遭遇
マリアンルージュとレティシアが戻るまで読書でもしよう。
そんなことを考えてゼノがソファに腰を下ろした、その矢先のことだった。
「それにしてもお前、やるときはやるヤツだったんだな」
唐突にリュックに声を掛けられた。
何の話かと不思議に思い、ゼノが顔を上げると、ベッドに腰を掛け、ズボンの裾を捲り上げながら、期待に満ちた眼差しを向けるリュックと目が合った。
「……なんの話ですか?」
先刻までとは違う意味で嫌な予感を覚えながら訝しむように尋ねるゼノに、待ってましたと言わんばかりににやにやと笑ってリュックが言う。
「ちゃっかり一緒の部屋に泊まってんじゃん。当然、ヤることやったんだろ?」
「……は?」
場の空気を全く読まないリュックの言葉に、ゼノは思わず真顔になった。
まさか先刻のあの話の直後にこのような話題を振ってくるとは、本当にこの少年は何を考えているのかわからない。
「きみが期待しているようなことは一切ありません。そもそも、同室に泊まらざるを得なくなったのは昨夜が初めてですから」
若干苛立ちを覚えながら険のある言葉を返すと、ゼノは本を開き、ページに連なる文字を追った。
そう、リュックが期待するようなことなど何もなかったのだ。確かに昨夜は良い雰囲気になりはした。けれど、初めてのキスは結局未遂に終わったのだから。
月明かりが水飛沫にきらめく幻想的な景色を思い出し、ゼノは溜め息をついた。
夜が明けた今でも、あのひとときを思い出せる。
頬を染めてはにかむマリアンルージュの笑顔も、誘うような甘い香りも、指先から伝わった温もりも、一枚絵のように鮮明に、ゼノの記憶に刻まれていた。
「……そういえば、きみはどうしてここに……この部屋に、俺たちが居るとわかったんですか?」
ふと昨夜のことを思い返し、ゼノは疑問を口にした。
『羊の安らぎ亭』はこの街で唯一の宿屋だ。旅の途中のゼノとマリアンルージュが宿泊する施設である可能性は間違いなく一番高い。それは理解できる。
だが、宿泊する部屋まで特定するとなれば、そう簡単にはいかないはずだ。考えられる可能性といえば――
「広場で偶然お前らを見つけてさ。運が良かったよ」
眉を顰めて答えを待つゼノに、リュックは満面の笑みで答えた。
「全然良くない!」と口に出しかけた言葉を飲み込み、本のページに突っ伏したゼノの耳が真っ赤に染まっていく。その様子を眺めながら、リュックは目を細めて更に続けた。
「良い雰囲気だったじゃん。キスして手を繋いで部屋に戻って……、そのあとのことはだいたい想像つくよ」
「……勝手な想像はやめてくださいキスなんてしていないし手も繋いでいません」
「え、マジで……?」
本の上に突っ伏したままゼノが反論すると、今度はリュックが真顔になった。
「目的を果たすまで、マリアとの関係をどうこうするつもりはありませんから……」
小生意気なリュックのことだ。奇異なものでも見るような、憐れむような視線を向けるか、或いは指をさして笑い出すのだろう、とゼノは思っていた。
けれど、リュックはきょとんとしたまま「ふぅん」と声を漏らしただけで、ゼノをからかうような素振りは一切見せなかった。それどころか、顔を上げないゼノに向かって、思いのほか真面目に話しはじめた。
「でもさ、二人ともいつまで一緒にいられるかなんてわからないだろ? もしかしたら、その目的とやらを果たす前に、お前かマリアが死んじまう可能性だってあるんだぞ」
「死ぬなんて、そんな縁起でもない……」
いつになく真剣な声色で語られたリュックの言葉に、ゼノが顔を上げ、ちから無く口を挟む。
「……そうだな。ごめん」
そう言って頭を下げたリュックの顔は、どこか大人びて見えた。
***
入浴を終えると、マリアンルージュはレティシアを連れて厨房へと向かった。
厨房では、ダニエルとヴァネッサが既に朝の仕込みをはじめていた。柱の影からひょっこりと顔を出して厨房を覗き込むふたりに気がつくと、ダニエルはふたりを厨房へと招き入れた。
「おはようさん。えらい早起きじゃないか」
ご機嫌な様子で挨拶しながら小鍋に四人分の野菜スープを取り分けると、ダニエルはその小鍋をマリアンルージュに手渡した。
「おはようございます、おじさん。お客さんが増えて大変じゃない? 手伝おうか」
「そりゃありがたい。嬢ちゃんたちの朝飯が済んだら、よろしくお願いしようかな。なぁ、ヴァネッサ」
マリアンルージュの言葉に大声で笑って頷くと、ダニエルは厨房の奥にいたヴァネッサに声をかけた。
石窯から鉄板を取り出したヴァネッサが、一息ついて顔を上げる。
「そうだね。せっかくだからお願いしようかね」
