第9話 どっちの味方

 荒れた川の波の当たる音が、ゆっくりと消えていく。しばらくして川からせせらぎが聞こえ、辺りが落ち着いた。私が、川底が差し出した白い球体を回収すると、木々の青々とした匂いを連れて、詩音が川辺に姿を現す。



「凄いよ! 朝日野さん! あんな強いの倒しちゃった!」



 詩音は興奮気味にそう言った。『強い』なんて言っているが、あんな人間じみた亜種デミなんて強くもなんともない。せいぜい下の中もいいところだ。


 だとしても、私が亜種を倒したことを、自分のことのように喜ぶ彼女の、なんと優しいことか。それに、あんな怒鳴られ方をしたというのに、けろりと忘れている。私にはとても真似出来ない。



 ──真似する気もないが。



 興奮気味の詩音に回収した球体を託し、私は滝壺の二人を見つめた。二人は『早く来い』と言わんばかりに私を見ている。


「先に帰ってろ。私はまだ用事あるし」

「え、でも、私帰り方分かんない」

「え? じゃあ里に入った時どうやったのさ」

「あれは本当に無意識で。この間朝日野さんと一緒に帰った時は、朝日野さんが里に連れてってくれたし」


 ──そういえば、そうだっけか。

 私は仕方なく、詩音に帰り方を教える。ただし、普通に教えるのがどうにも癪だったので、面倒な方法を。


「何も書いてない札を神社の社の中に置いて、呪を唱えるんだよ。で、その唱えるやつは······面倒臭いし、紙に書くか」


 ポケットの無字の札を取り出したが、ここで問題が起きた。



 ──ペンがない。



 持ち歩く癖もなければ、持っている知り合いも近くにいない。そもそも、普段ペンを必要とする機会もない。さて、どうやって書くべきか。


 私は手の平を宙に差し出し、目を閉じた。思い浮かべるペンの形、大きさ、色、重さ······細部まで思い浮かべ、手に持つ動作まですると、黒のボールペンが具現化された。


「えーと、どうだったかな」


 呪を書き込み詩音に渡す。詩音は目をキラキラと輝かせた。


「今のどうやったの?!」


 私は彼女の興奮を増幅させてしまったことを、激しく後悔しながら「イメージしただけ」と軽くあしらい、ようやく紙を渡して先に帰らせた。


 ***


 私が近づくと、女郎蜘蛛の表情が険しくなった。精霊も水の中から杖を顕現し、戦闘態勢をとる。不思議に思った私が口を開く前に、女郎蜘蛛は口から蜘蛛の糸を吐き出した。


 私が反射的に、石の上に這いつくばってその糸を回避すると、後ろの方で呻き声がした。札を片手に振り返ると、酷くやせ細った霊が、蜘蛛の糸に絡まれて必死にもがいていた。

 長く伸びた爪で必死に糸を断ち切ろうとするが、妖怪の御業みわざを人が簡単に防げるわけもなく、呆気なく女郎蜘蛛に一飲みにされてしまった。私はその様子に、札を落として絶句した。

 口にした霊をよく味わう女郎蜘蛛は、しかめっ面で口から種のようなものを吐き出した。


「マッズいわね〜」


 なんと惨めな末路だろう。精霊はその種を拾って滝壺の水でよく洗い、小さな球体が出来上がると、私の手を包み込むようににそっと置いた。


「あとは里に連れ帰って成仏させろ」

「分かった。······あ、そうだ」


 定吉から貰ったお握りの包み。一人でこっそり食べようと思っていたが、どうせなら気の置けない人と食べたい。包みを開けると丁度三つ、お握りが入っていた。



「食べる?」



 二人の目がキラキラと輝いた。



 ***



 ──美味しい。

 梅の塩加減と酸っぱさが米の甘みと融合して舌を刺激する。更に焼き海苔の香ばしい香りが二つの全てを包み込んで極上の味へと進化させる。


 ──お握り最高。本当に美味しい。


「人間の作るものなんて微塵も興味なかったけど、これは美味しいわね。もっと食べたくなるわ」

「お前が攫った人間が作った物だろう。お前に食べる権利はないんじゃないのか」

「いいじゃないのよ。私のコレクションに選ばれたんだから、ありがたく思って当然だわ」

「引きずり込まれた人間の、あの絶望した表情は、ありがたく思っているようには到底思えなかったが?」

「良いんだよ。皆で食べた方が美味しいじゃん。良かったね、お供物ですぞ。水の精霊様」

「茶化すな。奏」


 分け合ったお握りを完食し、女郎蜘蛛が本題に入る。


「さっきの女の子、奏と一緒にいた子だけど、あの子危ないわ」

「やっぱり? 酒呑童子も言ってた」

「妖怪と同意見なのはいただけないが、あの娘は危険だ。良くないものを、ゾロゾロと引き連れている」

「良くないもの?」

「悪霊の類というか、何かを生み出しているような、こう······歪な感じの」

「あれよ。カエル。カエルの卵みたいなやつよ」


 女郎蜘蛛の例えに、精霊が「そんな感じ」と頷く。禍々しい雰囲気のものを、カエルの卵と例えていいものか。だが女郎蜘蛛も精霊も、割と本気な目をしている。なら、そういうものなのだろう。


