雑巾とシャベルと告白

めめ

雑巾とシャベルと告白

 あら、お目覚めでしたの? でしたら、声を掛けてくださればお部屋まで伺いましたのに。お着替えのお手伝いは……そうですね、なるべく構わないよう言いつけられてしまいましたから、わたくしも不干渉を心掛けないといけませんわ。

 ……ええ、分かっております。窓の外が薄明るくなりましたら、すぐにここを出ていくつもりでございます。どうやって街へ下りるのか、ですって? やだ、どの口がおっしゃっているのです? わたくし、こう見えても脚に自信がありますのよ? ご夕食の材料を買いに行くように往復することはありませんもの。片道ならなんとか歩けると思いますの。

 今まで、長かったような短かったような、不思議な感覚でございます。いったい、外ではどれくらいの時間が流れたのでしょうか。

 そうですね、わたくしに残された時間は僅かでございます。ここを出るまで少々お時間がありますので、お話に付き合っていただいてもよろしいでしょうか? 散々お聞かせしましたが、いくら話しても物足りないのです。朝のお気分を害するようなお話かもしれませんが、聞き慣れていらっしゃるようですから、構いませんこと?

 ありがとうございます。立ち話になってしまいますが、そこはお互い様というものですわね。


 わたくし、幼いころから暗い子どもでしたの。日陰でしか生きていけないような、でも休み時間教室にいると妖怪か何かみたいだと裏で言われるような、そんな存在でしたわ。ですので、給食の後の長いお昼休みは校舎の裏にある飼育小屋のそばで膝を抱えて過ごしておりました。そこには校庭の砂場に入りきらない砂でできた小高い山がありまして、腕がどこまで入るのかという遊びばかりしておりました。

 そこに通ううち、ふと飼育小屋の中に何がいるのだろうと気になりましたの。網のように目の細かい檻の中には、いつ死んでもおかしくない衰えた兎が一羽だけ入れられておりました。土を掘って地下から脱走を試みたり、初めて餌をやりに来た一年生に噛み付いて驚かせたりするような活力は欠片も感じられない、雑巾のような兎でした。飼育委員の六年生に見放されたのかもう何日も餌を与えられていなかったらしく、餌入れも水を入れるお皿も空になっておりました。

 わたくしが檻に近寄ると、それは鼻を小刻みに動かしながら重そうに頭を持ち上げました。耳を立ててこちらを向いたその顔には、いままで図鑑で見てきた兎たちと違い赤い半透明の目がついておりませんでした。代わりに、白く濁ったビー玉のようなものが二つついておりました。これには檻の外が見えていないのだなと、そのとき三年生だったわたくしにも分かりました。

 檻の鍵は開いており、閂を横へずらせば誰でも入れる状態でした。ひどく錆びついた閂は、むしろ錆をかき集めて作られたように見えるほど気味の悪い色をしておりましたわ。扉の方にスライド式のピンがネジで固定され、壁にある枠にそれを差し込む穴が取り付けられたどこにでもある閂は、なぜかわたくしにとって異世界へ続く扉の鍵のように感じられましたの。取っ手を掴んで横へ動かそうとしてもすぐには言うことを聞いてくれず、まるでわたくしが中へ入るのを拒んでいるようでした。捻じりながら錆を落としてどうにかピンを抜いたわたくしは、ゆっくりと扉を開きました。

 檻の中には色の抜けた土が敷かれており、そこら中に兎の糞が転がっておりました。糞だなんて滅多に口にするものではございませんが、なんとか言えるようになりましたの。小屋の三面は網目状の風通しが良さそうな作りになっているのに風はなく、鼻を突く臭いと湿ってどんよりとした空気が満ちているだけでした。あの臭いは、いまでもわたくしの鼻の奥に残っております。

