第7話 南条エリ(2)

「おらあっ!!!」ドガッ!!ガシャララッ!


 俺は教室の扉を蹴り壊した。


「俺の行く手を阻む者は何であろうと許さん」


 残骸となった扉を見下ろしながら言い放つ。


「なにかっこつけてんのよ!!」ベシッ!

 後頭部をノートらしきもので叩かれた。


「あんたねえ! これで扉壊すの何回目よ! また反省文書かされるわよ!?」

 エリが丸めたノートを手のひらにぱんぱんさせながらぷんぷん怒っている。


「計15回目だ」

「自慢げに言うな!!」ベシッ!


 再びノートで叩かれた。モーションを起こす度ツインテールがふわりと揺れる。


「あーあ、また放課後石井の説教食らうわね……」


 石井とは俺たちの担任の教師だ。

 白髪の混じった黒髪を、見事に七三分けにした中年の体育教師。

 俺がこの学校で最も嫌いな教師だった。

 何が嫌いって、説教するとき顔がやけに近い。そして口が臭い。鼻毛がちょっぴり見えるのはチャーミングだ。


「おー春樹ぃ、おはよーっす。って、またやったのかお前……」


 茶髪を逆立てたチャラそうな男が声をかけてきた。

 こいつは鈴木智和。古くからの付き合いの友人だ。

 俺が扉を壊し始めて最初の頃は、クラスの連中も皆驚いていたが、今はこいつのように慣れた素振りを見せるようになった。

 壊れた扉を目にすると「あー、大滝ね」なんて言われる始末だ。

 つまらんやつらめ。


「おうともかず。お前何扉壊してんだよ」

「さらっと俺がやったことにするなよ……あ、エリちゃんもおはよう。」

 後ろにいたエリに気づいたようだ。


「……お、おはよう……」


 エリは声をかけられて、少しだけビクッとした後、

 俺の背中の影に隠れながら、控えめな声で挨拶する。

 普段俺と会話するときの声量とは大違いだ。


「あ、ごめん。やっぱりまだ怖いか」

「…………」


 エリは何も言わない。

 こいつは俺以外の男と会話する時いつもこうだ。


「ハル……」


 俺の背中の制服のしわを両手でぎゅっと握ってきた。

 怯えているんだ。


「すまんな智和。こいつの事は許してやってくれ」

「あ、ああ……こっちこそすまん。そろそろ慣れてくれたかと思って……」

 そう言って智和はその場を離れてくれた。


 エリは、その恵まれた容姿から、幼少期から男関係で怖い目に何度もあってきた。

 一人で下校していれば、大人の男から声をかけられ誘拐されそうになる。

 クラスメイトはもちろん、他学年、他校の生徒、さらには若い男性教師にまで言いよられ、常に男の視線を感じて生きてきた。

 体育や水泳の授業では、その体操着姿や水着のエリを一目見ようと、見学の生徒が押し寄せるほどだ。

 男の下卑た視線を浴び続け、あまつさえその体操着や水着が盗まれる始末。

 そして追いうちをかけるように、嫉妬に狂った他の女から攻撃されてきた。

 その精神的不安とストレスは計り知れない。


 こいつは間違いなく『男性恐怖症』だ。


 だからなのか、いつからか、俺の傍を離れなくなった。

 両親もおらず、頼れる人間が少なかったエリは、幼馴染である俺を頼った。


 俺は怖くないのか?と尋ねると「ハルが怖い?笑わせないで」と笑顔で言った。

 その時も弱々しく「ハル」と呼んできたのを俺は覚えている。

 だから、その時から俺は、こいつを守ってやろうと決めたんだ。


「おらー、ホームルーム始めるぞー。席につけー」


 担任の石井が教室に入ってきた。相変わらず鼻毛が少し出ている。


「ん? はあ……まーたやったのか……大滝」

 壊れた扉を見ながら言った。


「何故俺だと決めつける」

「…………俺は長年教師をやってきたが、こんな馬鹿なことをするのはお前しか見たことがない」


 呆れ果てたという表情だ。疲れすら感じられる。


「もっと生徒を信頼しろよ。それでも聖職者か? 俺じゃなかったらどうするんだ?」

「む。確かにそうだ。だがお前はまずその言葉遣いをなんとかしろ。そんな態度の生徒を信頼なんぞできん」


 言葉遣いね……


「敬語は苦手なんだ。こればっかりは気を付けてもどうにもならん」


 これは嘘ではない。俺はそういうふうにしつけられた。

 敬語を使えばその度親父に殴られた。

 何故殴るのと理由を尋ねると「舐められるからだ」と言って再びその時も殴られた。

 虐待だって?

