初音鏡花のあるがまま。-LET IT BE-

@minoritea_ty

 仰げば久々に青い空。

 視界の八〇%を澄んだ蒼穹が、一〇%を千切った和紙みたいな白雲が、残りの一〇%には夢と希望と排気ガスとスモッグが浮いている。

「は――――――――――――……きもちいーなー」

 ここは地上六〇メートル、シコクスゴイスカイビルの屋上。

 そのへりも縁、あと数センチ踏み出せば、撃ち落とされた鳥の気分になれる危なげな場所に、セーラー服を着た少女が立っていた。

「絶好の散歩日和。最高の昼寝日和。とてつもないサボり日和だねー。飛び降りたいなー」

 棒読みチックで投げやり気味という、絶妙な倦怠感を持った声だった。

 屋上風になびく吹きさらしの銀髪ぎんぱつを、鬱陶しそうに払うこともなく、少女はスカートと一緒に大好きな青風に遊ばせる。

 ふと、眠たげな少女の視線が、蒼空そうくうから手元へ落ちた。

 その手には、今日の空にも似た、スカイブルーの音楽プレーヤー。

 立体ホログラフや脳波での画面操作が当たり前の世界となった昨今では、既に退廃しつつある、タッチパネル式の代物、骨董品である。

 カードのように薄く、発売当時は驚かれた150GBの容量を持つものの、実際その中身は半分も埋まっていない。

「んー……どれにしようか」

 透明感の過ぎる水色の瞳に、液晶画面が映る。

 タッチパネル弄り、羅列された曲目を次々スクロール。

「これにしよ」

 ぴたりと手を止め即座に再生開始したタイトルは。

【happy days ~幸せな毎日~】

 少女の好きなアーティストが歌う一曲だった。

 雲ひとつ無い晴れた空みたいに、心をうきうきさせてくれるメロディ。

 風を切って外を歩きたくなる、明るく緩やかで心地のいいテンポ。

 そよ風のように身体の奥深くに沁み込んで、開放的な気分を湧かせる、2MCの優しげな声。

 屋上ここから飛んでもいいんじゃない? とまで思わせてくれる、麻薬的開放感を湧かせてくれるその一曲。

 少女は、その曲が好きだった。

「♪」

 イントロが始まり、少女は天を仰いだ。

 目を瞑り、耳から流れ込んでくる爽やかなBGMに心を任せる。

 途端に屋上の風が優しく感じ、空気は澄み、胸の奥の奥までいい気分になってくる。

 全身の筋肉が弛緩するほど、気持ちの良い錯覚トリップ

 後ろがコンクリじゃなく緑の草原だったなら、このまま倒れて眠ってしまいたい。

 もしそれが出来たら、どれだけ気持ちがいいことだろう。

 そんなことを起きながらに夢想しながら、少女はただ、屋上の縁で突っ立ち続けた。

 やがて、ぶっちゃけお漏らししそうなほどに身体が弛み、開放的興奮が昂ってきたそのタイミングで。

 幸か不幸か、頭の中に声が響いた。

『おい。何してんだ初音ハツネ

 誰がどう聞いても、一〇〇%無愛想な少女の声。

「……む」

 いいところで不機嫌に名前を呼ばれ、トリップしていた少女――初音ハツネ鏡花キョウカは億劫そうに、ゆっくりと瞼を開いた。

「あー。いーところだったのになあ」

 非常に眠たげな目つきである。

 思ったことを素直に言い、初音は脳内の声――天海あまみという少女に、棒読みチックで不満気味な返答を返した。

『だったのにじゃねーよ。てめー仕事はどうした』

「しごと?」

『すっとぼけんな。今日はカガワ小等部で文化祭があんだろ』

「そうだっけ」

『んで、てめーはその見回り役だったろ』

「そうだっけ」

『んで、もう開催時間は過ぎてんだろ』

「そうだっけ」

『んで、てめーは何してんだ』

「そうだっけ」

『……』

「そうだっけ……ん。どーした天海?」

 突然応答しなくなった相手に、初音は特に疑念も抱かないが、反射的に問うていた。