 わたくしは雑巾の前にしゃがみ、その姿をじっと観察しました。体を覆う毛は糞や尿で汚れており、中途半端に乾いているため雨の日の雲のような色をしておりました。髭の長さは不揃いで左頬の一本だけが異常に長く、耳ほどの長さもありました。垂れ下がった耳は内側も外側もほとんど毛が生えておらず、右耳の先だけなぜか二股に分かれておりましたの。死んでしまった他の兎に噛みちぎられたのか、それとも子どもたちのうちの誰かが悪戯で傷つけたのか、わたくしには分かりませんでした。

 不思議なことに、可哀想という思いはありませんでした。もっと虐めてやろうとも思いませんでした。ただ、この世にはこんなに醜いものが存在するのだと、小学三年生らしからぬことを考えておりました。きっと、その頃から既にわたくしは壊れていたのでしょうね。

 お恥ずかしいことに、当時わたくしは兎が何を食べるのか存じ上げておりませんでした。草を食べるのか、それとも犬猫のように肉を食べるのか。とりあえず何か食べさせてやろうと、檻の外に生えていた雑草を抜いて雑巾の顔をつつきました。少し鼻を動かした後すぐにそっぽを向いてしまったので、兎は草を食べないのだと学習しましたの。肉を与えようにも昼休みに学校を出るのは禁止されておりましたから肉屋へ行くことはできませんし、そもそも肉を買えるような小遣いを持たされておりませんでした。ですので、側溝の蓋を持ち上げて裏に張り付いたタニシを何匹か捕まえ、近くに落ちていた石で殻を割り雑巾の前に並べました。こちらも食べられることはなく、放っておくのはいけないと思い上から土を被せて埋めました。

 このとき、わたくし希望の光が見えた気がしましたの。今までただただ時間が流れてゆくのを待つだけの憂鬱だったお昼休みが、雑巾の餌を探す時間に変わろうとしていたのですから。ただ、そのためには好みの餌が見つかるまで雑巾が生きていられるようにするための別の餌が必要でした。餌を見つけてやる前に餓死してしまっては元も子もありませんし、何より自分が手に入れたばかりの遊びをすぐに失くしてしまうのを避けたかったものですから。……そうなのです。わたくしにとって、雑巾の生死が揺らぐのは遊びでしかなかったのです。狂っているでしょう?

 お昼休みが残り五分だと告げる予鈴が鳴り、水入れのお皿を満たしてわたくしは檻をあとにしました。去り際、のっそりと起きだして水を飲む姿が見えましたわ。午後の授業が終わると雑巾のことが気になりましたが、下駄箱から外履きをとったわたくしの足は門へ向かい、そのまま家へ帰ってしまいました。楽しみはとっておこう、くらいの感覚でしたわ。

 家に帰っても特に時間を潰せるような物はなく、ただじっと親の帰りを待っておりました。腹の虫が鳴き始めても間食は用意されておらず、畳の上で膝を抱えるしかありませんでした。テレビはまだ珍しい代物でしたし、何よりうちは貧しかったものですから、人形も漫画も買うことができませんでした。当時わたくしは母と二人で暮らしておりまして、母は朝から夜遅くまで稼ぎに出ていたのですれ違いのような生活を送っておりました。本当に退屈な時間で、部屋の隅の虚空を見つめるしかなかったのです。住んでいたのは六畳の小さな部屋でございましたが、畳の目を数えるのは二年生の夏休みで既に終えてしまったものですから。遊べる友人もおらず、今までは自分のことをただ哀れだと思っておりました。ですが、この日は違ったのです。

 まるで檻の中の雑巾みたいだと思いましたの。わたくし、ここで初めてあの兎のことを哀れに思っていたのだと気がつきましたわ。同時に、自分があの雑巾のように醜いのだとも。


 次の日のお昼休み、わたくしは再び檻の中におりました。給食のミカンをこっそり半分と、登校中に見つけた、車に轢き潰されて乾いた蛙を手に。蛙はそのままポケットに入れていたものですから、後ろの脚が変な方向に曲がっておりましたわ。気色の悪いそれを先に雑巾の前に置きました。わたくしだって女でございますから、血も出なくなった蛙を掌にのせ続けるのは少々気が引けましたの。雑巾はだるそうに頭を動かして様子を窺っておりましたが、それが口の中へ消えることはございませんでした。

