第3話 滝に棲う蜘蛛

 静岡県──浄蓮の滝


 その名の通り清らかな滝だ。水は澄み、周りに咲く草花が生き生きとしている。どうどうと唸る滝は生命を象徴しているようだ。私は滝の美しさに胸が温かくなるのを感じた。


 今日は観光客もおらず、静かで心地よい。

 近くの大きな岩にしゃがみ、右手でそっと滝壺に波紋を立てた。耳を澄ませて滝の音だけを聞き分ける。自然の交響曲を奏でる水の音が私に歌えと迫り来る。小さな波が、私の手にあたり、『早く』と催促してきた。



 たおやかに歌えや流れる川よ

 生命に踊れや清き水よ

 数多を清めん我が滝に 棲うは尊き水の精

 汝に偽りあるならば 我が身は悪しき毒と化さん



「汝、いらえよ波紋に乗せて。姿を現せ精霊よ」



 指で水面を叩き、波紋を描く。滝に向かって伸びる波紋は滝壺の真ん中で相殺された。ほんの数秒、時間を置いて水面に男の顔が浮いた。人とは思えない美しさと綺麗な羽衣。男は水の中からゆっくりと浮き上がり、透明感のある杖を片手に、私をじぃっと見る。私がひらひらと手を振ると、呆れたように水面に立った。



「汝の名は──と言ったところで、私の唄を歌えるのは、お前しかいないよな。奏」



 彼は浄蓮の滝に棲う水の精霊だ。随分な秘密主義らしく、私が何度名を尋ねようと、決して答えはしなかった。

 知り合ってからだいぶ時を経たが、粘り強い私でも諦めて、彼をそのままに呼ぶことにしていた。


「やぁ、精霊。私以外に聴こえる奴がいるなら、そいつはきっと超能力者だろうね」

「彼奴に用事か? ならば早急に出て行くように伝えてくれ。私の住処を乗っ取ったばかりか、今でも人に悪さをする」

は気まぐれだよ。それにがこの滝の水なんだ。出て行ったとしても必ずお前に関わるさ」

「仕方がないな」


 水の精霊は滝壺に潜った。その姿が見えなくなると、自然と音が聴こえなくなる。その直後に滝壺の底から禍々しい妖気が湧き出る。構える間もなく水飛沫をあげて飛び出したのは女の妖怪だ。

 蜘蛛を着飾る女は黒い瞳で私を見つめる。真っ赤な口に裂けるくらいの笑みを浮かべ、私にすり寄った。



「久しいわね、奏」

「変わらないな、女郎蜘蛛じょろうぐも



 女郎蜘蛛は私が立つ大岩に座り、誘うように問いかける。これが男なら一発で落ちていただろう。私は彼女と話す度に『女でよかった』と安堵する。


「遊びに来たの? それとも仕事? つまんない事言ったら引きずり込むわよ」


 ──ごめん。仕事だ。


「お前さぁ、山菜採りに来た男──の幽霊、知らない?」

「あら、知ってるわよ。いい男だったわ」

「その人、返してくれない? そいつの親父パニクってんの」


 女郎蜘蛛はそれを聞くなり、頬をふくらませてそっぽ向いた。あからさまに不機嫌なオーラをふり撒いて長い髪をいじる。


「嫌よ。だって好みなんだもの。彼を気に入ったのだから私のモノよ」

「その理論がどこから来んのか知らんけど。返してくれる?」

「い・や・よ! 奏が言っても返さないわ! 私の糸に気づかないのが悪いのよ! 捕まるのが嫌なら糸に触らなければ良かったでしょ!」


 そう言い放って女郎蜘蛛は滝壺の底に戻ってしまった。どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。

 私がどんなに呼びかけても出てこないし、反応すらない。滝の音だけが虚しく響く。


 ·······しまった。やってしまった。返してもらえないと困る。望月に怒られるだろうし、あの親父は余計にパニックになるだろう。私にはそれが面倒臭くてたまらない。


(トイレ掃除は嫌だ······)


