」


 だがこの獣は、自分のペースを崩さない。

 まるで俺が狼狽するのを、肴にして楽しむかのように、酒をあおり喉を鳴らす。


「精通はしてるよな」


 ……。

 揺さぶられるな。

 動揺するな……。

 突拍子が無いように見えて、こいつは俺の腹を探ってきている。

 その証拠に、俺の言動を一言一句見逃すまいと、威圧する視線をぶつけてくる。


「……用件を話せ。」


 こいつのペースに乗せられては駄目だ。

 隙を見せれば食われる。

 相手は人間ではない。

 獲物をいたぶり、弱ったところを食い殺す怪物だ。



「お前、幼馴染がいたよな」

「……っ!」


 その言葉に、俺は動揺を隠せなかった。

 生唾を飲み込み、拳に力がこもる。

 それを、怪物は見逃さなかった。

 口の端が吊り上がり、獰猛な笑みを零す。


「そうか、幼馴染がお前の女か。……確か、南条とかいったか」

「……」


 思わず懐の拳銃に手を伸ばしそうになる。

 それを必死に理性で押さえつける。

 奥歯がギシと軋む音がした。

 堪えろ。

 今はまだ、俺の刃はこいつの喉元に届かない。



「犯せ」


 ……聞こえない。


「手なずけておけ」


 ……悪魔の囁きに耳を傾けるな。



「なんなら風呂にでも沈めてやろうか?」


「ぶっ殺すぞてめえ!!!」


 俺は親父の胸元に掴みかかっていた。



「……くくっ、はっはっは!!」


 怪物はさぞ愉快そうに笑った。

 しかし、その巨体から威圧感は消えない。

 猛禽類のような、相手を射殺す瞳も健在だ。


「どうした? ……懐に入れたハジキは抜かないのか?」

「エリに手を出したら殺すぞ」


 俺は男の言葉を無視して睨みあげる。

 俺が銃を隠し持っていたことなど、看破されていて当然だ。

 そんなことで動揺したりはしない。

 この男の『殺意に対する嗅覚』は野獣並みだ。

 だからこそ、この世界で組長トップに立てたのだから。


「くくっ……お前も中々人間らしい顔をするようになったな」


 最も人間らしくないこの男に言われたくはなかった。

 目の前の大男はおぞましい怪物だ。



「雌を従順にさせるには、食うのが一番だ。今のうちに犯しておけ」

「……」


 頭が麻痺する。

 正常な思考が妨げられる。

 押しとどめていた理性を、憎しみと殺意が潰そうとしている。

 俺は既にこの怪物の術中に嵌まってしまっていた。


「屈服させておけ。逆らわない女ってのは便利な駒になる」

「黙れ……」


「やり口は何でもいい。肉体関係で縛り付けろ」

「黙れっ!!!」



叫んだ瞬間――

視界が歪んだ。



「っ!?」



 腹部に激痛が走り、

 気づけば体が宙にうかされ、5メートルほど吹っ飛ばされていた。


 何が起きたか分からない。


「ゲホッ……ゲホ……」


 見上げると、怪物の巨体が右足を振り上げていた。

 見えなかった。

 蹴り飛ばされた。


 しかも、ただの蹴りじゃない……

 これは……


 『ヤクザキック』だ。



「春樹ぃっ!!!!」



 獣が、小動物を威嚇するべく、いななきを上げたようだった。

 その咆哮で、大気が揺れたような錯覚を覚える。

 おぞましいほどの殺気。

 名を呼ばれただけで、体が震えあがる。