「もしもし。もしもーし」

 不通。

 と。

 がし。

「んぁっ?」

 背後から襟の後ろを掴まれた。

 顔だけ振り向くと、そこには今しがた通話していた相手が、尖った目つきでこちらを睨んでいた。

「……お早いご到着で」

 棒読みチックに恐れ気味。よ、左手を挙げ、初音は軽い挨拶をした。

屋上てめーの真下だからな。通信室は」

 群れを統率する狼のような風情を携えた、天海のグレーの瞳。野性を感じさせる獰猛な目つき、鋭い眼光はまさに牙そのもので、初音は真っ向から噛みつかれた。

 色素が薄く、白の強い灰色の短髪。頭の両脇で跳ねてる、猫耳みたいな癖っ毛。それは感情によって動くという、現代でも未解明な機能を持っていることを、初音は知っていた。

 ちなみに現在、猫耳はびしりと逆立ち気味。つまり、割とご立腹。立ってるのは耳だけど。

「初音」

「うす」

「風紀委員ってなんだ。言ってみろ」

「えーっと、んーっと。……学園都市シコクシティ全体を警備する、生徒会役職。ただし、『強化内骨格』による身体強化を行った生徒のみがなれる、特殊な席である。風紀委員は事実上、国の認めた“職業”であり、給与が与えられる。小等・中等・高等・大学校の隊列分けはなく、風紀委員は一個の団体として、シコクシティ全体を守るやくしょく」

「生徒手帳ガン見で朗読してんじゃねー」

「天海は全部覚えてんの?」

「あたしらは警察だ。この学園都市シコクシティを見張る、生徒が運営する警察だ」

「うわ単純」

「それで充分だっつの。だからさっさと小等部の安全を守って来やがれ」

「遊んじゃ駄目なのかー?」

「小等部の文化祭で遊べるもんなんざ、あたしらにはねーよ」

「えー。二年前まで六年生だったんだからいけるってー」

「歳じゃねーよ。義体からだの話だ」

「あー、なるほど」

「分かったら早く行け。落としてやるから」

「え」

 ここで初めて、初音は驚きを見せた。

「ちょ、ちょい待ち天海。落とすって、ここから?」

「六〇メートルぐらいなんてことないだろ」

「マジで?」

 棒読みチックに焦り気味。

 やりとりしてる間に、初音は親猫に銜えられた子猫の体勢で、支えるものなど何も無い空中へ突き出された。

 足元に在るのは空気のみ。強いてあげるなら、遥か直下にある道路と車、人々の雑踏。

「ま、待ってよ天海。怖い。怖いし、人居る。アブナイヨ」

「てめーの運動神経なら大丈夫だ」

「もっと人道的手段を採ってくれ。これでも五〇%は人間なんだから」

「あたしもだ。半人道的手段、それとお前がサボリ常習犯だってことを加味した上での決断だ」

「血も涙もある癖に!」

 棒読みじゃなくして怒り気味。

「いいか初音」

「なんだよ」

「小等部では文化祭と同時に、頭のいい連中が参加する行事がある。その参加者の大半は、エリート金持ち集団だ」

「そうらしいね」

「その行事の為に、日本全国からそういうお偉いやつらが集まってくるんだ。今回の仕事は、そいつらを護衛することなんだよ」

「……なに、その『何か起こる前提』の話」

「起こるに決まってんだろ。毎年毎年誘拐だの脅迫だの援交だの起きてんだからな」

「すごいよなー小学生。進んでるよなー」

「頷いてねーでさっさと行ってこい」

「あ、離す時は言っ――」

 てはくれなかった。

「!!!!!!!!!!!!!」

 眠たげな目は見開かれ、顔は急激に蒼ざめる。

 ワイヤーの切れたエレベーターのように、初音は六〇メートルを落ちていった。

 しかし慌てても騒がず、くるんとまわってずどんと着地。

 生身であれば全身が粉々のぐしゃぐしゃになるとてつもない衝撃を、初音は膝、腰、上半身。クッションとなる生体部分の柔軟性も使い、つまり全身の屈伸運動で見事に緩和した。

