1章13話

 貧民街は端材で造った掘っ立て小屋と、木の支柱に布を這わした簡易テントの集合体です。道路と呼べるものはありませんが掘っ立て小屋同士がくっつき合い、互いを補強する形で支え合っていますので、住人はその左右を生活路として使っているように見えました。


 生活路は入りくねっており、深くまで入り込むと迷子になりそうです。そのようなわけで私は門から続く広い直線道路をゆっくり歩いておりました。歩きながらも左右を見渡し、猫の存在を探しますが一向に見当たりません。もしかしてこの世界には猫がいないのでしょうか。


 やがて貧民街の果てに到達し、猫が見つからなかったことを残念に思いながら道端に寄って休憩を取ります。


「よっこらしょ」


 体勢を変えるだけで掛け声が出てしまうのには苦笑してしまいます。いつからこんな癖がついたのやら。荷台に座りながら麦茶をいただきます。この麦茶は無限に湧き出るようで、いくら飲んでも減らないのが嬉しいですね。それにゼペットさん曰く、若返り効果まであるらしいので本当にありがたいです。ただその効果はかなり微弱なようで、この世界に落とされてからというもの毎日何度も飲み続けているのに体は八十ババアのまま変わりません。先日、七十代に見えると言って頂いたのでもしかすると七十ババアの体になっているのかもしれませんが。


 そんなことを考えながら何気なく道についた轍を目で辿っておりましたら、地面に仰向けで倒れている人影を見つけました。


「あらあら大変」


 私は大急ぎで……と言っても一つ一つの動作が遅いのですが……立ち上がり、人影の方へ向かいました。あんな場所にあんな格好で倒れているのですから行き倒れに違いありません。生きていて下されば良いのですが。


 その方は黄色と青色を多用した派手目な旅装束を身にまとい、片手にハープらしき楽器を握っておりました。若い男性ですがとても美しい髪の持ち主です。艶やかな腰まで伸ばしたそれが、蜘蛛の巣よろしく地面に広がっておりました。陽の光に照らされ金色に輝く糸飴が時折風と戯れ、さながらワルツを踊っているように見えます。

 しかしそんな美しい髪とは裏腹に、彼の目は落ち窪み、口の周りは乾燥してミイラのようになっておりました。私はこんな時どうしたら最適なのか分からず、とにかく水分をと口のあたりに麦茶を少しづつかけてみたのです。


 暫くそうするうちに麦茶を飲み下したのか男性の喉が上下に動き始めました。最初はゆっくり、やがて一定のリズムを保って喉が動くのを確認するにあたり、生きていて良かったと胸を撫で下ろします。


「……僕は……幻覚でも見ているのでしょうか。エルザ様がおられる……」

「気が付かれたのね。でも残念ですが私は貴方の言うエルザ様ではありませんよ」


 きっと大切な人なのね。私に似ているのなら可愛がってもらったおばあちゃんなのかしら。でも彼は朦朧としているので、誰を見てもその人の面影が重なるのかもしれません。


「そう……ですよね、失礼しました。助けていただいて感謝いたします」

「良いのよ、困った時はお互い様ですから」

「なんて心の広い。しかし僕は死を覚悟していたはずなのですが……この体の軽さは何が起こったのでしょう」

「きっとこの麦茶の力ね。不思議な力で疲れた体を癒してくれるのよ」

「それは素晴らしい……あぐっ」


 彼は起き上がろうとして崩折れてしまいました。麦茶には疲労減退効果と滋養強壮効果があるらしいのですが、すり減っている体力を回復させる効果はありません。


「まだ歩くのは無理そうですね。私の腕力ではどうにもできないので、少しお休みになってから移動して下さいね」

「ありがとうございます、親切なレディ」

「まあ、八十ババアを誂ってはいけませんよ。では失礼します」


 何とか上体を起こした若者に会釈をしてから直線道路を辿って帰路につきます。その歩みが貧民街の中腹に差し掛かった頃、激痛が背中を襲い、地べたに転がされてしまいました。支えようと咄嗟に出した右手は位置もタイミングも悪かったらしく、小枝が折れるような音を立ててあらぬ方向に曲がりました。老年で低下した骨密度のなんと呪わしいことでしょう。


 痛みの中で懸命に振り返り仰ぎ見ると、身なりのよろしくない数人の男性が下卑た笑みを浮かべて立っておりました。背中から蹴り飛ばされたのだと理解するのが精一杯で、その後、腹や背中へ執拗なまでに振るわれる暴力の中、私は意識を手放してしまったのです。

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