 次にミカンを置きました。残念ながら、こちらもちっとも形を変えませんでしたから、皮がついたままなのが気に食わなかったのかと思い果肉の部分だけを口に近づけました。しかし、ミカンも兎の餌ではなかったようです。

 また明日別のものを持ってきてやると呟きながら、わたくしはお皿の水を入れ替えるため檻を出ました。そのときです。ふと、誰かと目が合ったような気がしましたの。

 校舎の裏には飼育小屋とゴミ捨て場がありましたが、人の足の多いゴミ捨て場は塀で隔てられておりましたから、普段ここへ誰かが来ることはありません。来るとすれば、じゃんけんに負けて餌やりをさせられる六年生かわたくしみたいな変わり者だけなのです。校舎の陰、建物の陰からこちらを窺っていた彼女は、きっと後者だと思いました。

「なにしてたの?」

 教室で見覚えのある顔でした。たしか、ヤヨイというお名前の女の子です。いつも黒板か机の傷にしか目を向けていなかったわたくしですから、彼女がどのような子かは存じ上げておりませんでした。下校中、お友達と楽しそうにされているのを何度か見かけただけでした。

「うさぎの餌やり」

とわたくしが申しますと、

「シロ、何も食べてなかったよ。それに飼育委員でもないのに、なんで?」

 ヤヨイ様がおっしゃる「シロ」が何を指しているのか理解できず彼女の視線を追って振り返りますと、檻の中で項垂れている雑巾が目に入りました。わたくしが餌をやろうとしていたのは他にいませんから、ヤヨイ様はあの兎をシロとお呼びになられているのだと分かりました。

 わたくしが黙っておりますと、ヤヨイ様はしびれを切らしたようにお話になられたのです。

「私、ぜんそく持ちなの。だから、シロのことが気になっていても近づけない。動物の毛を吸ったら発作が起きちゃうから。でも、ずっと餌をもらっていなくて可哀想じゃない」

 少し呆れられたようなお顔をされました。きっと、それはわたくしではなくヤヨイ様自身に向けられたものだったのです。人と話すのに慣れておりませんでしたが、わたくし、頑張ってヤヨイ様に申しました。兎が何を食べるのか教えてくれたら、自分が代わりに餌をやると。するとヤヨイ様は、

「そんなの無理よ。だって、私も兎が何を食べるのか知らないもの」

とおっしゃられました。どんなに兎に憧れていてもそれはぜんそくによって隔てられたもの、手が届かないものだと切り捨てていらっしゃったのでしょう。ヤヨイ様も、兎について博識ではありませんでした。

 ここで、お昼休みが残り五分であることを知らせる予鈴が鳴りました。とりあえず教室に戻りましょうとヤヨイ様が踵を返されたので、わたくしも続きました。檻の中にいたのが同じクラスの子だということをヤヨイ様はご存じだったようで、それがわたくしは嬉しかったのです。

 放課後、誰もいない教室でくすんだ赤色のランドセルを背負おうとしたところで、ヤヨイ様が声をかけてくださいました。

「ねえ、明日もシロのところに来てくれる?」

 突然のことでしたから、わたくし上手く声が出せませんでしたの。なので、精いっぱいの笑みを浮かべて頷きました。もう随分と笑うことのない生活が続いておりまして、もしかしたらわたくしの顔は笑顔からかけ離れたものに仕上がっていたかもしれません。思い出すだけで恥ずかしくなってしまいますわ。

 わたくしの答えに満足なさったのか、ヤヨイ様は教室を出て行かれました。しばらくして、お友達と楽しそうに下校されるヤヨイ様が窓の外に見えました。


 翌日、登校中からわたくしの胸は高鳴っておりました。もしかすると午前中の短い休み時間にもヤヨイ様が声をかけてくださるのではと、期待していたのです。授業中、はじめて黒板以外へ目を向けました。もちろんヤヨイ様を見るためです。わたくしの席は窓際の列の最後尾でしたから、入り口の方に座るヤヨイ様のお顔をたやすく眺めることができました。

