御曹司の叫び



 そこにあったのはジゼルにとっては見慣れたものだった。

 捲れたドレスの袖から覗く、肌の白い部分と決定的に別つびっしりと這う黒。

 きっと模様だけなら、布にでも刺繍してあれば一見すれば精緻すぎるという印象を受け、けれどすぐに何と禍々しいとの印象を植えつける模様だ。


 その模様を親指でなぞられて、止めていた呼吸を取り戻したジゼルは止めていた動きも取り戻す。


「クラウス、止めて……!」


 悲痛な叫びとともに渾身の力で引いたことにより腕を取り戻すことができ、引いた勢いが残ったことと無意識が働いてジゼルは後退りクラウスから離れた。

 まるでそこそこの運動をした後みたいに肩で小さく息をして整える。

 元の通りに下ろした袖を押さえる手が、小刻みに震えている。


 デレックにだって、現在のノークレス家の者たちにも見せたことはなく、もう随分と隠してきた。

 そのために、ドレスは全てを覆えるデザインのもので着替えも一人でしてきたのだ。

 見られたら気味悪がられると確信していたから。かつてそうなったときの視線が忘れられない。


 紛れもなく、ジゼルが神に呪われている証。


「……」


 静寂が怖くて、うつむいたままジゼルは石のようになった重い足をどうにか動かす。

 クラウスの顔が見られない、反応が怖くて仕方がない。ここから離れなくては。

 思いに連動して、後ろに下げた踵がカツンと響く。


「それが、呪いの証か」


 耳鳴りに似た状態になって、他の音が失せた。




「……どう、して」


 何度目の驚きか、ジゼルは驚愕に目を染めて思わずクラウスを見上げた。

 どうして、この模様があると知っていたかのような口振りなのだ。

 糸に吊られるように見たので、自分から見上げた形にも関わらず、一瞬びくりと肩が震えるも、クラウスは恐れていた表情をしていなかった。

 それどころか、いつもと変わらない表情になっていてジゼルの中は混乱する。


「呪いを解こう」

「……え?」


 混乱の中で言われた内容がどうにか分かって笑いそうになった、何を言っているのだと。


「何を言っているの」


 そんな反応になったのは、そんなことを言うのがクラウスが初めてではなかったからだ。

 そして為されることはなかった。天上から堕ちたとはいえ神、その力に対抗する術などなかったのだ。

 口走ればいいというものではない。ジゼルは怒りたいのか笑いたいのか、泣きたいのか逃げ出したいのか、もう分からない。


 大真面目な顔で何を言い出しているのか、クラウスは。

 だから、より唐突だった。


「ジゼルを呪う封じられている神を殺せばいい」

「……な、にを言って」


 神を殺す。

 神々に祈りを捧げる国、堕ちたとはいえ「神」を殺す。衝撃的どころではない言で、ジゼルは理解が遅れる。

 それなのに、当のクラウスは表情を変えずに言葉を重ねていく。


「ジゼルを生け贄に差し出し反対する輩を殺せばいい」


 ――甦る声がある。

 ジゼルが神を封じきれずに魔物が出ることに責める声、それは歳月経つごとに強くなっていく。

 彼らも焦っている節があり、だからといって『とある理由で人材を補強することができない』。自分達のいる間はとひたすらに責めてくる。

 もしも死んでもどうせまた生き返るのだろう、という心ない言葉を聞いたことがある。

 過ぎたそれを偶然聞いてしまったジゼルに怒りはなく、この上ない落胆があった。

 これが国を動かす者たちの声で、実際国は守られるから正論とされるのだ。


「そして、ジゼルの呪いを解けばいい」


 ――呪い。

 忌々しいと呪いを現す模様這う肌を切り裂いたときがある。

 この呪いのせいで私は死んではまたこの世に戻される。いっそ記憶がなければいいのに、ご丁寧にすべてが同じ。


「俺は、おまえの呪いを解けるなら誰であろうと殺せる」


 ――かつて同じことを言った人がいた。呪いを解こう、それが駄目なら逃げようと。

 まだジゼルが悲しみに暮れていたときのこと、昔のことでもうその人はこの世にいない。

 その人の瞳は忘れた。そのとき抱いた気持ちも忘れた。

 淡い、あれが恋だったといっても気持ちは形ないもの、もはやそうだったかと確かめる術はない。そっと触れるどころか荒々しくそれは掻き消されたのだ。



 今、目の前では蒼い瞳が過激な焔を灯していた。



「誰であろうと犠牲にできる」

「クラウス……!」


 なんということを言うのか、積み重ねられる言葉に耐えきれなくなり、ジゼルは制する。


「そうだジゼルはそんな顔をする。知ってる分かってる、でも」


 どんな顔をしているのだろう。

 知るのが嫌で、ジゼルは自分を曇りなく映してしまいそうな目から目を逸らす。

 きっと醜い顔をしている。


「じゃあジゼルは!」


 そうだというのに、肩を掴まれ、顔を覗き込まれる。


「ジゼルは、生き続けるのか? 死んで、だが生き返って自分を呪う神の前で生きて。巡り続けて、周りの人間を見送り続けて苦しんで」