 降って沸いた銀髪の少女の着弾に、周囲を歩いていた人々は驚きに目を見張る。

 観衆の視線に蜂の巣にされながらも、しかし初音は動けないでいた。それは何故か。

「むっ……!」

 足の裏に残って響く、待機電流というのはこのことかと思えるビリビリとした痛みと痺れ。

「ぐぐ……!」

 機械の身体とはいえ、所詮は半分。人間の部分が受ける衝撃は全て機械が吸収するものの、ゼロには出来ない。

 初音はしゃがんだ状態で余韻に耐え続け、治まるのを待つこと三十秒。

「よっ、し。大丈夫」

 一人言い、初音はゆっくりと膝を伸ばすと、観衆の目を気にすること無く、前を向いてさっさと歩き出した。

 カガワ小等学校までは、歩いて一時間、走って二十分、マジになってビルの屋上を跳び渡れば、五分で行ける場所にあった。

 しかし初音はわざわざ下の道を選び、タクシーという、遅くも無ければ驚くほど早くも無い移動手段を選んだ。

 目的地までの、絶妙な時間のかかり具合。初音はそこを見込んで、いつもタクシーを使っていた。

 同期の仕事仲間であり、周囲からは保護者などと思われている天海からは「さっさとまっすぐ行きやがれボンクラ」などと罵倒されているが、初音はそんなことは気にしない。

 急いだって何も得られない。失敗の確率が増えるだけ。嫌な時間が長引くだけ。

 何事も、いつ誰にどんなことを言われようが、ただひたすらマイペースに。

 それが、初音の信条だった。

 がこんっ。

「うおあっ?」

 突然、ビル街を走っていたタクシーが急停止した。

 後部座席でだらけていた初音の身体が、慣性の法則で跳ね起きる。

「なんだよどーしたよ、青信号じゃん」

 初音は無人の運転席、ハンドルに内臓された人工知能へ尋ねた。

 すると、『イエ、前方に人が』という、人間みたいな返答が返って来る。

 反射的に、初音は車の前方を見た。が、捉えたのは通り過ぎた小さな背中のみ。

 体格からして、まだ小学生。来ている制服はブレザー。その衣服から初音は、彼が小等区で有名なエリート進学校の生徒だとわかった。

 しかし、ここが区の境とはいえ、まだトクシマ中等区である。彼が居るべき学校からは、一キロほど離れていた。

 おまけに、今日から文化祭が始まっている。少年がここに居る理由は、何一つ無いはず。

「ふむ」

 無意識に思考を巡らせていると、いかにも怪しい黒スーツにサングラスの男たちが、少年の後を追うようにどかどかと走っていった。

「……」

 初音は考える。

 ボディーガードにしては多いな。

 同時に、うわ、めんどくさそう、とも。

「……見なかったことに」

 ばたん。

 左手のドアが勝手に開いた。

「え」

 なして?