 昨日は気が動転して上手く目を合わせることができなかったのですが、改めて見ますとヤヨイ様はとてもかわいらしい容姿をしておりました。襟元で切りそろえるありふれた髪型でしたのに、その艶から周囲の子とは違う質の良い髪なのだとすぐに分かりました。頬はほのかな桜色で、わたくしとは対称的な良い暮らしをしていることが窺えました。率直に申し上げますと、ヤヨイ様には小学三年生らしからぬ色気があったのでございます。そのときから、わたくしはヤヨイ様の虜になってしまったのです。その魅力にどうして今まで気がつかなかったのだろうと、自分を責めてしまうほどでした。結局ヤヨイ様が声をかけてくださることはありませんでしたが、わたくしは幸せでした。ヤヨイ様を好きなだけ眺めていられたのですから。

 お昼休み、わたくしはすぐに飼育小屋のある校舎裏へ向かいました。ヤヨイ様と二人きりになれると思うと、はやる心を抑えられなくなったのです。雑巾の前にしゃがんで待っておりましたが、まだ幼かったわたくしはあまり我慢がきかず、すぐに檻から出てしまいました。

 お皿の水を入れ替えました。

 檻の隣の砂でできた山を削りました。

 側溝の蓋を開けてのっそりと動くタニシを眺めました。

 それでもヤヨイ様は現れず、そのまま予鈴が鳴ってしまいました。


 教室に戻りますと、お友達と楽しそうにおしゃべりをなさるヤヨイ様が目に入りました。わたくし、膝から崩れそうでしたの。だって、わたくしとお昼休みに会うという口約束のせいでお気分を害してしまったのではと思いましたから。下駄箱に外履きを入れて階段を上る途中、もし体調でも悪くされていたらどうしようと気にしておりました。いつも通りのヤヨイ様を目にして、肩を撫でおろしました。やだわ、わたくしったら。まだ出会って二日目だというのに、自分がヤヨイ様のいちばんのお近づきだと思い込んでおりましたの。

 その、午後の授業でのことです。先生が、ふと兎のお話をされたのです。特に面白みのある話ではなかったのですが、わたくしは熱心に耳を傾けておりました。すると、先生がおっしゃったのです。兎は草を食べるのだと。

 わたくしの身体は自然と動いておりました。右手を挙げ、その場に立ち、申しました。

「兎は、草を食べません」

 だって、おかしいじゃないですこと? 雑巾は、昨日わたくしが抜いた雑草に興味を示さなかったのですから。先生や他の子が知らなくても、それをヤヨイ様もご覧になられていましたのでわたくしには自信がありました。ですが、教室中から向けられた目は冷ややかなものでした。滅多に口を開かないわたくしが突然発言したことに対する驚きが含まれていたことは間違いありませんが、それ以上に、何か怪異を見るような目でした。わたくし、人の目を見るのが大の苦手でしたので、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまいました。何を言っているんだ、そもそもこんなやつが教室にいたのかという視線を向けられ、わたくしはすぐにでも左手の窓から飛び降りてしまいたくなったのです。熱を帯びた頬を隠すこともできず、その場に立ち尽くすしかありませんでした。

 皆が私に目を向ける中、初めに口を開いたのは意外なことにヤヨイ様でした。

「ばかね、兎は草食動物なのよ? そんなことも知らないの? 恥ずかしい」

 わたくし、泣き出してしまいそうでした。だって、こんな醜いわたくしのために、ヤヨイ様がお話しになられたのですから。静まり返った教室に、ヤヨイ様の声が澄み渡る風のように響きました。できることならもう一度、いえ、何度でも耳にしたいと思いました。ですのに、どのような教育を施されていたのか、あろうことに他の子たちまで声を上げ始めたのです。そのどれもがわたくしを罵倒する内容のものでしたが、それを気にしている場合ではございません。わたくしの耳に残っていたヤヨイ様の声がかき消されてしまったのです。咄嗟に耳を覆いました。そんなわたくしを哀れにお思いになったのでしょう、先生がどうにかその場をおさめてくださいましたが、もうどうしようもありませんでしたわ。

