第4話~究極の魔典~

 魔境をめぐり続けざるをえなかった男の目的、その元凶がそこに眠っていると男は確信して前進する。


 ただ一歩、旅人の男が通路に踏み入った瞬間に異変は起こった。


 あれほど激しい水流を轟かせていた滝の音が消えたのだ。それだけではない。夢幻の中に入り込んだかのように、一切の物音が響かなくなった。


 男が後ろを振り向くと入り口は塞がれていた。


 音もなく無機質で分厚い石壁が現れていて、どれだけ叩いて仕掛けを調べても、その壁は昔から存在していたかのように立ちふさがっている。


 奇怪な力で帰り道を奪われた男だったが、それに恐怖を覚えて取り乱すことはなかった。


 むしろこの程度であれば想定の内、本来であれば、信徒でもない人間がここまで侵入しただけでも奇跡に近い。


 たとえ滅びた異教の神殿といえども、たとえ打ち捨てられた狂信者の根城といえども、そこには絶対的な悪意が幾年経ても棲みついている。どれほど使用人が去っても、主の威光は座し続けるのだ。


 それを覚悟して男はここまでたどり着いた。いまさら退路を塞がれた程度では恐れず、この神殿の奥に眠る邪宝に迫ってやるという決意がさらに固まった。


 発見した通路は当初は無機質な一本道だったが、進んでいけば両側の壁には墨で塗られた黒い半獣人の石像が羅列していた。


 その獣人の石像は先ほどの大広間で見た邪神像たちとはおもむきが違う。


 大広間にある壁画や石像は明らかに異端の神を表しているが、黒い獣人の石像は古代エジプト文明でも知れ渡っていた神々に似通っている。


 今でこそエジプトはイスラームの王朝に征服されているが、古代エジプトの土着神話はひっそりと語り継がれている。


 そして、男は旅の過程で古きエジプトの神々を知っていた。


 古代エジプトの神は様々な形をとり、年代や地域が変われば、神の立場も特徴も変わる柔軟さを持っている。


 隼の頭をもった太陽神、ジャッカルの頭をした死者の神、雌獅子の頭の女神など、動物と物質と自然現象が神に結び付けられている。


 男が黒い獣人の石像を見て、真っ先に思い浮かんだのは「セト」と呼ばれる神だった。セトは太陽神などを守護する神でありながら、兄のオシリスを殺害した悪神として伝えられることもある。


 時代によって善神にも悪神にもなり、まさに多面性の先駆けを象徴する神だ。


 エジプト神話と異教の邪神崇拝が結びつくとは思えないが、この石像を見る限りでは、なんらかの関わりがあるのかもしれない。


 通路の奥を進めば進むほど、空気はねばつき、男に対する圧迫感が増す。怪物の消化器官の中を進むような感覚を覚えつつ、ついに男はひとつの部屋に辿り着いた。


 しかし、それは踏み入れた瞬間に部屋の姿を変え、異様な世界に変化した。


 あれほどしつこかった侵入者を拒む気配が、信徒ではない者に対する憎悪めいた空気感が、なぜか完全にかき消えている。先ほどのような音だけが遮断された時とは違い、次元そのものが別の場所になったような感覚だった。


 足下を見れば銀河の星々が流れ、見上げれば暗黒の空間に嵐が吹き荒れる。


 次々と景色が移り変わる様は夢幻の如く。


 まぶたが瞬きするたびに、男を取り巻く世界は水底にも、漂空にも、樹海にも早変わりする。


 自分は立っているのか、座っているのか、沈んでいるのか、浮き上がっているのか、飛んでいるのか、それすらも曖昧な世界に男は放り投げられた。


「……ッ!!」


 今までとは比べ物にならない規模の幻妖のひとときは、男の強靱な精神すら薄氷のように砕く。


 しかし旅人の男には奥の手があった。前後不覚の闇に投げ出されている最中に、奥歯に仕込んでいた劇薬を噛み潰して意識を覚醒させた。


 気つけ用として用意していた劇薬の効果は凄まじく、胃液は逆流し、歯茎も舌も痛烈な痺れに襲われるが、頭を振ってまぶたを開けると、そこは1本の石柱があるだけの小部屋に戻っていた。


 再び辺りを見渡しても景色が変わることはなかった。


 男の持つランタンの火が小さな部屋の壁を照らし、背後の壁には男自身の影が伸びる。


 部屋の中心には柱が立つ。その柱の丈は短く、男の胸元辺りまでしかない。柱に装飾はなく、無造作に設えたものだと分かる。


 先ほどの神殿にあったような邪神像や壁画などとは違い、信徒や神官による手が入っていない。


 男は柱に近づいた。


 柱の上面は斜めから切り落とされたようになっていて、その面には親指の太さほどの穴が空いていた。


 慎重に罠がないか確認してから、男はその微細な穴の中を覗き込んだ。


 覗き込んだ先は「あの世界」だった。


 この部屋に入った時に体験した、あの異常な光景の世界だ。小さな穴の中にあったのは細い管などではなく、人智も及ばぬ秘境が封じ込められていた。


 しかしその世界は、再び男の感覚に襲いかかって幻惑させるつもりはないようだ。


 男が顔を上げて穴から目を逸らせば、特に異常なく辺りは小部屋のままになっている。


 穴を覗き込めば不可思議な世界が刻々と時を刻んで存在しているが、そこから視線を外せば、また現実の時間も個別に時を経ているのだ。


 そこで男は、現在の自分が存在する場所は2つの世界の狭間だと理解する。2つの大河のちょうど間にある中洲に取り残されたような感覚だ。


 そしてこの柱の穴の中にある異界は、別の意味を持つものだと男は確信した。


 この異界こそ、邪悪な知識をため込む大海原。男が長年かけて追い求めてきた究極の邪宝ーーー魔典アル・アジフに違いない、と。

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