『行ってらっしゃいませ』

 人工知能が言った。

 この車はタクシー。十中八九、運転手である彼が、こちらの職務を察したつもりで開いてくれたのだろう。

 ……あーあ、めんどくさ。

 初音は心底嫌そうな表情を浮かべ、鼻で溜め息をついた。

 それからプレーヤーを取り出し、操作しつつ、緩慢な動作で降車。

 このまま車で追うよりも、自分の足の方が速いのだ。

「あ、お金はトクシマ生徒会につけといて」

『了解しました』

 ばたん、とドアが閉まり、タクシーは行ってしまう。

 ……やれやれ。

 初音は曲を選び、再生した。

【Whats Going On!? ~何が起きてんだ!?~】

 荒々しいイントロ。騒々しいリズム。刺々しいリリック。2MC+1DJによる狂騒曲バトルメロディ

 やるからには、さっさと済まそう。

 足首をぐりぐり回し、念入りに屈伸。

 のち、目の前の手頃なビルを見上げて。

「めんどくさ」

 ――跳躍。

 一分と経たずして。

「見っけ」

 初音はビルの屋上から、歩道を走る少年の姿を捉えた。

「よっ」

 初音は着地点に目測をつけ、ビルから飛び降りた。

 くるんとまわってずどんと着地。

「うわあ!」

 少年の驚いた声が聞こえる。

「やあボク。文化祭はどうした?」

 折角かっこよさげに現れたのに、脚が痺れて動けないとは言えない。だから初音は、そう尋ねることで誤魔化した。

 少年は尻餅をついており、口をぱくぱくさせている。

 どうやら、かなり驚かせてしまったようだ。

 が、初音の襟元――風紀委員のバッチを見て、ようやく声をあげた。

「風紀の人!?」

 小学生の癖に、発言が全部漢字になるくさい喋り方だ。

「はい、風紀の人です。信号無視は駄目ですよ」

「た、助けて! 変な人たちに追われてて……!」

「あ。やっぱ護衛じゃなかったんだ」

「来た!」

 少年の声に初音は顔を上げると、向こうから黒い集団が迫っていた。

「キミ、なんかしたの?」

「してない!」

「そうか。とりあえず話が聞きたいから逃げようか」

「逃げるって……」

「よ」

 初音は少年の身体を、ひょいとお姫様形式に抱き上げた。

「うわっ」

「ぃよっ」

 驚く少年をさておき、初音は屈伸ののち、跳躍。五メートルはあろう近くの街灯へ飛び乗った。

 柱の根元へ黒服の男が群がり、こちらを見上げてくる。

 それを見て初音は悪戯っぽく笑み、

「覗きかよー。うりうり」

 と腰を振り、わざとスカートをひらつかせた。

 すると狙い通り、黒服たちは気まずそうに視線を外し、咳払いなどで各々誤魔化し始める。

 スパッツ穿いてるけどねー。

 初音は心中でニシシと笑い、黒服たちの隙をついて、再度跳躍。

 街灯の頭を捻じ曲げるほどの脚力で以て、手頃な足場を見つけては飛び移り、蹴り、跳びを繰り返し、その場を離れた。



 とん たん とん たん とん とん たんっ。

 地上数十メートルのビルの屋上から屋上へ、初音は恐れの無い足取りで軽やかに跳び渡っていく。

 目指すのは、少年が通っているであろう小学校。

 ただ、その前に。

 きゅッ。

 靴底でコンクリートを鋭く摩擦し、初音は連続のビル跳びを停止した。

「っ、と。……キミ、大丈夫? 死んでない?」

「じ、じゅみょうがちぢみますた……」

「なに? チヂミマスター?」

 わけの分からないうわ言を、魂のように口から漏らす少年に初音は眉根を寄せた。

「はぁ……」

 少年が溜め息をついた。

 見るからにぐったりと疲弊している彼に、初音は苦笑いを浮かべる。

「ごめんごめん。見つかりにくくて学校に近い場所選んでたら、君の事忘れちゃったよ。おかしいよなー。君の事を考えての行動なのになー」

「……とりあえず、下ろしてください」

「うす」

 初音が脚からゆっくり下ろすと、少年は力なくぺたりと座り込んでしまった。

「怖かった……」

「悪いね。でも、ここなら誰も来ないから。建物の関係者と、風紀以外はね」

「そうですか……」

 安堵したような少年を、初音はじろじろと無遠慮に眺めた。

 柔らかそうな金髪。整った顔立ち。紺碧の瞳。初音より細っこい身体。

 見るからに病弱。見るからに気弱。見るからにお坊ちゃま。

