純文学とライトノベルの違い

夏荷おでん

純文学とライトノベルの違い

 純文学とは芸術性をより追い求めた文章体系であろう。純文学と大衆小説が区別されるようになったのは19世紀頃かららしい(ウィキペディア)。純文学について保坂和志先生が極論どこで切っても物語として成立するものと、自身の著書内で語っていたような気がする(うろ覚)。芸術としての側面を追及するとそうなるのかもしれない。しかし、純文学にも高いエンタメ性を有する作品は存在し、それらのラスト30ページを抜き取られても困る。

 ライトノベルとはそもそもジュブナイル小説の派生であったのだろうか。いわゆる青い鳥文庫のようなジュブナイル専門のレーベルが立ち上げられ、ライトノベルという一つのジャンルを確立していったのか。

 ライトノベルの定義とは何か。この議論自体はよく見かける。「挿絵」「レーベル」「可愛い女の子が出てくる」「文章は読みやすさ重視」といったパラメーターが複数存在して人はそれらを総合した結果、直観としてラノベか否かのグループ分けを行う。これは人工知能のパターン分けに似た作業であり、将来的には機械による定義づけが可能かもしれない。これは純文学についても同様だ。

 そんなかもしれないの話をしても仕方がないので、この文章では私の考えについて書こうと思う。正直純文学は広く読んでいるわけではないので男性向けライトノベルについてをメインに考えていきたい。

 これがラノベだという要素は、おおよそ他のエンターテインメント小説に当てはますのが現実だ。例えば、ヒロインが存在する、文章が読みやすい、突飛な設定が許される、といった風に。挿絵自体もいわゆるライトノベルのレーベル以外でもしばし見かける。例えばかわいい女の子が登場するという基準で考えたとき、私が真っ先に思い浮かべる作家は三島由紀夫である。出てくる少女がとにかくかわいい。『盗賊』の清子など最高に萌えるではないか。突飛な設定については言うまでもないだろう。カフカをはじめとする幻想文学より突飛な設定を作るラノベ作家がいるならぜひ紹介してほしい。(本当に読みたいです)

 では逆に、これがなければライトノベルでは無いという要素について考えてみる。すなわとこんなラノベは嫌だ、である

 ①可愛い女の子が出た来ない。たしかに嫌だ。そもそも可愛い女の子が出てこないでいいならば、ライトノベルでは無くほかの小説を読む。しかし、ヒロインがオマケ程度のライトノベルはしばし見かける。二、三年前の電〇大賞などが記憶に新しい。

 ②挿絵が全部男。これはいい線いってるんじゃないだろうか。

 ③改行がやたらと少ない。文豪か!

 ④物語に起伏がない。

 ⑤レーベルが岩波。ターゲティングがニッチ。

 ⑥すいません飽きました。

 筆が進まないからと言って、このように意味のない思考を垂れ流すのはいかがなものかと思う。ということで結論。

「挿絵があった場合で、描かれているのがすべて男性であったならそれはライトノベルではない。挿絵が無い場合は経験に基づくパターン分けで判断」

 すなわち、どのような思考でどのような読書人生を送って来たかによってライトノベルの定義は個人ごとで異なるということである。純文学も同様。


 このような駄文に最後までお付き合いいただいた方。心からの感謝申し上げます。

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