 頭を庇うように机に伏せていたわたくしに、なにかどす黒い感情が生まれ始めました。教室の子どもたちを恨むような気持ちが含まれていたのは事実なのですが、それだけではなかったのです。わたくしの頭は、あの檻の中にいるくたびれた雑巾のことであふれておりました。

 悪いのはヤヨイ様ではないのか、ですって? やだ、そんなことありえませんわ。ヤヨイ様ともあろうお方が、どうしてそのようなことを? わたくしを貶めたところで、ヤヨイ様がどのような得をなさるのです? 根拠もなしにヤヨイ様を疑うだなんてひどい、ひどい、ひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどいひどい…………失礼、わたくしったら取り乱してしまうところでしたわ。

 放課後、わたくしは飼育小屋へ向かいました。鏡などございませんでしたから定かではありませんが、きっと鋼の仮面のような冷たい表情をしていたと思います。これといって怒りのような感情も、焦りのような感情も持ち合わせてはおりませんでした。冷静にピンを抜いて扉を開き、雑巾の前に立ちました。


 五分後、わたくしはシャベルを持って檻の中に立っておりました。その間にどのようなことをしたのかはっきり記憶にはございませんが、たしか雑巾を蹴り、耳を掴んで投げ、何度も踵で踏みつけましたの。あと頭を右手、胴を左手で握り四周ほど捻りました。それで雑巾がびくともしなくなったので、土に埋めたのです。

 雑巾さえいなければわたくしが教室であのような発言をすることもなく、まあヤヨイ様のお声を耳にできたのは素晴らしいことでございますが、それがかき消されることもなかったのです。そう、悪いのはすべて雑巾だったのです。他にありまして? いえ、あるはずがございませんわ。

 シャベルは檻の外に立てかけてありましたから、ありがたく使わせていただきました。埋める際、雑巾の口の中がちらりと見えましたの。白い歯が一本もなかったので、だから食べ物に興味を示さなかったのだなと思いました。

 あとは誰にも見つからないようこの場を去るだけでございます。しかし、やはりわたくしはできの悪い子どもだったのでしょう。校舎の方に、わたくしの方を覗くかわいらしいお顔を見つけてしまいましたの。

「なにしてたの?」

 それは昨日より少し低く、けれど力の込められたお声でした。そこには、ヤヨイ様がいらしたのです。わたくしが何も答えられなかったので、ヤヨイ様はわたくしの手を引いて檻の方へ歩き出しました。その手はあたたかく、爪も整っていて指に皺のない素晴らしいものでした。今でもその感触を思い出すと興奮してしまいますわ、お恥ずかしい。

「あの、さっきの授業ではごめんなさい。わたし、昨日図書館に行って調べたの。だからそれを教えたくて。なのに、ついあなたを傷つけるような言い方をしてしまった。謝りたかったんだけど、その、教室では話しづらかったから」

 わたくしにはもったいないお言葉でした。ですが、ふと檻の中をご覧になったヤヨイ様はわたくしの手を放したのです。

「ねえ、シロは? シロはどこへいったの?」

 わたくし、嘘をつけない性格でしたので正直に答えましたの。もし嘘をついてヤヨイ様を傷つけてしまえば、嫌われてしまうと思ったのです。すると、ヤヨイ様は顔を真っ赤にされわたくしに掴みかかりました。ヤヨイ様のお顔や胸が近づき、わたくしは幸せでございました。きっとヤヨイ様もわたくしを望んでいらっしゃるのだろうと、心の中でガッツポーズいたしました。ですのに、なぜかヤヨイ様は怒っていらっしゃったのです。わたくしの肩を激しく揺さぶり、砂の山へ押し倒したのです。