 しかしあれだけ走り回って跳び回ったにも関わらず、発作のひとつも起こしてないということは、少なくとも人並みに丈夫ではあるらしい。

「キミ、外人?」

「え?」

 少年が目を丸くする。

「あーごめん唐突だった。いやね、金髪だからさ。どこの国の人?」

「日本です」

「ハーフ?」

「はい」

「ニュー?」

「違います!」

「おぉ、よく分かったな」

「ヨークっていうオチも考えましたけど」

「そっちのがいいね」

「そうですか」

「じゃー名前は?」

「え……」

 少年の表情が曇った。そして、恐る恐る尋ね返してくる。

「……あの、親に連絡、とか?」

「しないよめんどくさい」

「え」

 初音は即答した。

「あの、風紀委員って、そういうのが仕事じゃないんですか?」

「してもいいんだけどさー。なんていうか、めんどくさいじゃん」

「そ、そうですか」

「まぁ、キミにとって都合の悪いことはしないであげるよ」

「……ありがとうございます」

「でも名前は教えてくれ。わたしは初音」

「……ユーキ」

「ユーキね。そしたらユーキ、事情を説明してもらえるか」

「さっきの、ですよね」

「正直めんどくさいんだけどさー、なんかさー、毎年毎年小等区の生徒を狙った犯罪がピーチクパーチクらしくてさー、んなるよねー」

「は、はぁ」

「ともかく説明してくれ」

「……『全国セカンドアインシュタイン発見の会』って、知ってます?」

「は? なんだそれ」

「小等区の文化祭最終日に開かれる、発表会コンクールのひとつなんですけど」

 それを聞いて、初音は天海の言葉を思い出した。

「あー、あれか。マジで頭いい小学生があーだこーだ言うやつ」

 正直、本当に人間の子供かどうか疑うほどのレベルだと、初音は聞いていた。

「その会に、発表側として参加するんですけど」

「へー。すごいな」

「ただ、問題がありまして」

「どんな」

「その……僕、理数系が全く駄目なんです」

「は?」

「全然駄目なんです。ていうか、数字が駄目なんです。無理なんです」

「待て待て待てよ。待てよ。それ、参加云々以前の問題だろ」

「です……」

「発表する作品ていうか、そういうもんは出来てんのかよ」

「…………」

「出来てないのかよ」

「……」

「マジか」

「……正確には、四つ出来ました」

「どーゆーこった」

「親に、『こんなんじゃ駄目だ』って言われて……」

「何様だよ親。なんでこんなのを参加させたんだよ」

「曾お爺ちゃんの代から受賞続きだから、出ろって。受賞しろって」

「おい。お前の苗字、『右京院』か」

「はい」

「あー。納得した」

 右京院。超絶天才一家として世間に知れ渡っている家系の名だった。

「確か、コウチ大学区の有名校の校長兼教授が右京院だっけな」

「お爺ちゃんです」

「同じくコウチの理数特化大学校の教授にも居たな」

「父さんです」

「ていうか、本州に右京院大学とかなかったか」

「母さんの大学です」

「……マジかよ」

 このユーキという少年は、そんな一家の子供らしい。

「なのに理数系が苦手ってか」

「苦手というか、駄目なんです」

「じゃあ文系?」

「……どちらかと言えば、多分。特別、才能があるわけでもないですけど」

 しょんぼりと膝を抱えて、少年は背を丸めてしまう。

「なるほどなー。要は、周りの期待に押し潰されてるわけだ」

「……期待、されてるんでしょうか」

「さーね。少なくとも、ユーキの家族以外の人間からは期待されてるんじゃないか。一人っ子?」

「はい」

「じゃあ尚更だなー。ご愁傷様」

「うぐ……」

  ♪

「……初音さん、苦手なものってありますか」

「うんこ」

「ハ?」

「なんでもない。そーだなー。蜘蛛とか蛇とか。後はなんだろ」

 なんとなーく考えた筈なのに、不意に脳裏へ蘇る。

 闇。

「……」

 音の無い、黒一色の、暗い暗い、闇。

「……無音とか?」

「むおん?」

 小声でぽつりと言ったつもりだが、相手は聞き取れたらしい。

「静かなところ、ですか?」

「んにゃ、静かなのは我慢できるよ。嫌なのは、なーんも音の無い場所。ほんとに、なーんも無いの」

