宿命

コオロギ

宿命

 その少年には、不思議な力があった。それはどうやら生まれつきのものだったらしく、少年はその一生の間、それがいかに不思議なことであるか知ることはなかった。少年はごく平凡な、一般家庭に生まれた。したがって周囲の人間も、少年をごく平凡な人間として扱い、ほとんどはそれ以上、何とすることもなかった。

 少年は、幼少から無口な少年であった。生後一年を過ぎても喃語すら発しなかったため、彼の両親は当初、彼を耳が聞こえないのではないかと疑ったほどだった。

 ある日、少年がじっと窓を見つめていたとき、未だ一言も言葉を発しない我が子に、彼の母親は何を見ているのかを尋ねた。彼は振り返り、母親を見上げて、たいよう、と答えた。母親は、予想していなかった事態に面食らった。けれどもすぐに、初めて我が子が喋ったということへの喜びに彼女は満たされ、その言葉の異質さは彼女の頭から排除されてしまった。その時、外はひどい大雨で、太陽など出てはいなかった。しかしこの時少年は、確かに太陽を見ていた。それはとても純粋な、子供らしい理由からだった。連日の雨に、彼の母親はまた雨なのかと苛立っていた。だから彼は太陽を探して、見上げていたのである。

 そして、少しして、雨は上がった。


 少年が小学校に上がると、彼と接する人間はぐっと多くなった。その中には、少年の異質さを感じとる者が僅かながらも現れ、その大半は無意識に少年と距離を置き、少年と関わることなく生活した。しかしその僅かな数の中のさらに一部分の人間は少年と積極的に関わろうとした。それは一つの宗教のようであった。その関係性は明らかに異常なものであったが、遠目から見ればただの仲良しグループに過ぎなかった。


 ある日少年が一人で下校しているときだった。少年の前方にあるゴミ集積所のゴミの山の中から、人の足が伸びていた。少年が足を止めしばらく眺めていると、ずずっと山の中から上半身が現れた。それは少年と同い年くらいの男の子だった。その口元はもごもごと動き、何かを咀嚼しているようだった。少年はその男児に近付いていった。近付くほどに、生ゴミの腐臭が濃度を増したが、少年はまるで気にも留めず、その男児の一メートル手前まで来ると止まり、真正面に見つめた。男児も少年を見、へへ、と声を洩らした。男児の体は歪んでいた。そのため、全体の動作がぎこちなく、鈍い。頭部も変形しており、その影響から口元は歪み、笑顔は引きつり、声は変に途切れがちだった。

 男児は笑顔を絶さない。生来、彼の表情表現はこれしかなかった。だから男児は、どれだけ目を背けられようと常にこの不細工な笑顔を張り付け過ごしていた。

 少年は男児の笑顔を見ていた。それからランドセルを肩から下ろし、中からビスケットの袋を一枚取り出して、男児に放った。それは男児の胸に当たり、体を沿って地面に落ちた。男児はへらへらと笑いながら、首を動かし、それを遅れた動作で追いかける。

 男児の目がようやく地面のビスケットに追いつくと、男児はふはあ、とだらしない声を上げた。のろのろとしゃがみ込んで、尻餅をつき、それに手を伸ばし、掴む。不器用に、時間をかけて包装を破ると、男児は並びの悪い歯でそれを食らった。ぼろぼろと大量のかすが零れた。あっという間にビスケットはなくなった。男児は自身の手を舐めながら、ずっとそばで立っている少年を見上げた。

 少年は微笑んでいた。男児にはとても不思議だった。男児の記憶に、こんな風に誰かに微笑まれた記録はなかった。少年は屈んで、男児のぐしゃぐしゃな髪の毛をそっと撫でた。男児はその柔らかな感触を感じながら、その間、少年の目を見ていた。

 この男児は、まるで作為的にそこに配置されていたようだった。この出会いによって、というよりも、そもそも少年が生まれた時点で、何もかもが決定されていたようであった。少年は知ってはいなかったかもしれない、けれど分かってはいたのだろう。だからこそ、少年は初めて微笑んでいた。

 それ一回きり、少年は二度と笑うことはなかった。


 少年の通う学校には飼育小屋があり、その中では兎が六羽飼育されていた。ちょうど少年が当番を任される五年生になり、他の同級生たちと放課後、掃除をしていたときだった。開け放しだった扉から一羽、脱走してしまった。少年の同級生たちは探し回ったが、見つかることはなかった。

 彼らの内の一人が言った。脱走したのではなく、誘拐されたことにしよう、と。抜け出した兎を怪しい男が捕まえて、そのまま連れ去ってしまった。そういうことにしよう、と。同級生たちのやりとりに、少年は黙って頷いた。

