VS異世界白鰐

 眼前の壁が完全に落ち切るより前に、雨宮はそれを視認した。

 同時に無声による強化型魔法を展開し、自身の肉体能力を増幅させる。

 油断はない。一瞬の隙が死へと結びつくことを、生きてきた年数が証明する。


「さて、あのサイズが脱出できるような逃げ道はなさそうであるな」


 一般人なら慌てふためいてもおかしくない。そんな状況下で雨宮は至って冷静に、自身が置かれた現状の把握に努めていた。

 壁の落ちた先に広がっていたのは、現在彼女が立っている部屋と同質の空間だった。

 つまり、10m四方に広がる白い部屋。

 これで連結された二つの部屋は、奥行きだけが20mに拡大されたことになる。

 そして、目下一番の問題はだろう。

 新たに追加された部屋の大部分を占め、雨宮に即座の強化型魔法の使用を判断させるに至った存在。

 色合いが白いこともあり、ある意味では擬態しているようにも見える肌。一目で理解できる圧倒的膂力を有した巨大な口。異形というには既知な風体ではあるが、これほどの規模にはお目にかかったことがない。

 近代科学の雄たる陸上最高兵器、戦車。はたしてそれを導入して討ち果たせるか。

 最初に雨宮が思ったのがそれである。ゆえに彼女は魔法の行使に躊躇ためらいはなかった。

 頭部から尻尾の先端までの長さは12mに迫るか、あるいはそれ以上。どこからどう見てもワニであることに疑いはなく、ワニとは似ても似つかぬ重圧。

 ただのワニではないことだけは確かであると、雨宮は確信する。


「ふむ、視力というよりは聴力かの……」


 雨宮の動きによって生じた衣擦れの音。そのわずかな物音に反応を示す様に、彼女は相手の特性を完全に見抜く。

 とはいえ、雨宮が警戒したのは一瞬のことであり、襲い掛かってこないのを確認してからは、淡々と作業を続けていく。

 事前に計画していた逃走経路の断絶である。

 小柄な手のひらが地面に触れる。

 傍から見れば何のことはない一動作。しかし、たったそれだけで〝法則を決定する者オーダー〟の【企画のゴリ押し】が発動する。


 今回適用した企画は――壁の破壊不能化。


 これによって、どれだけ強力な力、能力を以ってしても傷一つつけることはできなくなる。


「準備もできたことだ。さっそく狩らせて貰おうかの」


 どこからどう見ても戦闘向きではない足元まで覆い隠すワンピース。小学生然とした雨宮の今の姿はどう見繕っても狩られる側である。

 それでも、この佇まい、所作が彼女を猛者であることを雄弁に語る。

 一歩、また一歩と、まるで散歩でも楽しんでいるかのような歩調で、一人と一匹の距離が縮まっていく。

 そして――均衡が破られた。

 雨宮の最後の一歩を契機に、能動距離へと入ったことによるワニの先制。圧倒的巨体に物を言わせた噛みつき攻撃。緩慢とは程遠く、むしろ高速と言って差し支えない一撃が小さな巨人を飲み込んだ。