 脳の隅っこに押し込めた筈の、真っ暗な空間。

 右も左も分からない、それどころか方向感覚を見失う程の、ただひたすらに暗いだけの場所。

「何かしら音が鳴ってないと、不安でねー」

 初音は脳内の黒を掻き消すように、イヤホンとプレーヤーを掲げて見せた。

「僕は、音が無い場所の方がいいですけど」

 ユーキの言葉が、若干ほど闇を掠めた。

「ふーん。なして?」

「一人で居られますから」

「寂しい奴だな」

「怒鳴られっぱなしよりは、いいですよ」

「親に怒られてるのか」

「あ……」

 無自覚で喋ってしまったらしい。

「言っちゃえよ。どーせわたしには何も出来ないし、そもそもしたくないし。めんどくさいし」

「……例のコンクールですよ。親に何度作品を見せても、駄目だ駄目だばっかりで。何をやってもどう足掻いても怒鳴られるばっかりで」

「うわ。めんどくさいなそれ」

 他人事チックに同情的。

「僕なりに頑張ってるつもりなんですよ。ていうか、七歳にやらせることじゃないと思うんですよ」

「えっ。お前七歳なの?」

 初音は本気で驚いた。

「そうですよ」

 少年は軽く言う。

「口調が十五歳クラスだぞ」

「それも多分、家の影響です。年齢不相応なことを、不相応な速度でどんどん叩き込まれますから」

「年齢不相応、ねぇ……七歳が使う言葉じゃないな」

 やっぱり最近の子は違うなあ、などと初音が感心していると。

「かえりたくない」

 突然、歳相応の子供みたいな口調で、膝を抱えるユーキが言った。

 その言葉で、初音は全てを悟る。

「なるほどなー。だから逃げてたわけか」

 やはりあの追っ手の黒服は、不審者ではなかったようだ。

 街中では不審者として見られるが。

「……ま。どうしたって最後には家に帰らなきゃいけないんだし、早めに観念するのもひとつの手段だと思うけどー? ていうか、その方が叱られ度は低いんじゃない?」

「なんの度ですか。それに、こうなったらいつ戻ろうが同じですよ。帰って、耳引っ張られて、怒鳴られて、また研究室に監禁されるだけです」

「もっと子供っぽい言葉使えよー」

「僕だって使いたいですよ。でもしょうがないじゃないですか。物心ついたときにはこういう教育状況だったんですから」

「はは、まるで調教だな」

「笑い事じゃないです……」

 力なく言い、少年は抱えた膝に顔を埋めてしまった。

 初音は小さなその姿をじっと見つめ。

「……」

 闇を、思い出した。



 物心ついた時には、既にそんな教育状況だった。

 まるで、調教だった。

 少女はユーキのように家柄が良く、裕福な家庭に生まれた。

 両親――特に父親は音楽業界の権威として名高く、天才ミュージシャンとして幅広く活躍、若い頃から人気を集め、世界を魅了した。

 やがてこちらも、次世代を担うアーティストとして売れ始めていた女性と出会い、偶然にも音楽性の一致から、二人は間もなく挙式、一人の女の子を授かった。

 世界的に有名な音楽人の間に生まれた、初音鏡花という少女。

 世間も両親も、「娘にもきっと才能がある」と信じ込んでいた。

 しかし、将来への希望と期待ある一人娘が五歳の頃。

 少女は、聴覚を失った。

 原因は音響機材の電源、その切り忘れだった。

 父親が音楽仲間と一緒に、自宅の小さな演奏室でギターを弾いていた時。

 初音はアンプの傍で、音の振動を直に感じながら、それを見物していた。

 運が悪かった。

 演奏者二人が曲の盛り上がり、パフォーマンスのひとつとしてギターを振り回したとき。

 アンプに刺していたコードが、思い切り抜けてしまったのだ。

 瞬間、機材から爆発的な大音量が、大砲のように撃ち放たれた。

 甲高く、耳障りで、思わず歯を軋ませてしまう高周波が発生。

 それは間近に座っていた少女の耳を貫き、鼓膜を潰し、脳を攪拌した。

 ……初音が次に目を覚ましたとき、彼女は既に、無音の世界に居た。

 それから初音は、毎日毎日、親の嘆く姿ばかり見るようになった。

 一体、父や母が何を言っているのか分からない。ただただ、涙を流したり、娘の頬に手を添えて肩を震わせる母や、頭を抱えたり、壁を殴ったり、恐ろしい形相で詰め寄ってくる父を眺める日々が続いた。