 どうしてヤヨイ様がお怒りになられたのかわたくしにはさっぱりでしたが、このままではヤヨイ様に嫌われてしまうという焦りがありました。せっかく手を繋げましたのにヤヨイ様と喧嘩するだなんて、考えたくなかったのです。尻もちをついたわたくしに、ヤヨイ様は覆いかぶさるように再び掴みかかりました。このままでは本当に嫌われてしまう、喧嘩を避けたい、どうにかしなければと思いました。


 十分後、わたくしはシャベルを持ってヤヨイ様とともに檻の中に立っておりました。正確には立っていたのはわたくしだけで、ヤヨイ様はうつ伏せに倒れておりました。ヤヨイ様の頭にはちょうどシャベルが刺さるような溝があり、何か赤いものがどくどくとあふれ出ておりました。はじめは保健室へ連れて行こうかと思いましたが、ヤヨイ様のお身体を他の方に触らせたくなかったのです。うちへ持ち帰ることはできませんから、わたくしは檻の中の土にそのまま埋めてしまおうと考えました。もともと人が近寄らない場所でしたので、深く埋める必要はございません。それに、土を被せる程度なら簡単に掘り返すことができますからいつでもそのお顔を見ることができるのです。

 たて、よこ、高さが足首から膝ほどの穴を掘り、膝を抱えるような形でヤヨイ様を埋めました。土を被せるとき、また明日来るからねと声をかけました。

 わたくしの初めてをお奪いになったのは、ヤヨイ様なのです。


 次の日から、わたくしは欠かさず飼育小屋へ通いました。何度も掘られた土はシャベルがいらないほど柔らかくなっておりました。ヤヨイ様が日に日に人の形を失っていく様は悲しいものでしたが、わたくしだけのヤヨイ様になりましたことを嬉しく思いました。学校の中も外もヤヨイ様が行方不明になられたことで大騒ぎでしたから、余計に独占欲を満たすことができたのです。わたくし、生前のヤヨイ様に感謝しましたの。だって、教室で話す姿を誰かに見られていたら疑われていたでしょうから。ですが、わたくしとお話ししたのは校舎裏、それも人が好き好んで寄り付くような場所ではございませんでしたので、事情を聞かれることはありませんでした。

 結局ヤヨイ様は誘拐されたということにされ、真相は迷宮入りとなりましたわ。

 卒業するまでいつわたくしが犯人だとばれるのだろうとびくびくして過ごしておりましたが、そんなわたくしを土の中のヤヨイ様は慰めてくださいました。わたくしには、ヤヨイ様のお声が聞こえておりましたから。小学校を卒業するとき、もう二度と会えないのかと思うと胸を締め付けられるような思いでした。

 中学に入学したわたくしは、すぐにヤヨイ様の代わりに心の穴を埋めてくださる方を探し始めました。


 あの…………お話の途中ではございますが、娘の様子を見に行ってもよろしいでしょうか。まだ幼い子ですから心配で。…………そうですか、やはりもうわたくしにはその資格すら残されていないのですね。

 失礼しました、お話の続きでございます。


 中学に入ると初めて制服というものを着まして、みな一段と大人に近づいたような雰囲気を身にまとっておりました。その中でも頭一つ出ていたのが、ヒマリ様でございます。入学式当日から、わたくしはヒマリ様から目が離せませんでした。運が良いと言いますか、もう運命的と言いますか、ヒマリ様と同じクラスになれたものですので、翌日から学校へ行くのが楽しみで仕方ありませんでした。

 当時の制服は上下が黒のセーラーで、それすらもドレスに見えてしまうヒマリ様と喪服のようにしか見えないわたくし。太陽と影のごとき関係でございましたが、わたくし諦めませんでしたの。相変わらず貧しいままの生活であるにもかかわらず、わたくしの日々は鮮やかに色づいておりました。

 初めてヒマリ様とお話をさせていただいたのは、五月の終わりごろでした。なんとわたくし、五月の席替えのくじでヒマリ様のお隣を引くことができまして、いつお声をかけてくださるのだろうと毎日胸を高鳴らせておりました。

