幕間 

Intermedio

 僕は炎の中に菊の葬列と、そして青い蝶の羽ばたきとを見た。

 蝶の群れは羽ばたき、その羽ばたきは風を起こし、竜巻を巻き起こし、やがて菊の葬列を吹き飛ばした。そうして咲き誇っていた花々は、薪のように火に吸い込まれて燃えていったのだ。

 僕が見た彼女の最期とは、そういうものだった。

 彼女の亡骸は、そんな幻影に包まれて、失せたのだ……。


 正直なところ、リンが死んでからどうしたかなんて僕は覚えていない。とにかくパニックだった。ひたすらに涙を流して、誰か助けを求めていたけど、でもレンゲだってもうどこかに行ってしまったし、リンを撃ったという御堂もいなくなっていた。僕を助けてくれる人は、手を引いてくれる人はいなくなっていたのだ。

 だから、僕はその場から去らざるを得なかった。

 でも、どうやって出て行ったかなんて、それももう無我夢中だったから覚えていない。最終列車に乗り込んだのか、バスに飛び込んだか、それともタクシーを捕まえたか。あるいはクルマを盗んだか……。とにかく僕は、気がついたら都内まで戻ってきていたのだ。

 東京都心には雨が降り始めていた。僕の心境を表すような、冷たく、厚い、季節はずれの雨だった。

 霞ヶ関には、終電後にタクシーに乗り込む人が並んでいた。みな高そうな黒傘を差して、呆然とした目で僕を見ていた。無理もない。肌は黒く焦げ、びしょ濡れのスーツで、出血した足を引きずりながら歩いてきたのだ。むしろ警察を呼ばれないだけマシと言えた。

 そして僕にも、彼らホワイトカラーの姿など見えていなかった。ただ戻ろうと、それだけで手一杯だったのだ。


 やがて僕は、路肩で意識を失った。最後に見ていたのは、目印にしていた地下鉄虎ノ門駅の看板だった。

 ――ああ、ここで終わるのかな。

 出血と衰弱とで朦朧とする意識の中で、僕はぼんやりと思った。もはや右手からこぼれおりていく液体が血なのか、雨粒なのかもわからない。

 ――ごめん、リン。あのまま逃げてれば良かったのかも……。

 ――あなたに従っていればよかった。

 ――僕は、あなたを助けられるほど強くなかった……。

 そんな後悔の念ばかりが湧き立って、僕は彼岸にまで謝罪に行こうとさえ思った。だけど、ある一言が僕を現世に連れ戻したのだ。

 僕はある人物に声をかけられた。彼は傘を差し出し、血を洗い流す雨をせき止めた。

 地べたに這い蹲ったまま顔を上げると、そこには一人の男がいた。僕はその姿を見たとき、悲哀とも何とも言えない、行き場のない感情を覚えた。

「無事でしたか、守田君」

 禿げ上がった白髪に、スリーピーススーツ。右手に持った漆黒のコウモリ傘は、僕の頭を覆い隠してしまうほど大きかった。

 目線をあげた先、そこにいたのは弊社の実質的なリーダー、御楯カンゾウだった。


 御楯会長の肩を借りて、僕は何とか弊社まで戻ってきた。でも、そのときの僕の心境はかなり複雑だった。

 御堂は言った。リンは僕たちを裏切り、パルドスムについたと。彼女は僕らをみんな殺すつもりでいたのだと。そしてそのとおり、パルドスムの日本事務局は燃え落ち、あげくレンゲまでいなくなってしまった。生き残ったのは、リンと相撃ちになったという御堂アキラと、そしてリン最期を看取った僕だけだった……。

 僕も死ねたらよかったのにと、考えないはずがなかった。


 弊社社屋は、相変わらず地下深くに秘せられている。月明かりすらも侵入できない、秘密の空間だ。

 そんななか、僕は待機を命じられた。御楯会長の執務室の前で、僕はベンチに腰掛け、うなだれていた。血と雨とに塗れた衣服をそのままに、髪から桃色の水を流して。

 ――待機。

 それは、すなわち放置ど同義だった。

 僕はベンチに座ったまま、呆然と音だけを聞いていた。扉の向こう、会長の執務室から声が聞こえてくる。耳を澄ませば、話の内容もなんとなくわかった。

「――ええ、ウチの楪が。……はい。御堂の報告によれば。……まだ戻ってきていません。烏瓜もです。おそらく死んだかと……はい、他の者を行かせます。……はい、そうですね。パルドスムに繋がる情報は、ひとまず切れたと言って良いでしょう」

 ――そうだ。すべては燃やされたのだ。

 リンも、レンゲも。そして僕らが追っていたモノも。なにもかも。

「……もう終わったんだ」

 僕は自然とそう口にしていた。そうすることで、今の状況を飲み込もうとしたのだと思う。

 だけどその直後、僕の脳裏に彼女の声が響いた。他でもない、楪リンの声が。


『ねえ、セイギ。約束して。……わたしがいなくなっても、キミは白晶菊を追うって……』


 囁くような声で、彼女が言った気がした。僕の後ろで、首のあたりに手を回しながら。

 僕はハッとして振り返ったけれど、もちろんそこにリンはいなかった。あったのは、コンクリート打ちっ放しの壁だけだ。

「……リンがいなくなっても、白晶菊を追う……」

 それが彼女の願いだとしたら。

 そう思った直後、僕はベンチから腰を上げていた。雨粒と流血とが足跡を残したが、僕は気にしなかった。

 僕は拳銃を片手に、弊社社屋の地下深くを目指した。かつてリンがいた場所。リンの痕跡が残る場所。死ぬ前に彼女が紹介してくれた、彼女自身のロッカールームへと……。

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