言いながら、焼きたてのマフィンを四つ紙袋にいれると、ヴァネッサは厨房の入り口にやって来て、ふたりの前にその紙袋を差し出した。
紙袋を受け取り、ヴァネッサに笑顔で礼を言う。「またあとで」と手を振ると、ふたりは厨房を後にした。
四人分の食器を重ねたトレイをバランス良く右手で支え、左手に紙袋を抱えて、マリアンルージュは足早に階段を昇った。両手で小鍋を持ちながら慎重に階段を昇るレティシアが、やや遅れ気味に後をついて来る。
早朝の廊下はしんと静まり返っており、床を軋ませるふたりの足音が、長々と続く廊下の奥まで響いていた。
「お待たせ。朝ごはんもらってきたよ」
部屋に戻ると、マリアンルージュはローテーブルに紙袋とトレイを下ろし、朝食の準備をはじめた。
温かいスープとマフィンがテーブルの上に並び、食欲をそそる匂いが部屋中に広がった。ベッドの上で寛いでいたリュックがテーブルの側にやってきて、ソファに身を預けて本を読み耽っていたゼノの隣に、何の躊躇いもなく腰を下ろす。僅かばかり眉を顰め、おもむろにゼノが席を立った。
「すみません、食材の仕入れを頼まれてるので」
マリアンルージュにそう告げて、半分に割ったマフィンを口に放り込むと、ゼノは湯気の立つスープをすすり、そのまま上着を羽織って部屋を出て行ってしまった。
「なんだよ、感じ悪ぃなあ」
音を立てて閉まる扉に目を向けるリュックは、どことなく楽しそうだ。
人懐っこいリュックに対してゼノは鬱陶しそうな態度を取ってはいるが、なんだかんだでふたりは仲が良いように思える。森で行動を共にしていたときも、ふたりはまるで兄弟のようだと、マリアンルージュは羨ましく思ったものだ。
「良いなぁ」
「……なにが?」
マリアンルージュの呟きに、リュックが間の抜けた声を出す。その声に釣られたように、レティシアに怪訝な眼差しを向けられ、マリアンルージュはちからなく曖昧な笑みを浮かべた。
マフィンを頬張り首を傾げて、リュックが確認を取るようにマリアンルージュに訊ねる。
「ねえちゃんは、ゼノのことが好きなんだよな?」
「……うん」
「それならさ、なんで好きだって言わねえの?」
さも不思議そうにそう言って、リュックはもう一口マフィンにかぶりついた。
マリアンルージュは小さく唸ると、両手でカップを包み込み、顔を俯かせた。カップを満たしていたお湯が微かに揺らぎ、映り込んだ顔が僅かに歪む。
それができたら、どんなによかっただろう。
簡単に伝えられる想いなら、こんなに悩むこともなかったのに。
深々と溜め息をついて、マリアンルージュはぽつりと呟いた。
「ゼノはわたしのことを、あまり良く思っていないだろうから……」
「はぁ?」
リュックが素っ頓狂な声をあげたが、構うことなくマリアンルージュは話し続けた。
「ゼノがわたしをそばに置いてくれているのは、わたしがゼノと同じ目的で里を出たと思っているからなんだ」
呆然として、リュックとレティシアが目を瞬かせる。出会って日も浅いふたりに、このような話を聞かせてどうなるわけでもない。そんなことは理解していた。
ただ、ふたりが真摯に耳を傾けてくれるものだから、誰かに胸の内を打ち明けたくて、マリアンルージュは切々と続けた。
「もうだいぶ昔のことだけどね、わたしはある男性に求婚したんだ」
当時のマリアンルージュは、まさか自分が近い将来、里を出ることになるとは思ってもみなかった。
里の住人の期待に応えるために、皆が納得してくれる、最良の男性を婚姻相手に選んだつもりだった。
けれど、マリアンルージュに婚姻の話を持ちかけられて、彼は――イシュナードは言ったのだ。
『きみは本当に、僕のことが好きなの?』
マリアンルージュはその問いに答えることができなかった。家族や里の皆と同様に、イシュナードはマリアンルージュに優しくしてくれていた。容姿端麗でなんでも卒なくこなす彼は、他の年頃の男性に比べ、頼りになる相手だと思っていた。
けれど、その気持ちが『恋』であるかと問われれば、マリアンルージュにははっきり「そうだ」と答えることができなかった。
里の未来のために最も優秀な男を選ぶこと。それこそが、里で唯一の未婚の女であるマリアンルージュに与えられた最も重要な役割なのだと、そう思っていたのだから。
だが、イシュナードはそのとき既に気付いていたのだろう。マリアンルージュがいつもみつめていた相手がイシュナードではなく、彼と行動を共にしていたゼノであったことに。
イシュナードに求婚を断られた帰り道、初めてゼノに声を掛けられて、マリアンルージュはようやく自身の想いに気が付いた。しかし、もしマリアンルージュが婚姻相手にゼノを選んだら里の皆はどう思うのか。そう考えたら、それ以上何もできなかった。