 俺は、この時、生まれて初めて『死』を覚悟した。


「勘違いするなよ。お前は俺に生かされているだけだ」


 そして、続く言葉は驚くほど平坦で静かだった。

 鋭利な刃を喉元に突きつけられるような冷たい声。

 しかし、その目は血がほとばしり、いまにも眼窩から飛び出しそうだ。

 平静さと荒々しさを併せ持つから、より恐ろしい。

 これが筋金入りの極道の真の恐喝。


「俺はお前のタマをいつでも取れる」


 この怪物なら、息子を一人殺すことに、なんのためらいも持たないだろう。

 そして、ためらいを持たないだけの手段と実力も兼ね備えている。

 こいつが人一人殺したところで、組の若いのから順に懲役をくらうだけだ。

 大滝龍司の配下には、一発手柄を狙うチンピラがいくらでもいる。

 刑務所に入れられるのを名誉だと思っているような獣たちだ。

 彼らは5分先の未来すらも考えない無鉄砲さで、上の命令を遂行していく。


「俺を殺したければ力を手に入れろ」


 怪物は、四つん這いになった俺の頭上から、一升瓶に入った酒を浴びせかけた。

 前髪からぽたぽたと、酒の雫がしたたり落ちる。

 それが目に入り、痛みが走る。

 しかし、目はつぶらない。

 今、この怪物から目を離してはいけない。


「九州の焼酎だ。なかなかいけるだろう」


 怪物はそんなことを言いながら、未だに俺を見据えている。

 自分より圧倒的に弱い存在。

 まるで小動物を観察するような目。

 それがどれほどの器量を持っているか、見極めようとしている。


「いずれお前を殺す」


 俺はできるだけ目に力を込めて、怪物を睨みあげながら言い放った。

 憎悪、屈辱、殺意。

 それら全てを眼光に乗せた。


「ほう……」


 そして男は再び獰猛な笑みを浮かべた。

 嗤うのだ、この怪物は。


「そのまま這いつくばって聞け。今日呼び出した件について話してやる」


 男は俺の背中を足で押さえつけながら話し始めた。

 必死に押し返すが動けない。

 くそっ……


滝組俺達はいずれ『波組』とぶつかる」

「なんだと?」


 その言葉を聞いて、抵抗する力が抜ける。

 この世界に疎い俺でも、噂ぐらいは聞いたことがある。

 波組……現状日本で最も勢力を広げている暴力団組織、『岩波組』のことだ。

 台湾や中国のマフィアを退け、他の組織を歓楽街から駆逐したとかなんとか。

 構成員の数で言えば、大滝組を軽く上回るはずだ。


 本当に、そんなやばい組と滝組の抗争が起きると言うのか?

 いや、他でもない組長オヤジが言うんだから実際起きるのだろう。

 ……それはもう、戦争と言っても差し支えない規模の戦いになるんじゃないか?


「俺は近いうち消える」

「なに……?」


 消える……?

 消えるとはどういうことだ。

 この男自ら鉄砲玉になって死ぬというのか?

 この怪物が死ぬ……?

 ありえない。

 考えられない。

 俺が殺すまで、この男は死なない。


「そうしたら、お前が組長やれ」

「は……?」

「お前が俺の後釜だ」


 次々となだれ込む衝撃の言葉に、脳の処理が追いつかない。

 何を言っているんだ……

 俺がこいつの後釜?

 盃も受けていない俺が組長だと……?


「んなもん断るに決まってんだろ」


 この男気が狂ったか?

