第5話~滅びた魔典と闇の番人~
狂えるアラブ人と呼ばれた男を知る人間は、その男と関わりを持つことを避ける。
誰でも永遠の命は欲しい。しかし今の自分の命は惜しい。
たとえ裏の世界で生きるならず者であっても、たとえおぞましい邪法を求める魔導師であっても、あれほど破滅的な男から何かを学ぼうとする者は少ない。その行く末は魔道による不滅の魂の獲得ではなく「滅び」のみだと知っているからだ。
狂えるアラブ人、アブドゥル・アルハザード。
甲虫のうなり声という意味を持つ魔道書「アル・アジフ」を書き記し、その後にダマスカスの大通りで血しぶきを上げて透明な何かに喰われた男。
彼が創り上げた稀代の魔典は善良な人々の魂を握り潰し、邪な欲望を持つ人間の原動力となり、11世紀に至ってあらゆる国や民族に災いを巻き起こす火種となった。
さらに原題アル・アジフはその名を「ネクロノミコン」と変えて、アラビアからヨーロッパに広まり、各地の神秘学者たちが翻訳に苦闘した。
その書に記された知識は禁断の果実である。
人が知り得てはいけないものであり、それはこの世界を混沌に陥れる元凶になる。
だからこそ、男はアル・アジフの原典を破壊する旅を続けてきた。
たとえどれほどの恐怖、絶望、苦痛が男の身にふりかかってきたとしても、男はその決意を揺るがすことなく、ついにエジプトの暗黒王朝が隠していたアル・アジフの原典を見つけ出したのだ。
その原典はもはや本の体をなしておらず、人を狂わし、悪鬼を生み出す理を貯蔵している別個の異空間だったが、見つけてしまえばやることはただひとつ。
あとは破壊して闇に葬るのみ。
素早く左の袖をめくって前腕をさらけ出す。腕には幾重にも刻まれた螺旋の紋様が広がり、その紋様は不気味に脈動している。
人間本来の血管よりも生々しく、そして激しく鼓動を刻んでいる螺旋の紋様は、男が会得している魔術の中でも最も危険なものだ。
しかし腕一本と引き替えにこの世からアル・アジフを滅することができるなら、と男は覚悟を決めている。
「ーーーふっ!」
息を吐いて腹に力を込め、かっと男の目が見開く。その柱にある穴、すなわちアル・アジフの門に目がけて左腕を突き刺す。
その柱は石製だが、門の先は冷たい砂山の中のような感触だった。熱のない微細な粒子が爪の間に、手の平に、腕にまとわりついていく。
禁断の知識を無限に孕んだ大砂漠。まさにその通りと言える圧倒的な質感が男の左腕に襲いかかる。
だんだんと砂の締めつけが強くなり、その砂の隙間から飛び出た鋭利な棘が男の筋肉を貫き、干からびた亡者の指のような何かが爪を立てて掴みかかってくる。
常人であれば数秒も保たずに腕を引き抜こうとするだろう。
だが男はその恐ろしい妨害をものともせず、さらに左腕を奥へ刺していく。
邪悪な眷属によって遮られているということは、このアル・アジフ自身も男の侵略を嫌がっているということになる。あとはどちらが先に滅ぶかどうかのせめぎ合いだ。
男が腕を伸ばせば伸ばすほど、紋様が施された部分がアル・アジフの中を突き進んでいく。実際に腕自体が伸展しているわけではないが、男が用意していた魔術がアル・アジフの根底に確実に向かっているということだろう。
どれほどの時間、そうしていたかは分からない。
ある時、男の指先に熱を帯びた物体が当たった。氷のように冷たい闇の砂丘を掘り続けた先には、指二本で挟みつぶせそうなほど小さな核があった。
それは生ぬるく、どろりとした粘性を表面に帯びている。それは水生生物の脳や心臓を連想させ、指の腹で圧せばわずかな弾力と脈動が感じられた。
これを潰せば、アル・アジフの根源は絶たれる。
もはや躊躇うことはなく、男はその核を掌中に収めて力を込めた。
アル・アジフの核は握り潰そうとする男の力に抵抗しているのか、男の視界は目まぐるしく明滅し、足もとの地面が浮き沈むような錯覚がぶつけられた。
それでも男は力を込め続ける。一瞬でも気を抜けばここまでの苦労が水の泡となる可能性が高いためだ。
まもなく完全に破壊できると確信した瞬間、男は胴体に激痛と熱を感じて、呼吸が止まった。
「かっ…ぶぐっ…!?」
自身の腹を見れば、不気味な褐色の触手が腹を貫いていた。うねる触手は男の血にまみれ、貫かれた場所からは止めどなく血潮が零れていく。
後ろから刺されたことに気づいた時、すでに男の体は自由に動かなかった。
自分を刺した何者かの姿を見ようとしても、身体中に走る激痛により、上半身はおろか首すらもまともに振り向けない。
だが、確かなこともある。触手で刺した者は人間ではなく、アル・アジフの破壊を阻止するべく現れた闇の眷属に違いない。
それはこの陵墓を守る悪鬼の衛兵なのか、それとも邪教の神官が飼っていた物言わぬ怪物なのか、今となっては判断できない。
「が、か……ふっ、ふっ、ふ、ゔぅ……」
男が言葉を発しようとしても、口から出てくるのは暗赤色の血の泡と、肺から絞り出した苦悶の吐息のみだ。もはや逃げる力すら残っていない。
「ぐ、ぐっ……がぁぁっ!!」
深手を負った男に残された道はひとつ、アル・アジフの破壊を完了することだけだった。
最後の力と呼吸を振り絞り、左手の先から逃げようとしたアル・アジフの心臓を再び捉えて握り潰した。
薄れる意識の中で男は達成感に包まれた。
誰が賞賛するわけでもなく、他人に課せられた義務でもない。ましてや自分から好き好んでここに赴いたわけでもない。
しかしこれで終わったのだ。良くも悪くも自分の役目を果たして、ここで息絶えていくのが定めというものだ。
男の鼓動が止まった後、男を背後から刺し殺した『何か』が遺体を見下ろしていた。
人の形を借りたそれは、死の瀬戸際でアル・アジフを破壊した男に憎悪を抱いている。男はすでに殺したため、取るに足らない存在となったが、自らが思い描いていた予定を崩されてしまったのも事実だ。
それは人間を超越した存在であるため、やろうと思えば男の魂を捕まえて痛めつけ、永劫に天へ召されぬように地の底に封じ込めることもできる。
だがそれも無意味な腹いせにしかならない。最大の問題は、破壊されたアル・アジフをどうするのかという一点に尽きる。
「………」
しばらく考えてからそれは行動に移した。
ひとまず男の遺体はこの部屋から処理する。この部屋はそれにとって魔典アル・アジフを保管していた神聖な場所であり、いつまでも死んだ人間の血肉で汚しておくわけにはいかない。
遺体は超常の魔術により部屋から消え去り、神殿大広間に流れていた水路へ投げ捨てられた。
冷たくなり始めていた男の遺体は、さらに冷たい地下水の中に沈んで流されていく。流れの中に留まることなく、遺体はなすすべなく陵墓の深淵まで漂流していく。
遺体を流し終えたそれは部屋をあとにした。
もはやこの神殿に用はない。いや、利用価値がなくなったと言った方が正しいだろう。この陵墓に隠されていたアル・アジフの原典が破壊された今、それがこの陵墓を守護して管理する意味はないのだ。
そして神殿には誰もいなくなった。太古の邪神を崇拝していた古代エジプトの闇、その暗黒時代最大の遺跡は、やがて本当の歴史の闇に消えていくのだろう。
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