 ある朝、登校してすぐにヒマリ様がわたくしの机をとんとんと叩きました。

「ねえ、筆箱忘れちゃったんだけどペン貸してくれない?」

「ごめんなさいヒマリ様、鉛筆を一本しか持っておりません」

「ちっ」

 わたくし、春休みの間に母に礼儀というものを教わりましたので、既に今日のような言葉遣いをしておりましたの。周りの子がシャープペンシルを使う中わたくしはまだ鉛筆、それに消しゴムも買えなかったため筆記用具をお貸しすることはできませんでしたが、ヒマリ様はわたくしのことを気に入ってくださったようです。その後、たびたび声をかけてくださるようになりました。

 それからというもの、わたくしとヒマリ様はお友達になりました。ヒマリ様の分の宿題をしたり、揉め事を起こしたヒマリ様を庇ったり、あとは体操着もお貸ししました。先生にはわたくしが忘れたということにし、ヒマリ様をお助けしました。その体操着はしばらく洗えませんでしたわ。だって、ヒマリ様が着られたのですよ? そんな、洗うだなんてもったいないことできませんもの。

 けれど、充実した日々はそう長くは続きませんでした。学年が上がると、ヒマリ様と違うクラスになってしまったのです。

 わたくし、二年生になってからは毎日落ち着けませんでしたの。ヒマリ様はわたくしがいなくても大丈夫なのでしょうか、寂しい思いをされていらっしゃらないでしょうかと、教室の横を通るたびに心配しておりました。それはもう勉学に集中できないほどで、常にヒマリ様のことばかり考えておりましたわ。

 ここで、複雑な感情が芽生えましたの。ヒマリ様は、あくまでヤヨイ様の代わりとなる存在のはずでした。わたくしの中ではヤヨイ様がいちばんなのです。にもかかわらず、わたくしの頭はヒマリ様のことで溢れていました。わたくしこう見えても一途な女ですので、それを遮るヒマリ様のことが次第に憎くなってしまいましたの。だって、一途にヤヨイ様を思うわたくしの心を誘惑なさったのですよ? これは許されるような行いではございませんから、早急に対処する必要がございました。

 放課後、ヒマリ様が門をお出になるのを待って後を追いました。ヒマリ様のご自宅は存じ上げておりましたから、上手くいくと思ったのです。ですが、わたくしはここでも失敗してしまいました。前を歩いていらっしゃったヒマリ様が、突然振り返ったのです。

「どうしてわたしの後をつけてくるの!?」

 ヒマリ様はかなりお怒りのようでした。どうしてヤヨイ様もヒマリ様も、わたくしを見るとお怒りになられたのでしょう。わたくし、なにもおかしなことはしておりませんでしたのに。でも、お二人に共通点がおありだったというのは素敵な発見でした。

 わたくしを公園へ引き込まれたヒマリ様は、様々な言葉でわたくしを罵倒されました。当時のわたくしにはまだ理解できない卑猥な言葉もたくさん含まれておりました。そこで、思ったのです。悪いのはわたくしを誘惑されたヒマリ様。なのに、どうしてわたくしが責められなくてはならないのですか? わたくし、咄嗟に女子トイレに逃げ込みましたの。それでもヒマリ様はわたくしを責め続けるものですから、仕方なかったのです。

 気がつくと、タイルの上でヒマリ様は動かなくなってしまわれました。もうずっと掃除をされていないような床に、ヒマリ様の艶やかな髪がべっとりと張り付いておりました。

 もしわたくしの仕業だということが見つかってしまえば、檻の中のヤヨイ様のことも全てさらけ出さなくてはなりません。ですので、わたくしはヒマリ様を隣の男子トイレの個室に移動させました。ついでに下着やハンカチも盗みましたので、警察はすぐに殿方による犯行だと明後日の方を捜査されました。結局ヒマリ様も誘拐事件の被害者と片付けられてしまいました。