「うーむ、これはちと想定外だの」


『故に余は通告したのだ』


 上下から挟み込むワニの上顎を、雨宮は振り上げた左手で受け止め、下顎を立ったままの姿勢で支えていた。

 だが、それだけである。


「これはどう見ても、貫通しておるな?」


『そのようだ』


 平然としたまま意思の疎通を図る雨宮だが、その視線の先にあるのは地面に埋まった下顎だ。

 否、正確には地面の中から押し上げてくる下顎というのが、一番正しいだろう。


「そなたの能力を疑いたくはないが、機能しておるのか?」


 世界の法則そのものを変質させ、破壊不可能とした。にもかかわらず、目にした光景に懐疑心を抱くなという方が酷だ。

 しかし、器とはいえ、たかが人間NPCごときの無礼な物言いに〝法則を決定する者オーダー〟の怒気が漏れた。

 ピシリ。と音を立てて世界にヒビが入る。


『言葉には気をつけろ』


「それはすまんの。妾とて悪気はないのだ。この無知な妾に――」


 言い終えるより早く雨宮の小柄な体が中空を舞う。

 噛み砕けないと判断したワニが、2tトラックほどもある太い首を振り、雨宮を壁へと叩き付けたのだ。

 遠心力によって弾き飛ばされた雨宮が、轟音を上げ激突する。

 破壊不能へと変化した壁面は、衝撃を受け流さず雨宮自身へと全ての威力を残す。それこそ人間を挽肉へと変えるに余りある力。

 受け身すら取れず、地面に叩きつけられた雨宮だったが、それでも何事もなかったかのように立ち上がり、服に着いた汚れを掃う。


「作戦が裏目に出たの」


 素直に自らの失策を認める。密室にしていなければ、幾分かの威力を分散させることができただけに、左腕にダメージを負ったのは自業自得だった。


「――で、あれが答えか」


『そうだ』


 痛烈な一撃を繰り出したワニを見て、全ての謎が解ける。

 ほぼ全身という全身を床の中に隠し、まるで遊泳するかの如く動き回っていたのだ。

 自ら実演した通り〝法則を決定する者オーダー〟の【企画のゴリ押し】は機能していた。誤算があるとすれば、相手が透過能力を有していたことだ。

 本来、地面は透過できるものではない。世界の法則に則った上での特殊な能力。これでは例え『地面は泳げないもの』としたところで、やはり泳ぐ。世界の法則に忠実に、それでいて特例を認められた力。それこそが特殊能力なのだ。

 獲物の動きを伺い、距離を詰めてこないワニは慎重そのもの。

 このことから強い上に知能も高いことが窺い知れる。


『こちらも泳ぐか? それとも顔を出しているあたり潜っている時は呼吸できないようだし、空気を消してやろうか?』


 法則の枠外で活動する生物の姿に、創造主の美学が許さない。そんな感情が見え隠れする。

 しかし、雨宮は、それに待ったをかけた。


「気持ちはわかるが、ここは妾に任せては貰えぬか? 魔法だけで退治しよう」


『もっと簡単なやり方がある』


「見解の相違であるな。そなたの言う通り勝つだけなら簡単であろう。だが、どれだけ卓越した技術も緻密な戦術の前では無力に等しく、戦術もまた想定外なことがあれば無力となる。戦いにおいて、地力こそが最後に優劣を決定する」