平穏な暮らしを守るために、ゼノは敢えて里の住人から距離を置いていた。そんな彼に迷惑がかかるのではないかと考えたのもひとつの理由ではあった。けれど、当時のマリアンルージュはそれよりも、里の皆に落胆されることを恐れたのだ。
マリアンルージュは、自身の想いよりも里での平穏な暮らしを優先した。まさか、イシュナードやゼノが里を去る日が来るなんて、全く考えもせずに。
「ゼノが里を去ったことを知って、思ったんだ。もしかしたら、このまま二度と、彼は里に戻ってこないんじゃないかって。そう考えたらいてもたってもいられなくて、何の準備もせずに里を飛び出してきてしまった。
どう勘違いしたのかわからないけど、ゼノはわたしもイシュナードを捜しているのだと思い込んで、旅の同行を許してくれた。でも、それが間違いだと知ったら……わたしが、ただ彼の傍に居たいがために、彼の思い違いを利用しているとわかったら。きっと彼は、わたしを傍に置いてはくれないから……」
話を終えたマリアンルージュは、再びカップのお湯を啜った。白い湯気はとうのむかしに消えており、ふと顔をあげれば、黙って話を聞いていたリュックに物言いたげな眼を向けられていた。
「さ、辛気臭い話はやめて、とっとと朝ごはん食べちゃおう」
部屋を満たす重い空気を振り払うように、無理矢理に明るい声を出す。三人は無言でテーブルを囲み、朝食を取った。
温かいスープとマフィンは、まだ目覚めきっていない早朝の胃袋を優しく満たしてくれた。
食事を終えて一息つくと、マリアンルージュは席を立ち、小鍋と食器を片付けた。朝食を運んできたときと同じように食器を積み上げたトレイを片手に持ち、空いた方の手を小鍋に伸ばすと、マリアンルージュよりも寸分はやく、レティシアが小鍋を手に取った。
「ひとりで大丈夫だよ。部屋でゆっくりしてて」
マリアンルージュはそう言って、ソファに座るようレティシアを促した。けれど、レティシアは小鍋を抱きかかえたままふるふると首を横に振り、小走りに扉へと駆けて行ってしまった。
「なんだ、懐いてんじゃん」
「……え?」
「レティのやつ、ねえちゃんと一緒にいたいんだよ」
頬杖をついて穏やかな笑みを浮かべるリュックの言葉を聞いて、マリアンルージュは胸の奥がきゅんと締め付けられた。
完全に信じてもらえたわけではないのだとしても、レティシアが自分から手伝おうと思ってくれた――マリアンルージュと行動を共にすることを望んでくれた、その気持ちが嬉しかった。
「そう……じゃあ、一緒に行こっか」
感極まる気持ちを抑えてにこやかに微笑むと、マリアンルージュはレティシアを連れて、ふたたび厨房へと向かった。
厨房では、宿泊客の朝食の準備をするヴァネッサが忙しなく動き回っていた。どうやらダニエルはゼノと共に朝の市場に出掛けたようだ。
レティシアを部屋に送り届けたら急いで手伝いに戻ろう。そう考えて、マリアンルージュは厨房をあとにした。
食堂を通り抜け、ふたたび客室のある別棟への通路に向かうと、通路の向こう側から数人の足音が聞こえてきた。昨日の宿泊客、つまり、レジオルディネの憲兵隊のものだろう。
足音と共に近づく人の気配を察してか、レティシアがマリアンルージュの後ろに身を隠す。マリアンルージュには気を許してくれたものの、面識のない人間を信用できる筈もない。怯えるレティシアを庇うように、マリアンルージュは壁際へと身を寄せた。
僅かな間を置いて食堂に入ってきたのは、輝かんばかりの金色の髪と澄んだ碧い瞳を持つ憲兵隊隊長のジュリアーノだった。
壁際に佇むマリアンルージュに気が付くと、彼は一瞬その足を止め、不敵な笑みを浮かべて壁際へと向かって来た。
「これはこれは、朝一でお嬢さんに出迎えていただけるとは運が良い――」
そう言って恭しく頭を下げ、不躾にマリアンルージュに手を伸ばす。指先が触れる前にマリアンルージュが後退り、後ろで縮こまっていたレティシアにぶつかった。驚いて顔を上げたレティシアがマリアンルージュの手を握りしめ、立ち竦むマリアンルージュの陰からジュリアーノの顔を覗き見た。
その瞬間――。
それは、
レティシアの小さな手のひらから、
蹂躙される美しい
泣き叫ぶ娘のドレスを引き裂き、華奢な身体に覆い被さって腰を振り、悦楽に酔いしれた笑みを浮かべる、その男の顔は――。
「まさか、そんな……」
マリアンルージュの翡翠の瞳が驚愕に見開かれる。
ほんの一瞬前までその手を握っていた小さな手のひらは、いつの間にか消え失せていた。
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