 それがどうしてなのか、当時幼い初音には、全く分からなかった。

 半年ぐらい経ったある日、父親にギターを渡された。

 子供用にしてはしっかり出来ていて、初音の身体にぴったりのサイズだった。

 父親は頭を撫でながら、身振り手振りで、それがプレゼントだと教えてくれた。

 初音は素直に喜び、父親のジェスチャーを必死に理解し、無音の世界でギターを弾いた。

 だが、そうそうできるものではない。

 何しろ、演奏している本人には、なんの音も聞こえていない。どれだけ弦に耳を近づけようが、全く何も、聞こえない。

 スキルアップにも支障を来し、父親がまた頭を抱え始め、日に日に練習の時間は減っていった。

 それでもギターを離さなかった初音を見た母親が、父に代わって講師となった。

 だが、母にはどこか、焦っている様子が窺えた。

 早く覚えて。急いで。早く――そんな調子の。

 始めは気のせいだと思ったが、日が経つに連れ、確信に変わった。

 初音が演奏に失敗する度、母が腕を掴んでくる。爪が食い込む。ごめんなさいと自分では言ったつもりでも、耳が聞こえなければそれすら分からない。

 ただ飛来する母の手を頬に受け、復帰した酒臭い父親に睨まれ、乱暴な講習を受け。

 深夜、初音は一人、膝を抱えて泣き続けた。

 どうしてこんな目に遭わなければいけないのか。どうしてお父さんたちはあんなに怒っているのか。どうしてわたしは耳が聞こえないのか。

 理由を欲する毎日。

 音楽を強要される毎日。

 殴られ蹴られ嬲られる毎日。

 そんな日が重なり、九歳になった頃。

 遂に初音は――視力をも失った。

 完全な無音。完全な暗闇。

 朝か夜かも分からない。誰がどこに居るかも分からない。

 ただ分かるのは、自分はベッドの上で、変わらずギターを握らされてることだけ。

 弦らしきものを弾くたび、拳らしきものが飛んでくる。

 涙らしきものを流すたび、首らしきものを絞められる。

 言葉らしきものを吐くたび、胃液らしきものを吐かされる。

 

 まるで調教だった。

 十一歳になり、世間では小等区の卒業シーズン。

 とはいえ外界のことなど全く知らない初音のもとに、ある日、天海という少女が現れた。

 彼女は両親を長年の幼児虐待、麻薬濫用、娘の障害を隠蔽し、世間に対して「娘は天才です。六歳でわたしの演奏技術を覚えました」などと偽ったことも付与し投獄。これにより、初音の前から、良心は気配諸共姿を消した。

 両親は生まれついてのスター性から、かなりプライドの高い人物だったと、初音は後から知った。

 自分たちの子供が、こんな「不完全」なわけがない。きっとなんとかなる。大丈夫だ。親がしっかり教育してやれば、問題ない。

 そんな考えから、初音むすめは音も色も景色すらない世界で育ち……結局、何も知らないまま、十二歳の春を迎えた。

 シコクの児童施設に保護されてからは、天海の勧めで機械化手術を受け、視力、そして聴力を取り戻した。

 初めて見る世界。自宅ではなく、病院のベッド。

 嘘みたいに真っ白な世界。全てが明るかった。

 枕元に置かれていたのは、型は古いが、綺麗なスカイブルーの音楽プレーヤーと、『やるよ。』と雑に書かれた紙切れ。入っていた曲は、聞いたことの無いアーティストのタイトルばかり。