 わたくしは、再び机に張り付いた苔のような学校生活を送りました。そして中学三年生のころ母の体調が好ましくない状態になりまして、わたくしは進学をあきらめました。もともと経済的に厳しかったものですから、卒業したら働かなくてはと思っておりました。母はわたくしが中学を出てすぐに亡くなりました。そして行く当てのなくなったわたくしを、旦那様が引き取ってくださったのです。

 もともと母が使用人として勤めていたお屋敷は、わたくしが圧倒されるような広いものでした。心優しい旦那様は、わたくしにお屋敷で働くよう命じられました。まさに願ったりかなったりというものですわ。お給金も、一日三回の食事も、寝る部屋も与えられました。

 新人であるわたくしは、お庭の手入れや掃除を任されました。旦那様はわたくしに、好きな花を好きなように植えていいとおっしゃいました。そこでわたくし、思いましたの。まだ飼育小屋の土の下で膝を抱えていらっしゃるであろうヤヨイ様を、このお屋敷にお連れしようと。正面からお屋敷に招待することは憚られますので、買い出しのリヤカーを装い夜に学校から運び出しました。そしてお庭の花壇の一角に埋めさせていただきました。これで、わたくしは永遠にヤヨイ様と暮らしていくことができます。

 それから、わたくしは旦那様とお屋敷に尽くしてきました。掃除係でしたのに、旦那様はわたくしの働きぶりを評価してくださり、なんと身の回りのお世話を任されたのです。もちろん夜のお世話も含まれており、幸せなことにわたくしは旦那様との間に娘を授かりました。


 早く娘の顔を旦那様にお見せしたいと願っておりましたのに、なぜかわたくしは旦那様に近づくことを禁じられておりました。こうして、わたくしと面会なさることなく旦那様は亡くなられました。お屋敷は若旦那様が引き継がれ、事情を理解してくださった若旦那様によりわたくしは再び使用人として勤めることができたのです。

 ですが、わたくしはもう耐えられなかったのです。娘が生まれてから、わたくしは命の尊さを痛感いたしました。

 そして、これまでに二つの命を奪ってしまったのだと初めて理解しました。その行いは、大きな罪をわたくしに背負わせました。ですので、その罪を償おうと思いいたったのです。


 …………若旦那様、これでよろしいのでしょうか。わたくしが自首しこれらの行いを告白することで、娘は助かるのですね?

 若旦那様、わたくしは最後までこのお屋敷の使用人であることを誇りに思っております。若旦那様を裏切るような真似は絶対にいたしません。それに、娘も人質のような形でお屋敷に引き取られてしまいましたから。今、あの子は地下の座敷牢に入れられているのでしょう? 若い使用人と旦那様の間に設けられた子がそのように隠し子として扱われるのだということは存じております。そして、わたくしの母がそうであったことも。


 最後に若旦那様、いえ、先生。どうして先生があのときヤヨイ様を手にかけることになってしまわれたのか、わたくしが知ることはできないのですか? どんな取り調べを受けようとその秘密を洩らさないという覚悟は十分にございます。それでもヤヨイ様、そしてヒマリ様まで殺されてしまった理由を、わたくしにはお話ししてくださらないのですか?

 そう……ですわね。やはりわたくしには教えてくださらないのですね。


 若旦那様、これは使用人ではなく、一人の母としての要求でございます。わたくしがこれから出頭し、二つの事件の犯人であると報道されましたら、娘を座敷牢から解放してやってください。元来、それを若旦那様がおっしゃられたので、わたくしはこうして偽の供述の練習を重ねてまいったのです。これは、若旦那様を疑っているのではございません。娘に、一人の少女としてあたりまえの暮らしを送ってほしいと強く願っている、ただそれだけによるものなのです。


 それでは若旦那様、そして亡き旦那様。今まで大変お世話になりました。もう日は上り始めています。わたくしは、きっとやり通します。

 わたくしがお屋敷を出たあと、くれぐれも玄関の鍵を閉め忘れないよう、ご注意ください。

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