 俺にそんなもん務まるわけがない。


「駄目だ。お前がやれ」

「がはっ!!」


 男は、踏んでいた足に力を込めた。

 巨体の全体重が俺の背中にのしかかる。

 肺が圧迫されて息が吹き出す。

 どこかの骨がミシと嫌な音を立てた。

 常人なら背骨が砕けてもおかしくはない。

 俺の頑丈さを考慮してギリギリの力で責めてきやがる。


「……中坊のガキに何言ってんだ」

「お前はすでに完成しつつある。俺がそう育てた」

「……」


 育てた、ね……

 俺の記憶にあるのは……

 拷問のような理不尽な暴力に耐え続け

 毎日動けなくなるぐらい肉体を苛烈に酷使させ

 挙句に薬漬けにされてぶっ飛んだぐらいだ。

 ……こいつのせいで、幼少期から今まで死の瀬戸際を歩き続けてきた。

 隣は死。だってのに俺が歩いていたのは地獄だった。

 死んだ方がマシだと何度も思った。

 だが俺には死ぬことさえも許されなかった。

 おかげで手に入ったものと言えば……一寸先の闇に躊躇なく飛び込める無鉄砲さぐらいだ。


「3億積んでやる。好きに使え」

「……」


 ……3億。

 途方もない金額だ。

 俺のようなガキが手に入れられる額じゃない。

 まともに生きれば、生涯で稼げるかもわからないような大金。

 それをこの男は、何の躊躇いもせずにさらりと言ってのけた。

 しかし、間違いなく闇から手繰り寄せた金だ。


「んなヤクザの手垢のついた汚い金なんていらねえよ」

「金は金だ」

「くふっ……!」


 再び背中に巨体の圧力をかけられた。

 にゃろう……。


「だとしてもいらん」


 金に汚いも綺麗もない。

 そこには同感だが、俺は金では動かない。

 それに、この金を受け取ってしまったら最後。

 生涯こいつに余計な恩を感じながら生きなきゃならん。

 俺にとっては、仁義や任侠なんて糞くらえだが、

 金を使う度に、こいつの獣のような顔がちらちらと頭によぎるのはごめんだ。


「……やらないと言うのなら、お前の女を殺す」

「……」


 冷酷な声。漆黒の瞳。

 この男はやると言ったら絶対にやる。

 それは、ガキの頃から嫌というほど思い知っている。

 例えどんな障害が立ちふさがっても、力でねじ伏せ、我を通してきた男だ。

 警察に泣きついたところで無駄だろう。

 唯我独尊。

 邪地暴虐の王という言葉がこれほど似合う男はいない。


 だが俺は、それでも言い放つ。



「その前に俺がお前を殺すぜ」



 俺は、言いながら背中を踏みつける怪物の足を押しのけた。


「っ!」


 急に押し返され、巨体がバランスを失い、ゆらりとよろめく。

 俺はそれを捕まえるように、男の胸倉を掴み上げた。


 そして、先ほどよりも強く鋭い眼光で睨み上げる。



「お前の足元を掬うぐらいならできるみたいだな」



 それなら俺も、力でこいつをねじ伏せるだけだ。



「くくっ……」


 怪物は、堪えきれないというように、低くうなるように嗤った。


「いいぞ。その目だ」


 上機嫌そうに続ける。


「その胆力も組長おやじにふさわしいじゃねえか」


 聞いて舌打ちが漏れた。

 もしかしたら、これまでのやりとり全て、俺を試すためのものだったのかもしれない。

 この男は、一見傍若無人の大猿に見えるが、その実、計算高くどこまでも徹底した利己主義者だ。

 狡猾なんてちっぽけな言葉じゃ似合わない。

 こいつは極悪だ。

 獄道を進むために生まれてきた男だ。


 際限なき暴力の追求によって弱者を飲み込み、

 立ちふさがった敵は容赦なく焼き尽くす。

 いつしか男は、裏世界で『龍』と呼ばれるようになったそうだ。


 古い説話では、池からわき出た龍は、天狗に捕まってしまったそうだが、この男なら天狗すらも暴力によってひれ伏せさせるだろう。


「俺を殺したいんだろ? なら組の人間もんを配下において手なずけるのが一番の近道だ」

「……」


 確かにそうだ……。

 こいつの目的が何なのかは分からない。

 しかしこいつが行方を眩ませるというのなら、俺一人の力では到底追いきれないだろう。

 俺はこいつを殺す。

 それは俺の数少ない生きる目的でもある。

 しかし、こいつの部下の力まで借りたいとは思わない。



「俺は……」



 かつてこの男は言った。


 『大人になれば、おのずとこの社会が巨大な動物園の檻であったと気づく。人間は、その中で飼われている家畜にすぎない』と。


 そしてそれは、こう言っているようにも聞こえた。

 『だが俺は違う』と。


 そう。

 この男は違う。

 檻の外にいる人間。

 国の力の及ばない場所にいる人間。

 そして、人間を飼うことのできる怪物だ。


 「力を手に入れろ」とは、つまり俺に、こう言ったのだ。

 その檻から抜け出してこい。

 俺と同じ怪物になれと。



「俺は……自力で仲間を集めて大滝組お前らを潰す」



 上等だ。

 なってやるよ、怪物に。


 こいつらを正面から叩き潰せるくらいの力を集める。

 それが俺の当面の目標だ。

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