 翌日。朝の教室は異臭騒ぎとなっていた。子供たちは口々に、臭い、臭いと鼻を押さえた。そして、一人の男子児童が悲鳴を上げた。彼の引き出しの中には、昨日逃げ出した兎の体の一部が切り取られ、入れられていた。他三か所でも同様に、兎の足、胴体の肉片が詰め込まれ、悪臭を放っていた。彼らは皆、飼育当番に当てられていた児童だった。

 少年は自分の席に着き、机の中のものを静かに見つめていた。それは兎の頭だった。赤い二対の目はまだ生きているように、少年の瞳を映していた。

 少しして教室には教師が駆け付け、飼育当番だった児童から怪しい人物の話を聞いていた彼女は、すぐさまこのことを職員室へ知らせた。怪しい人物が飼育小屋の兎を盗み、バラバラにしてその死体をまた学校へ戻した。しかもその死体はどれも、飼育当番に当てられた児童の引出しに入れられており、犯人は児童たちの名前と顔を把握している可能性が高い…。

 学校はその日、休校となった。教員、保護者付き添いの下、児童が集団下校する最中、少年は誰に気付かれることもなくその輪から外れ、その反対方向へ歩いていく。

 少年が裏門を出ると、そこには男児がしゃがみ込んで、丸い目玉をきょろきょろと動かして長い蟻の行列を追っていた。少年が声を掛けると、男児はひゅおおと返事をして、歪んだ笑顔で少年を見上げた。そして両手をばたつかせ、あい、あい、と叫ぶ。

 少年は男児の横に並んでしゃがみ、その行列を眺めた。楽しげにはしゃいでいる男児の顔の前に、少年はすっと自身の人差し指を立てた。男児の目がそちらに移ると、少年は指先を蟻の行列へ向け、ピン、と弾いた。一列に行進を続けていた蟻たちは一瞬、ぴったりと動きを止めた。そして一斉に、霧散するように散り散りに、彼らは歩き出した。個を思い出したように、一本の線であった彼らはもはや幻だった。

 跡形もなくなった行列に、男児はうおーと笑んで、手を叩いた。少年は男児の頭を撫でながら、静かに立ち上がって歩き出し、男児は傾いた体で後を追う。

 公園には誰もいなかった。少年はベンチに腰掛け、男児は危なっかしい動きで滑り台を上る。男児がつるりと滑り、砂場に転がった。男児がきゃはきゃはと笑うのを少年は眺めていた。風のない場所で二つのブランコは交互に揺れ、キイ、キイ、と鳴いている。男児が砂に塗れたまま、ブランコへ歩み出すと、ブランコは停止した。

 ようよー、男児がブランコに座り、少年を呼ぶ。少年は立ち上がって男児の後ろまで歩き、ブランコの鎖を握っている男児の両手を上から少しの間握り、手を離すと、男児の背中を押し始めた。

 男児は少年と出会ってから、ブランコがお気に入りになった。一人で漕ぐことができないため、それまで彼には、ブランコはただ不安定な椅子であり、座ると必ず落下して、頭を打っていたものだった。

 男児は揺られながら、ひどく心地の良い気分でいた。ふわりと浮かぶ体は軽く、まるで飛んでいるかのように思い通りだった。背中に触れる少年の手が、彼にとっての自由だった。

 公園には男児の笑い声だけが響き、二人以外人の姿はない。彼らを目撃する者もいない。


 夕日が落ちて、彼らはそれを合図に公園を出た。少年の影の中、男児は別段名残惜しそうでもなく、たまに少年の背中に頭をぶつけながらついて行く。ふらふらと安定しない頭が上を向いたとき、男児は、あ!と叫んだ。

 男児が立ち止まったので少年も歩くのをやめ、振り返った。少年が男児を見ると、男児は少年に伝えようと、長さの違う曲がった両腕を目いっぱい伸ばして空を仰ぎ、あい、あい、と跳ねた。

 少年が空を見上げると、緋色の中に飛行機雲の白線が一本、すうっと伸びていた。少年が頷くと、男児は左腕を下げ、右手で一生懸命矢印を作ると、て、て、と空に突き付けた。少年は男児と一緒に人差し指を空に向けると、ぴん、と弾いた。その瞬間、飛行機雲は流星群のように、赤い地平線へ、無数に飛び散っていった。男児はそれを掴もうとするように両腕を伸ばし、あい、あい、と楽し気に飛び跳ねた。

 少年はそんな男児を見つめてから、しばらくの間、直線の消えた空を目に映していた。


 今、少年の目にはシャンデリアが映っている。

 古い歴史ある建造物の中は、少年の同級生たちが占めていた。

 少年は中学へ進学していた。社会見学先は近所にある博物館で、少年は上階の手すりに両手を載せ、間近に、現在は使用されていないその照明器具を見ていた。それはとても大きく、かつ煌びやかであるはずなのだが、埃を被りくすんで、その存在感は沈黙していた。少年は視線を真下に動く人の群れへ移した。それからふと、思いつく。途端、支えであった吊り金が解けるように切れ、無音でシャンデリアを落とした。照明は階下の人間を覆い潰し、硝子は四方に飛び散って煌めいた。ピアノを叩き付けたような音の直後、一瞬の静けさを通過して、どっと悲鳴が上がった。少年は動き出す人々を見下ろした。それは、何かしらの結果を確認するような目だった。