 忌憚きたんのない雨宮の言葉に、主は耳を澄ませる。


「地力とは、極限の戦いの中でこそ磨かれ、研がれるもの。妾に強さを求めるのであれば、見ておるが良い。そなたの器が昇華する様を」


 幼女の放つ覇気に当てられ、危険を悟ったワニの本能が攻撃へと転ずる。

 真下から飛び出してくる二枚の断頭牙ギロチンを、真上に跳躍することで回避。

 再び地面へと潜ろうとするワニの尻尾を空中で掴み、バットよりも細い腕を強引に振るいその巨体を引きずり出す。

 ここが地面だとばかりに、空中で踏み留まる雨宮は一歩足を伸ばし、宙を蹴る。

 足裏に重力場を発生させることで、全天での歩行を可能とする【重力制御グラビティコントロール】。

 空中で身動きの取れないワニを下方から蹴りつけ、天井に叩き込む。


「刮目するがよい。極みに達した基礎はそれだけで必殺技に比肩する」


 部屋全体に風が巻き起こる。

 慣性の法則に従い自由落下に入るワニの巨体を、竜巻が押し上げ、落下を阻む。


「それでは、ここからが妾の本領である」


 天使の羽としか形容できない神々しい一対の翼を背に宿した雨宮は、自らが生み出した気流を受け超高速で飛翔した。

 中央で固定されたワニは、上下左右前後から攻め続ける雨宮の攻撃に晒される。

 その堅い外殻に身を包んでいるが、完全なる一方的殺戮ワンサイドゲームであることに疑いの余地はなかった。

 時折、尾っぽを振り回すも、直前に宙を蹴って直角に進路を変更する雨宮には掠りすらしない。

 気流による超高速移動。翼による自由自在な方向転換。重力場による鋭角移動。

 成す術なく蹂躙されるワニだったが、わずかな違和感に雨宮が眉をひそめた。


『気づいたか?』


「妾の攻撃に耐えられるほどの強度があるようには見えんが?」


 最後に雨宮が渾身の一打を頭上から撃ち込み、ワニを床へと追いやる。

 同時に、雨宮は敵の有効射程距離外の天井に張り付いた。


『確かに強度自体は高いが、お前の攻撃に耐えうるほどではないな。だが、ことダメージに関しては違う』


「どういうことだ?」


 勿体つける〝法則を決定する者オーダー〟の物言いに雨宮が食いつく。


『最初にお前が言っていたのは半分当たりだということだ』


「半分? 要領が得んな。妾でも理解できるように頼む」


『お前が先ほど、アレの口を押さえていた時に干渉した結果、異世界生物エミュサバのNPCだと判明した』


「それでは!?」


『そうだ。アレは平行の次元の管轄精霊〝真実を模する者フラグメント〟の生物PCだ』


 衝撃の事実に雨宮はその瞳に最警戒の色を宿す。

 道楽を目的に箱庭プロジェクトに参加した一柱にして、試験運用担当。その能力である【御当地規則】は、世界の法則そのものを無視し、自分勝手なローカルルールを押しつけるというもの。


「ならば、あの耐久力の正体は……」


『ダメージの95%カット。あの鱗自体が30口径の砲弾にも耐える代物だ。今のお前では火力不足もいいところだな』


 諦めて余の力を頼れと、器の身でありながら精霊に楯突いたことを遠回しに糾弾した。

 雨宮は観念したように瞼を伏せ、その姿に〝法則を決定する者オーダー〟が微笑する。

 だが、それは雨宮の戦意喪失を意味していなかった。


「――〝法則を決定する者オーダー〟よ。妾の肉体にかけている不老の法則を解いておくれ」


『余の言葉を反故にするつもりか!』


「〝法則を決定する者オーダー〟」


 変わらぬ意思を表明し、地へ降り立つ。

 鋼鉄の床を鳴らす足音に、悠然と泳いでいたワニが喉を鳴らす。


『……勝手にしろ』


 ぶっきら棒に、消そうと思えばいつでも消せる器の反逆に、精霊は最後の慈悲をかけた。

 仮にこれで敗北するようなことがあれば、雨宮は死すらも生ぬるい処罰が下されるに違いない。

 目の前には自身と同じ精霊の器。背後には逆鱗に触れた主たる精霊。

 いよいよ負けることが許されなくなった状況に、雨宮は高揚した。

 久しく忘れていた死神の鎌が首筋に突きつけられる感覚。これこそが雨宮を今の地位に押し上げた転機だ。


 142cm。


 その小さな体は能力によってもたらされた不老の効果である。しかしながら、これはおかしなことなのだ。

 魔法使いは皆、生属性の魔法で若返り、肉体的強さの維持で二十歳前後に留める。にもかかわらず、雨宮は非力な十歳で年齢の経過を止める。

 理由は至って簡単だ。

 脳細胞の形成の多くは十二歳で分裂を終える。これを加味し、多少の戦闘力低下を許容しているに過ぎない。しかし、ひとたびこの制御リミッターを解除すれば、その時こそ雨宮奏のという人間の全力が解き放たれる。

 足元まで伸びていた裾が、急激な身長の増加に伴い膝丈まで上がり、大きく開いていた脇下も綺麗に収まる。

 一見すれば戦いにくいワンピース姿だが、この二十歳の体に戻ることを前提としたスタイルだとすれば、納得も行くところだろう。

 さすがにカリガではサイズの大きくなった足に対応できないので、脱ぎ捨てる。


 164cm。高低差実に22cm。


 幼さは一切なく、顔つきまで完全なる淑女となった雨宮の拳が握り込まれる。


「火力特化・深紅に彩られる灼熱の衣クリムゾン・エンブレイス――。打撃特化・大地の守護神グラウンド・ガーディアン――。弱体特化・漆黒の舞踏着ダーク・ドレス――」


 火属性、地属性、闇属性の三種類の異なる属性の強化型魔法を重複発動させる。


 三度目の相対は、ほぼ同時だった。

 正面から飛び掛かるワニの巨大な上顎を、側面から蹴りつけ、中央部から壁面へと叩き付ける。もはや500kgを超える重量があるようには見えないが、ダメージカットさえなければ今の一撃で肉片に変わるほどの威力だ。