「直に、危険なことが起こるかもしれないわ。奏だから忠告してあげてるのよ。早めに対策をした方が······」


 女郎蜘蛛が止まった。精霊も口をへの字に固める。二人の視線がまた違うところに向いて話が出来ない。

川沿いを歩く音がした。砂利を鳴らす音は随分と重い。

 振り向かなくても、私には誰かが分かる。

 背中に腹が立つほど伝わる温度が、風が運ぶ匂いが、聞こえる吐息が、それはそれはうるさく主張する。




「何だよ。望月」




 私は振り返った。予想通り、望月の姿がある。いつも通りの黒い和服の彼は、腕を組んで仁王立ちしていた。厳格で偉そうな表情は、いつだって私の神経を逆撫でする。最近はより、私の怒りを湧き上がらせる。



 ──ああ腹立たしい。



「見てたぞ「どうせ詩音に式神貼っつけてたんだろ。ストーカーかよお前は。キモすぎるわ」


 望月が言い切る前に、私は先手を取った。言葉を遮られて腹立たしそうな望月に、ふんと鼻を鳴らした。不満げに口を閉ざす望月を、女郎蜘蛛は嫌味たっぷりに笑った。それでも負けじと望月は私に説教を施す。


「その通り、詩音に式神をつけていた。全部聞いたぞ。足でまといだなど、半人前が言う言葉ではない! あんな小さな相手に、手間も時間もかかるまい! なら二人で出来る方法を考えないか! どうして詩音と仲良く出来ないんだ。あの娘は腕も立つ、思いやりもある、それに奏と同じ時代の人間だろう」

「同じじゃない。十年の月日の違いは同じじゃないだろ」


 そうだ。同じなわけがない。歳も、見た目も、性格も、何もかも。

 あの子は私とはかけ離れている。

 あんなに優しくされて、愛されているのに、どうして独りぼっちの私が一緒にされないといけないのか。

──私は、愛に触れることも許されないのに。


 思いを汲んだのか、女郎蜘蛛が私の肩を持つ。私に肩に手をかけて寄り添って座り、望月をじっと見つめた。


「はぁい望月、相変わらずいい男ね。でも今のあんたなんか欲しくないわ。人を食い散らかす男は嫌いなの」

「うるさい。妖怪は関係ないだろう。これは俺と奏の問題で──」



「あんたの弟子は奏でしょ? どうして弟子でもない、あんな子ばっかり相手にするのよ。出来がいいから? 愛想がいいから? どうせ奏の忠告も聞かずに、あの娘にかまけてるんでしょ。『そんなことしない』って突っぱねてるんじゃない?」



 望月は痛いところを突かれて目を背けた。女郎蜘蛛はここぞとばかりに突きつけた。





「あんたはどっちの味方なの?」





 私の胸が強く脈打つ。

 手が震える程の緊張が、私を支配する。

 望月の言葉をここに居る全員が待った。

 俯いて考えていた望月が、ようやく重い口を開いた。


「俺は、詩音が悪者とは思えない」


──ああ、そうだろうな。

私は目を見開く。知っていたはずなのに、気がついていたはずなのに。「そんなことは」なんて、心の底では思っていたのかもしれない。





「俺は詩音を信じたい」





 落胆か 絶望か。この崩れた心を表現出来る言葉がなかった。

 揺らぐ水面には動けずにいる自分が映っている。

 歪んだ顔に水滴が落ちた。私は珍しく、自分が泣いていることに気づくのが遅れた。



「そうか······──そうか。お前もそっち側か」



 いつもみたいに怒ればいい。

 いつものように殴りかかればいい。


 それで済む話だ。でも、頭で分かっていても、体が自由に動かない。私はその場から、全く動けなかった。



「要らない、のか。そっか、私は要らないのか」



 一言で良かった。たった一言だけで良かった。



「なぁ、どうして私は認めてもらえないんだ? どうしてお前も、私を捨てるんだ」



 嘘でも良かった。······──嘘で良かった。



「私の何がいけないんだよ。私はただ、仲間を守りたかっただけで。ただ危険を避けたかっただけ·········」





 ──私の味方だ、と言って欲しかった。





「······奏?」

「もう一度だけ、私の目を見て話を······」



「望月が要らないって言うなら、私がもらうわ。······二度と来るな。人間」



 私の口を塞いで、女郎蜘蛛は望月を威嚇した。女郎蜘蛛を纏う蜘蛛の脚が、私の体を捕食するかのように掴み、私を滝壺の底へと引きずり込んだ。


 望月は我に返り、青ざめた顔で手を伸ばした。しかし、その伸ばした手を精霊が杖で弾き飛ばし、拒絶する。杖で水面を突くと大波が望月を襲い、川下へと押し流した。


 望月が名前を呼んだ。もがきながら私の名前を呼んだ。だが、私はとうに水の底にいた。



 ──聞こえるはずがなかった。



 精霊の大きな手が私の目を覆い隠した。女郎蜘蛛が、慈しむように私を強く抱きしめた。


「あなたは、私たちの言葉を信じただけよ。それだけよ。······あんな人間の元に帰らないで。奏が可哀想だわ」

「人とは時に、信じ難いことを受け入れられずに拒絶する。私たちと手を取るお前には分からぬことだ。分からずとも良い、自然に愛されし人の子よ」


 女郎蜘蛛も精霊も、私を庇い、私を励ましてくれる。けれど、私は何もかもがどうでも良くなっていた。二人の優しい言葉に、私はまだ、何も言えずに泣き続けていた。

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