 自分の心の中では思っていたことだった。頭の中で考えていたこと。けれど他人が口にすることはなかったことだ。



 そう、ジゼルは苦しい。苦しくて苦しくてそれに慣れた。

 あとどれくらい生きて死ねばいいのだろう。見送ればいいのだろう。

 それなら人と関わらなければいいのだろうが、けれどジゼルが再び絶望せずに閉じ籠らずに鬱々と生きずに済んでいるのはその時々で誰かと関わっているからだ。

 そしてその分、いずれ悲しみが襲ってくる。



 心の奥を突き、掘り出す言葉が声が目にジゼルは崩れていくような錯覚を抱く。

 自分の顔が歪んだことがわかった。

 止めてほしい。

 これ以上は。

 駄目だ。


 ジゼルの思考はもうぐちゃぐちゃだ。まともにものを考えられない。

 クラウスは何を言っている。


「だから、俺は何としてでも神を殺す」

「殺すって、そんなの、どうやって」

「できる」

「そんな」

「俺がやる」

「そんなことしなくても、……今のまま、封印しておけば魔物は数が少なくて済む。下手なことをすればこの世界は昔に逆戻り――」

「だからそれはジゼルが我慢すればだろ!」


 ――魔物に喰われてしまえばいい

 責められる度そう思う自分がいることを知っている。未だになぜ自分が我慢しなければならないと思うことがある。


「いつまで我慢する、ずっとか? それともいつか堕ちた神が心変わりすればか? もっともその神と言えるか分からない代物に心があればだがな」

「……やめて」

「ずっとがどこまで続くのか、途方もないのは俺が知っているんじゃない、一番知っているのはジゼルだろう!」


 言葉が胸に突き刺さる。それなのに手が動かなくて耳が塞げない、このままでは――

 トンと背中に何かが当たり気がつくと壁際にいた。いつの間に壁際に追い詰められていたのか全く覚えていない。



 ――ずっと。永遠。

 途方もないことだけは百年以上の歳月を過ごして分かる、途方もない。

 この国が魔物に襲われることになってもいいから、封じのために祈ることを止めてしまおうかと考えたことがある。

 自分が頑張っても、最後にもきっと安らかに『眠る』未来は見えず、ジゼルの魂に安寧は来ない。永遠に。

 ジゼルは堕ちた神の力に引っ張られる瀬戸際にありながらそれでもなお、どうして祈らなければならない。


 その度に、その時々に自分が歩まなければならない運命に鬱々としなくて済む要因の人たちがいるから。

 生家であるノークレスの者たち、デレック、そしてクラウスも喰われてしまえばいいとは絶対に思えない、守りたい人がどの人生にだって存在するから、自己嫌悪する。


 自分が我慢すればいい、言われている通りじゃないか。そうやってその『事実』で心を埋めていた。


「ジゼルだけが戦う必要なんてない」


 ――かつてジゼルは神々の力を身に宿すことができずたくさんの人が目の前で死んでいく中、神を身に宿した。

 何十人目、下手をすれば何百人目だったジゼルは『奇跡的』にも神を身に宿した。

 そして地上を血に染め続ける堕ちた神に一人で立ち向かうことを余儀なくされ、今も一人で祈り続けている。


「なあジゼル、逃げたいって言えよ」

「やめて」

「俺が堕ちた神を殺す。だから」

「もう止めてクラウス……!」

「逃げたいって言えよ!」


 すぐ横の壁に焦れた拳が叩きつけられる。


【君が我慢すれば人が救われる。君は我慢しなければならないいや、それが使命だ。君が封じを完全にできておらず祈りが足りないから魔物に襲われる】

 周りに言われ続けたことでできた壁。




「頼むから、諦めるな……!」




 きっかけはここだったのだろう、もはや心を抉るまでとなった言葉が積み重なってきた結果なのだろう。

 暗示が解けたようだった。


【誰かと一緒に生きたくて仕方がない】


 暴かれてしまった望みはこうしてみると一番望んでいたこと。誰かと共に歳を重ね、生きていく。

 ずっと巡り、そのあとどうなるのか不確かなジゼルには、遥か遠くにある届かない望み。


【誰かと一緒に時間を生きたい】


 前触れもなく生まれた涙が、一筋ジゼルの頬を滑った。

 クラウスが目を見開き、肩にかかっていた力が弱まった。


「……私は、逃げない」


 手を固く強く握りしめ、ジゼルは噛み締めるように言葉を作り震える息を吸う。


「これは私の役目なのよ!」


 声を叩きつけ、ジゼルはクラウスの腕から身を振りほどきそのまま走り出した。


「ジゼル!」


 後ろから呼ぶ声が聞こえて足の動きがわずかに鈍ったけれど、今立ち止まるとどうなるか分からない。どうしてしまうか分からない。

 ジゼルは振り向かなかったし、立ち止まらなかった。唇を噛みしめて、模様が疼く腕を抱えずっと走り続けた。






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