 少年の隣では歪な笑い声が上がった。両腕を振って、少年と一緒に階下の様子を眺めていた。少年とは対照的に、その目はただ、おもちゃの積み木を崩して遊ぶ子どものそれだった。

 救急車が血を流す生徒を連れ遠ざかっていく。サイレンが小さくなるのを見送る無傷の生徒たちと、もうすぐ到達する結末を見つめる少年の瞳、楽し気な子供の笑顔が一つ、そこには残された。

 シャンデリアの下敷きになった三名の生徒の机には、後日花が添えられた。少年は一人の時間を得た。しかしそれはわずかな時間にすぎず、すぐにまた、死んだ生徒たちと同じような生徒が一人、二人、と現れた。彼らが消えても、また新たな彼らが生まれ、少年に近づき、また消えていった。


 少年と男児が出会ってから、幾年かの歳月が流れていた。それは少年の体を成長させたが、男児の体は少年と出会ったころとほとんど変わらなかった。変わらず少年は男児の頭を撫で、それに男児は歪にほほ笑む。

 ある日、男児は本当に久しぶりに少年の声を聞いた。少年の言葉に従い、男児はその後をついていく。もともと、男児は少年を見るときには首を大きく反らさなければならなかったが、今では天を仰ぐほどの身長差ができていた。いつもどおり、男児は懸命に少年を追いかけ、嬉しそうに少年を見上げる。転びそうになれば、少年の背中にすべてを支えてもらいながら。

 奇妙な空だった。今が朝なのか昼なのか夕方なのか、まるで夢のように曖昧に、ただ照明が点いているだけの空っぽの箱の中のようだった。

 男児にはそれは分かりようもなかった。男児はただ、少年について行くだけだった。

 大人になった少年は、大人にならない男児を連れて歩いていく。少年は、男児だけが自分のそばにいて、決してそばから消えないことを知っていた。それは少年にとって、唯一の存在だった。

 少年は立ち止まった。そして、ポケットからあるものを取り出した。それはビスケットの包みだった。男児は首を傾げて、にへえっと笑い、差し出されたビスゲットに手を伸ばした。少年から男児にビスケットが渡った。男児は不器用に包みを開け、嬉しそうにそれを頬張る。少年は男児の姿を目に映し、それから空を見上げた。その目には、今ではないいつかの空が映っていた。それは少年の持つわずかな思い出の景色だった。そして、それは流れ星のように輝き、少年はそれに祈るように見つめ。

 …その瞬間を、男児は見ていない。男児がビスケットを食べ終えたとき、男児の前に少年の影が落ち、通過した。男児は少年を見上げようと顔を上げたが、そこに少年の顔はなく、白い空が見えただけだった。

 男児は少年を見下ろした。少年を見下ろす、などというのは男児にとって初めてのことであり、とても不自然なことだった。口元にビスケットの粉をつけたまま、男児は少年のそばにしゃがみ込み、少年の体を揺すった。少年は起き上がらなかった。どれだけ力を込めても、ずっとずっと倒れ伏したままだった。男児はへらへら笑いながら、その目からは涙が溢れていた。

 そんな動作を、いつ覚えたのか、男児は動かない少年の腕を掴むと、少年を担ぎ、立ち上がった。まっすぐ歩いているつもりなのだが、男児の歪んだ体はふらふらと斜めに、少年を引きずっていく。途中何度も転びながらも、男児は少年を放さなかった。何時間もかけて、男児は少年を運んだ。空からは雨粒が落とされ、男児の流す涙と混ざり、どちらか判別がつかなくなった。ひ、ひ、と男児は引きつりがちな荒い呼吸を繰り返しながら、それでも笑顔のままだった。

 直線のルートを逸れた男児は、壊れたフェンスを通過し、山の腐植土を踏んだ。ぐにゃぐにゃした地面に足を取られながら、男児は進んだ。

 知らない道を、男児は一切の疑問を持たずに歩き続けた。やがて男児は、ぽっかりと開けた場所に到着した。

 そこだけ天井が取っ払われたように木の覆いがなく、冷たい水滴が男児の額を弾いた。地面には白い花が円を描き、男児はその輪の中に少年を降した。そして付き添うように、男児も少年の隣に体を倒した。少年の胸に顔を寄せ、男児は笑顔のまま目を閉じた。風のない静かな雨の落ちる中、少年の腕が崩れるように動き、男児の背中を包んだ。

 男児は眠りについた。

 しばらくして雨は止み、空では太陽が輝きだした。

 柔らかな光が地面へ伸び、二人の姿を真っ白に染めた。


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