純文学とライトノベルの違い

湿原工房

純文学とライトノベルの違い

   1 純文学という言い方


 じつのところ私には、この2つの違いは分からない。純文学がなにか分からないためだ。芥川龍之介は好きな作家のひとりだが、純文学と思って読んだことがない。芥川が純文学という語を使用した記憶もない。もしかすると、芥川賞を創設した菊池寛あたりがこの語を用いはじめたのではないか、と思ったりもするが調べるのが億劫で追っていない。とにかく、純文学という語が登場したのは、ライトノベルより以前とはいえ、さほど古いという気がしていない。ちなみに、芥川が文学という語を使用した記憶もまたない。文芸と書いているのは幾つかの作品に見ることができる。小説や詩って、学なのかなという違和感がある私は、文学より文芸というほうがしっくりくる。小説や詩などは文章を専門とする芸事、芸能なんだから、一学問のような語を用いるより、歌舞伎やドラマの俳優、アイドル等の芸能人の仕事の仲間の方へ組み込んで文芸と称するほうが、実態に合っていると思う。もちろん、その各芸事には探求が伴うだろうが、発表されるのは探求自体ではなく、その結果実践された芸のほうなのだから、やはり芸が第一にあると思う。


   2 ライトノベルについて


 と、脇道に逸れてしまったが、要するに純文学という呼称自体あまり好きではないという話だ。対してライトノベルはなんだというと、こちらも定義はよくわからない。が、ライトノベル的だなと思うことはたしかにある。物語を語るために選択された表現形態が、たまたま文字だったというだけの小説を、ライトノベルと感じているような気がする。つまり文芸でなくてもよい、という感じがする。

 思うにこれは、純文学等の文芸がもつような文章自体(漢字やかなの使い分け、語の選択、文章の構成等々、文章に関する諸要素)への意識が少ないように見えるからだろう。どちらかといえば、映像的なイメージのほうをこそ意識しているように思う。

 またべつにはアニメ的という印象もある。これはキャラクターが記号的につくられているのに起因する印象だろう。

 ライトノベルの印象はこんな感じだが、なにぶん不勉強なため、印象しか書けない。


   3 ライトノベルと純文学


 純文学もライトノベルも、結局どこから来て何を意味しているのか、私には分からない。ひとつ、こんなことを思う。それもこの文章を書きながら思い浮かんだことに過ぎず、確信をもっているわけではないが。

 現代の状況を、大きな物語が失われた時代ということがある。かつてキリスト教がまともに信仰されていた時代なら、その物語(死を迎えた後、最後の審判の日に全人類は復活し審判を受ける)が大きな人生の意味として有効であった。それがいつからか形骸化し、ニーチェが神の死を宣言することになる。倫理道徳といったものが、神の死によりすでに無効になったはずなのに、誰もそれに縛られている(神の返り血を浴びている)と言ったのだ。大きな物語が失われたということは、物語によって割り振られた各々の価値もまた喪失されたことに他ならない。文芸の分野でも同様のことが起きたのではないか、と思うのだ。

 純文学というのはたぶん、なにか大きな目標が幻想(設定)されていたのではないか。小説や詩によって、文章を鍛えることでその目標(文芸の本質といってもいいのかもしれない)が目指されたのでは。

 しかし、現代のその大きな物語を失った感覚のなかでは、本質はなく、ただ要素の関係によって価値が創造される、要素の組み合わせによって価値は幾通りにも創造できる。価値は相対的なものだ。これがつまり、パターン化されたものの組み合わせで作られたアメーバのような物語=ライトノベルと言えるのかもしれない。

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