3章10話
どこからともなく甘い香りが漂ってきました。ハンナがデザートを作っているようですね。屋敷の庭へと降り立ち、懐の黒助をそっと降ろします。寝ぼけながらフラフラと歩き、玄関の前で丸くなる姿は猫そのもので、とても魔物とは思えません。
玄関を透過し屋敷の内部へと進んだところで、漂っていた香りがより鮮明に感じられ、私の意識は現実へと引き戻されてしまいました。ゆっくりとベッドから起き上がり部屋の扉を開けてみます。この匂いはそう、アップルパイですね。オーブンを使う料理なので、修理屋さんがとても迅速な仕事をしてくれたのでしょう。
「おはようございます、えらく早いお帰りですね」
「貴女のせいよ。こんなにも甘い香りを撒き散らかされては目も覚めてしまうわ」
「オーブンの試運転がてら作ってみました。ルリコ様もどうですか」
「ええ、いただくわ」
ハンナはキッチンテーブルに広げてあったアップルパイを切り分け、紅茶と共に運んでくれました。少し表面についた焦げがいっそう食欲をかきたてます。
「素敵な香り、それに……とても美味しいわ」
「私の得意料理ですからね。これだけは若い者に負けやしませんよ」
彼女も自分のアップルパイを切り分け、私の正面に座りました。ハンナがこの位置に座るのは何か話したいことがあってウズウズしている時です。大方、修理屋さんから何かゴシップを仕入れ、それを披露したくてたまらないのでしょう。
「修理屋さんから聞いたのですけど、ローマンの塔が一般開放されるみたいですね」
「あそこは元から開放されていたのではないの?」
「今までは魔物が棲みついてましたから、入場には管理官の許可が必要だったみたいですよ」
ローマンの塔は私の職場だったともいえる場所です。しかし魔物討伐などの手続きは全て翔くんがしてくれておりましたので、その辺りのことは全く知りませんでした。
「今は翔くん達のおかげで魔物がいなくなったものね」
「ええ、今後は商人連中が利権を争って大変なことになりそうです」
魔物さえいなくなれば、塔の建材である未知の金属は取り放題。今まで危険だからと見送っていた人達もこぞって取りに行くでしょう。専用の道具が要るにしても、利益を見越せば安い先行投資ですからね。
「私も覗いてみようかしら」
「ルリコさまも採掘に参加されるのですか。だったら私も」
「いえ、あの塔が攻略されてからまだ一度も行っていなかったのを思い出しただけよ。噂では呪いが解けて内部環境も変わったらしいですからね」
あの理屈が分からない不思議な空間はなくなり、ただの塔になったと聞きます。あそこに生息していた魔物や動物達はどこへ行ったのでしょうか。コリーさんが取り残されていたあの城は、どこへ消えてしまったのでしょうか。
「なんでも一階層から最上層までの吹き抜けができたみたいですね。まあ、それができたところでそこを利用できる人なんていませんけど」
そうなのね。でもハンナ、貴女は何か忘れていないかしら。空を飛んで吹き抜けを利用できる人物なら眼の前にいるじゃない?
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