 そんな生易しいもんじゃねえよ。


「ふん。まあいい。おい鈴木、これをやったのは誰だ?」


 石井は近くにいた智和に尋ねた。

 フッ。残念だったな石井。そいつは俺のマブダチだ。

 友を売るような奴じゃない。


「春樹です」


 即答だった。

 裏切りものめ……


「だそうだ、大滝。何か言い訳があるなら聞こう」

「急に扉が前に飛び出して来たので」

「放課後残れよ」


 そう一言言って朝のホームルームは始まった。



---



 1時間目の授業は体育だった。

 それも、内容は全学年合同の長距離マラソンだ。

 何でこんなくそ暑い日に走らにゃならんのだろうか。

 脱水症状起こしちゃうぞ。

 まあいい。俺は走るのは嫌いじゃない。ていうか結構得意だ。

 少しだけ体力には自信があった。

 なんてったって、

 今俺が走ってるのは『トップ』だからな。


『ガンバレー!』


 先に走り終えた女子たちによる黄色い歓声が聞こえてきた。

 どうやら女子の1着はエリだったみたいだ。

 エリも小声で俺に応援しているように見える。

 しかし全然聞こえないぞおい。

 普段はやかましいぐらい声張り上げる癖に。



「……ふう」


 俺は無事1位で走り終えた。

 ゴールに待っていたのは鼻毛。ではなくストップウォッチを持った石井だった。

 お前のおかげで走り終えた達成感も爽快感も一瞬で吹き飛んだぜ。


「おっ、1着おめでとう大滝。お前も走るのだけは得意なようだな」

 石井は紙コップに入ったスポーツドリンクを渡してきた。


「サンキュ」


 そう言って俺は紙コップを受け取り、一気に飲み下す。

 乾いた喉に心地よく水分が流れ込む。


「んー? なんか余裕ありそうだな。あと5周追加で走ってもいいんだぞー?」


 石井は俺の顔を覗きこみながら言ってくる。やめろ。近い。寄るな。


「勘弁してくれ。もうへとへとだ」

「なに? そうか? それは残念だな。あと5周走れば反省文は帳消しにしてやろうと思ったのに」


 にやにやとした顔で石井が言ってくる。


「なんだと。待て。走ってくる」

「いやー残念だ。またお前に説教せねばならん。やれやれ」

 そう言う石井の顔は妙に嬉しそうだった。殴りたくなるぐらいに。


「……ッハア……ッハア、ハアハア、くそっ!!」


 どうやら2位の男が走り終えたようだ。

 その男は見るからに悔しがっている。

 存在感のあるオレンジの髪に、左耳にピアスをつけたそいつは、柄の悪い雰囲気を発していた。


「2着おめでとう。えーと、お前は確か…3年の陸上部の沢村か」


 石井は同じように紙コップをそいつに渡そうとする。

 しかし、その手は跳ね除けられた。


「くそがッ……! 何で俺が2位なんだよっ! くそっ、くそ!!」


 沢村という男は壁に手をついて叫んでいる。

 糞糞うるさい。トイレなら向こうだぞ。

 そう思って立っていると、俺の方をギロリと睨んできた。


「お前……1年か……?」

 どうやら俺に聞いているようだ。


「そうだ」

「あ?」

 沢村は敬語を使わない俺に対して眉をひそめる。


「名前は……?」


 露骨に不快感を表し、睨みながら俺に尋ねる。


「人に名前を尋ねる時は、まず自分から名乗るもんだろ?」

 俺より身長の低いそいつを、見下ろしながら答えた。


「あ!? ンダとてめえっ!!」

 俺の言葉に激昂した沢村が、胸倉を掴みかかってきた。

 キレやすい若者ってやつか。こわいこわい。


「やめとけ」

 俺は沢村の真後ろを顎で指し示す。


「あん?」


 そいつが振り向く先にいたのは、

 威圧感のある鋭い眼光でこちらを睨む石井だった。

 腕を組み、仁王立ちで佇むその姿は、ベテラン教師の威厳が溢れている。

 流石だぜ石井先生。俺もちょっとだけびびった。鼻毛とか言ってごめん。


「チッ……」

 そいつは1度舌打ちしてから掴んでいた俺の胸倉を離した。


「ん……? お前、いつも南条エリと一緒にいる男だな……?」


 俺の顔をまじまじと見て沢村が尋ねてきた。どうやらエリの事は知っていたらしい。


「だったら何だって言うんだよ」

「いや、そうか。なるほどな、くくっ」


 何かに納得した様子のそいつは下卑た笑いを浮かべた


「おい1年。よく覚えとけよ。俺は3年の沢村だ」


 下の名は名乗らなかった。苗字は知ってるっつの。


「俺は大滝だ」


 俺もそれに倣って苗字だけを告げる。


「そうか。大滝、よろしくな。くくっ……」


 沢村は最後に再び下卑た笑みを零し去っていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る