1章14話
何方かに呼ばれている。
そんな感覚に引かれ光差す水面へもう一度昇って行きました。
体は面白いほどよく動き、掌を見ると皺のない綺麗な指が伸びています。
これはそう、女学生時代に海女さんの真似事をして素潜りで遊んでいた時の記憶かしら。
それとも今までの歳月が嘘で、私は泡沫(うたがた)の中で夢を見ていただけなのかしら。
いつからそうだったのか思い出せませんが、霞がかっていた焦点がゆっくり合うと、そこにはシミだらけの天井がありました。
「おお、目が覚めましたかな」
ゼペットさんの嗄れた声がします。
「良かった、本当に良かったぁ」
フェルさんの高い声も聞こえてきました。
「僕がもう少し早く動けていれば……」
どこかで聞いた声ですが、誰なのか思い出せません。
でもその声には包み込むような優しさが含まれておりました。
私は何だか安堵してしまい、もう一度泡の中へと身を沈めたのです。
肉体が悲鳴を上げ始め泡影が弾けました。耐えかねた私の意識は強制的に覚醒へと導かれて行きます。目を開くと先ほど夢で見たのと同じ天井があり、横に視線をずらすと椅子に座った青年がハープを胸に抱いてこっくりこっくり舟を漕いでおりました。その風貌は長く美しい髪が印象的だったので覚えております。
彼が何故ここにいるのでしょう。それに私は何故こんな見もしらぬ場所で寝ているのでしょう。そしてこの体は何故こんなにも激しく痛むのでしょうか。リュウマチが再発したのかもしれません。そうなるとこの世界にはお薬もないし、一生動けないままなのでしょうか。
「ショウくん、こっちよ!」
「相田さん、死ぬな!」
扉を乱暴に開ける音が聞こえました。
「まだ逝くには早い! いや早くはないが、まだ駄目だ!」
慌てた顔の翔くんが視界に飛び込んできます。私はその顔を見ると何だか無性に嬉しくて、にっこり微笑みました。けれど顔面が引きつったような感覚で上手く笑うことができません。
「何だよその、やりきった勇者みたいな顔は。何を伝えたいんだ」
特に何かを伝えたいわけではないのですが、根本的に彼が勘違いしているようなので言葉を発しようと試みました。けれども大きく息を吸い込むと胸が焼けるように痛み、喋ることも叶いません。
「したり顔をしたまま硬直してる、一体何があったんだよ」
「こちらの青年が負傷したルリコさんを背負って広場まで歩いて来られましてな。それを見つけた儂が急いで家まで案内し、寝かせてもらったのですぞ」
「応急手当も、もう終わっているわ。でも骨が酷く折れていて……」
私は……そうです、貧民街で蹴り倒されて……。
「おいお前、ババアに何しやがった!」
「僕は何も……いえ、何もできなかったから、こんな事に……」
「ショウくん、落ち着いて! その人も酷く憔悴していたのよ」
その後、彼が私をここまで運んでくれたのね……あんなにやつれていたのに。
「僕のせいなのです。行き倒れていた僕に不思議な飲み物を与えて下さったから、それを盗み見ていたスラムの輩に……」
「スラムの輩だと?」
一言お礼を言わなくてはと体に力を入れます。しかし激痛が走り、呻き声が漏れてしまいました。
「ババア、ババア苦しいのか! くそったれ」
違うのよ。苦しいと言えばそうなのだけれど、それは私が力加減を上手く調節できなかったからで、そんな臨終間際に聞く台詞をもらうほどではないと思うの。
「こんな死にかけのババアを殺めるなんて、この世界はクソゲーかよっ!」
そう吐き捨てて翔くんは扉から飛び出して行きました。いつの間にか私は翔くんの中で亡くなっているようです。
「どこへ行くのよ」
「決まってんだろ、弔い合戦だ!」
「だったら私も行くわ!」
「素人は邪魔だ。俺はこの数週間で三つもレベルが上ってる、一人で充分……」
翔くんとフェルさんの声が遠ざかって行きます。あの様子なら貧民街へ向ったのでしょう。襲われたのは私の危機意識が低かったのが原因です。何とか止めないと、彼等も私の二の舞になりかねません。
そうは思いましたが、体が全く言うことを聞いてくれないのです。唯一動かせる視線を彷徨わせると、髪の美しい青年と目が会いました。その目には先ほどのおどおどした様子はなく、包み込むような優しさが込められています。
「大丈夫だと思いますよ」
彼は何かを確信しているようで、ハープを胸に抱き直しながらそう告げました。見た目に反して底の知れない雰囲気を醸し出した若者の、しかしその声は暖かく、私は僅かに頷いて目を瞑ったのです。
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