 敵が軽いのではない。雨宮が強すぎるのだ。

 壁に押しつけられ、鱗の無い腹部をさらけ出したワニに対し、雨宮は容赦なく両の拳を叩き込んでいく。

 当初の目論見とは違った形となったが、破壊不可能となった壁に衝撃を逃がす役割はない。無慈悲に繰り出される連打は、ワニの体内へと全ての破壊力を残しダメージを与えていく。

 それでも決定打にはほど遠かった。

 見たことか――と、背後で〝法則を決定する者オーダー〟が薄ら笑みを浮かべる姿が容易に想像できる。


「何、火力が足らんのなら、もう一段階上げればよいだけのこと」


 瞬間、雨宮の耳に垂れ下がっていた深緑色の石が発光した。


魔力増殖炉カタストロフ・スフィア


 光は雨宮を包み込み、直径にして4m超の球体へと変質した。外殻とでもいうのか、彼女を中心にして展開された魔法は奇怪な文様――魔法陣を象り、内部にマナが充満していく。

 それを契機に、雨宮の右拳がワニの腹にめり込んだ。


『グェッ』


 大気中のマナが膨れ上がったことによる魔法の威力向上。

 続く左拳が抉りこみ、追撃した右拳が皮膚を破く。

 魔力増殖炉カタストロフ・スフィアによって時間が経過する度に大気中のマナ濃度が高まり、攻撃力が跳ね上がる。


『…………』


 無言で傍観する〝法則を決定する者オーダー〟の不満が器である雨宮の心に投影される。

 どれだけの攻撃を重ねたのか、遂にぐったりとしたワニに、雨宮は飛び退った。

 壁面に結いつけられていた巨体が滑り落ち、地面へと崩れ落ちる。

 そして、雨宮の頬を一滴の汗が伝う。


「なるほど、これは、ちと冗談が過ぎるの」


 瀕死だった。間違いなく、防御力を突破し致命傷となる連打を叩き込んだ。それがどういうことか、一切のダメージを負った形跡はなく、飄々ひょうひょうとした動きで歯を打ち鳴らす。


『余は通告した。お前では勝てないと。精霊には精霊でしか立ち向かえぬと。今のアレは瀕死の状態になることが契機となって発動する超再生だ。〝真実を模する者フラグメント〟の【御当地規則】は後手で発動する能力。諦めて余の力を使うがいい』


「それでは、一つ、質問しても良いかの?」


 先ほどまでの攻撃に怒り狂ったワニは、その長い尻尾で雨宮を横から薙ぐ。それを瞬時に広げた翼の羽ばたきで上空に回避する。

 続けざま、縮めた胴体を伸ばす反動で飛び上がり噛みつく。

 単純な直線攻撃では、雨宮の飛翔を止めることはできず悠々と身を捻り避ける。


「アレが〝真実を模する者フラグメント〟からたまわった【御当地規則】の恩寵おんちょうは、ダメージカット95%と瀕死による超回復以外の他に何がある?」


『地に潜る影泳ぎのみだ』


 宙に逃げた雨宮への攻撃手段がなく、ワニが地面の上で暴れ狂う。


「そうか。なら、このままなら妾の勝ちだの」


 勝利を口にする雨宮の言葉通り、それまで盛大に動き回っていたワニが苦しみだし、痙攣けいれんを始めた。


「すまんの。大気中のマナは増えれば増えるほどに魔法の威力が上がるが、何事も適量というものがあるものだ。マナ中毒。それがだの」


 ピクリとも動かなくなったワニの死を確認し、大量のマナを生み出していた魔力増殖炉カタストロフ・スフィアを消滅させた。

 予想外の苦戦に、雨宮が一呼吸入れたのを見計らったのか、部屋全体に男性の声が木霊した。


「お疲れさまです。雨宮様。実験への御協力感謝致します」


『実験?』


「そういえば、言っておらんかったな。今回の件は、異形生物を倒す方法を模索する連中からの依頼だ。報酬は確か異世界への転送だったかの。今思えば、ふむ、なるほど〝真実を模する者フラグメント〟が一枚絡んでいてもおかしくなかったわけか」


 実験の終了を告げるアナウンスから数秒後、部屋の奥にあった扉が開き、先ほどと同じ声の主が脱出を促した。


 扉を潜り、外に出る頃には雨宮の体は元の幼女のものへと戻っていた――

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