 暇潰しに適当な曲を聴いてみるが、どれも機械的で単調だった。ほぼループするだけのBGMは飽きやすく、荒く語りかけてくるような歌い方は、そこそこ鬱陶しかった。

 それでも初音は、好きになるほど聴くのをやめなかった。

 鼓動にも似た等間隔のリズム。生きていることを教えてくれる、まっすぐなリリック。

 色々聴きこんでいると、初音は初めて、音を楽しむことを知ったのだった。



「初音さんは」

「んぇ?」

 少年の声で、初音は我に返った。

「初音さんは、嫌なことを押し付けられたら、どうしますか」

「んー……」

 過去を思い出し、『今ならどうする?』と自問した。

「そうだなー。とりあえず逃げるかな」

「逃げる?」

「そう。逃げる」

 へら、と笑い、初音は句を継いだ。

「逃げるのは、生きるための手段のひとつさ。もしくはつっぱねる。絶対に受け付けてやんない。で、それでもまだ強要してくるようなら、喧嘩だな」

 初音は、拳をぎゅっと握って見せた。

「は、初音さん、強いんですね」

「風紀委員だからなー」

「いいなあ」

 決して届かないことを受け入れ諦めたような、歳不相応な口ぶりで、ユーキが溜め息のように呟いた。

 それに対し、初音は真面目チックに説教的な雰囲気で口を開いた。

「……ユーキってさー」

「はい」

「昔のわたしに似てるんだよねー」

「え」

「生まれた時点で、期待の塊なんだよね。特に、家が家だとさ」

「……」

「人間ってのはね、ある意味平等なんだよ。きみは、理数系ばっかの家系に生まれた、一人っ子の文系ってわけでしょ? どーよそれ。将来の期待値、なんか高そうじゃない?」

「……でも僕、理数系は」

「誰が理数系って言ったのさ。文系に関してだよ」

「へ?」

「お前んとこって、理数系の集まりじゃん。つまりさ、理数系指数が95%ぐらいあるわけ」

「り、理数系指数?」

「そー。人間の才能平均値は、基本的に五〇%。理数も文学もいけるっていう、一般人。後は周りの環境と自分の考えで、どっちに傾くかが変わっていく。

 理数系と文系の存在割合は、大体一緒。つまり、一家庭における割合も、理数・文系のバランスが取れてる筈なんだ」

「あ、うー?」

「理数系95%の、えらく偏ったユーキの家系。世間的にも、きみんちは理数系で通ってるだろ?」

「はい、まぁ」

「ユーキはね、そんな家庭に生まれた、たった一人の文系なんだよ」

「たったひとりの……?」

「そう。わたしからすれば、これはすごい可能性を持ってると思うわけ」

 初音は続ける。

「確かに、きみには計算とか実験とか、そういうのは向いてないかもしれない。ていうか、むしろ弱点だと思う」

「うう……」

「けどさ、それだけ文系に特化してたとすれば、どうする?」

「文系に?」

「ユーキは、『文系』っていう、理数系一家の弱点を補う存在なんだよ。だからその分、数学とか理化学系に弱くなってんの」

「……トンデモ理論ですね」

「まーね。わたしの話を信じる信じないは、きみの自由。ただひとつだけ言っておきたいのは、自分の意志をしっかり持っておくことかなー」

 親の言いなりで、何も出来なくて、意思すら持てなかった過去の自分に言い聞かせるように。

「確かに、子供は子供だよ。親が居なきゃ生きてけない。けど、だからといってなんでもかんでも聞いてるだけが子供じゃない。ひっつき虫じゃダメだ。抵抗することも覚えないと、結局将来は明るくないだろうね」

「自分の、意思ですか」

「なんでも、やってみることが大事だよ。トライ&エラー。『無駄だ』って初めから答えが見えてるなら、突破する為の攻略方法なんて考え放題だしさ」

「……」

 ユーキが、思案するように俯く。しかし、そこに暗さは無い。

「今すぐやれ、なんて言わないよ。だって、まだきみは子供だ。自分のペースを保って、ゆっくり気ままに休みながら、出来る範囲で攻略していけばいいさ」

 初音は立ち上がり、空を見上げた。

「わたしも、そうやって生きてきた。いやあ、昔は大変だったよ」

 晴天が広がる、大きな空。雲もいい感じ。まさにhappy days.

「親っていうのは、どうしても無敵の存在に思えちゃうよねえ」

「そうなんですよね」

「おまけにしつこいと来たもんだ」

「え?」

「あれ」

「あれ?」

 初音が青空の向こうを指差すと、ばらばらばらばら、と空気を叩くような音を立てて、一機の小型ヘリが近づいてきていた。

「お、お父さんのヘリだ!」

 驚いた様子でユーキが立ち上がった。

「凄いなー。子供捜すのに自家用ヘリだもん。……で、どーするよ」

「え?」

「逃げる? それとも、帰る?」

 問うと、ユーキは暫し俯き。

「…………」

 おもむろに面を上げ、言った。

「帰って、数字から逃げる為に、闘ってみます」

 少年は笑っていた。

 ♪

「……まだ説教するほど歳くってないんだけどなぁ」

 屋上からヘリを見送りつつ、初音は呟いた。

 そこに、通信が入る。

『たまにはいいこと言うじゃねーか』

 天海だ。

「でしょー。……え、盗聴しないでよ」

『子供ってのは馬鹿だな。結局、年上の言葉を鵜呑みにしやがった』

「いや、あの子はしっかりしてるよ。わたしがどういう人間なのか、味方かどうか見てた感じだし」

『そんなのわかんのかよ』

「だってあれ、昔のわたしだもん。わかるよ」

『そうかい。だったら、仕事ほっぽりだしてふらふら街を歩き回る誰かさんみたいにならないことを祈るぜ』

「誰それ」

『“今”のてめーだよ。昔より現状の自分を把握しろバカ』

「あいよー」

『ぜってーやる気ねーだろ……まぁいい。それより、仕事だ』

「散歩したーい」

『散歩どころか散々歩いたろ』

「おー、天海も文系だねー」

『何がだ』

「てことは、わたしが理数系なのかな?」

『てめーは不思議系だバカ。いーからさっさと小等区に向かえ』

「あいよー」

 仕事開始よりも二時間遅れで、初音は小等区へ向かった。


                  終わり。

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