 岩の上で胡座あぐらをかいた。きちんと反省し、女郎蜘蛛が出てきてくれるまで待つ──つもりは全く無い。彼女は気まぐれなのだ。だから、ちゃんと対策は考えている。


 私はポケットから、折りたたみの安いオセロ盤を出して、滝壺めがけて投げた。

 ポチャンッ! と落ちたオセロ盤は、見えない滝壺の底を目指す。

 あとは一言添えるだけ。



「遊んで私が勝ったら男返して。お前が勝ったら男返さなくていいし、昨日何でか手に入れた『マッチョカレンダー』あげる」



 派手に水飛沫を上げて飛び出す女郎蜘蛛に、私はちょろいな、と心の中で笑う。だが、彼女の気まぐれは、私に重い条件を突きつけた。


「奏が百年間、毎日私の相手をしてくれるなら、負けたげてもいいわよ。遊びましょう?」


 ──勝っても負けても、私が終わるじゃないか。


 ***


 盤上に広がる白と黒。

 同等に見える数の中、一個だけ多い白。

 私は歓喜の叫びを上げ、女郎蜘蛛が悲痛な叫びを上げた。



「よっしゃぁぁあ! ギリッッギリ勝った! っしゃあ!」

「嘘よぉぉぉおぉ! 私が負けるはずないわ! そうよ奏! イカサマしたんじゃない!?」

「してない! したらお前に喰われんの分かってるからしない!」


 女郎蜘蛛はあの手この手で負けた事実を覆そうとするが、こんな簡単なゲームでイカサマなんてするはずもない。女郎蜘蛛はしばらくムスッとふくれっ面になり、口を聞いてくれなかったが、とぷん、と水の中に戻ると、何かを持って戻ってくる。


「ううぅ······。約束よ。私は優しいから、今回は返してあげる。ほら、持っていきなさい」


 女郎蜘蛛は悔しそうに翡翠の玉を岩に置いた。私は興奮が収まらないままそれを受け取った。


「花札なら勝てたのに!」

「勝負は勝負だもん。返してもらったからね」

「まぁでも、百年も相手してくれるものね」


 それには何も言い返せなかった。

 ──そんな約束もしてたなぁ。どうしよう。

 私がオセロをしまうと、女郎蜘蛛が花札を出した。お互い岩に座り直して、女郎蜘蛛が札を配った。


 このままゲーム一回だけで帰るのもアレだ。面白くない。

 私は手札を受け取り、花札を始める。最初の数手は無言が続いた。どちらも話さず手だけが忙しなく動く。沈黙を裂いたのは女郎蜘蛛だった。




「会えたのは何年ぶりかしら」




 私は少し考えた。私は過去を思い出すことが嫌いで、少し時間をかけないと記憶を遡れない。それも、昨日の夕飯さえ思い出せないほどに危ういものだ。女郎蜘蛛は私が会話を返すのを、珍しく大人しく待っていた。


「うーんと、十年かな」

「あら、死んでからもうそんなに経つの?」

「正確には十一年だよ。長いと思わない?」

「そうね。でも妖怪私たちにはほんの一瞬の時だわ」

「ま、私も十年は地獄で過ごしてたらしいから一瞬だったけど」


 そうだ。そんなに経っているんだ。私が死んでから、もう十年も経つ。兄弟は大人になり、私を覚えている人なんて何人いるか。私だけが変わらずここにいる。その事実がどれほど切ないかなんて······もう忘れた。


「ねえ、家族はまだ生きてるんでしょ? 死んだ人間って『お盆』になったら帰るってほんと?」

「迎えの馬が来た奴だけね。······私は一度も帰ってない」


 家族が一度も迎えに来てくれたことはない。あとひと月でお盆が来る。今年こそ、と思うのはもうやめた。私には帰る気なんて全くない。······帰りたいとも思わなかった。



「家族のこと、まだ恨んでる?」



 鋭い一言に手が止まった。女郎蜘蛛は「月見酒」と言って私を待った。私は何となく、澄んだ水に映る私に目をやった。向こうの私は、感情を捨てたような表情をしていた。


「恨んでない。私は家族を恨んで死んだわけじゃない。どうだっていい。単純に、しょうもない感情に振り回されるのを止めただけ」

「······ふーん。こいこい」


 女郎蜘蛛は水面を足で叩く。白い肌に纏わる水が、美しさを際立たせる。

 私は札を取り、手前にあった札と重ねた。

 着飾った蜘蛛が足を動かし札を取る。そのあとに一手は続かない。

 私はまた札を取り、黙々と揃った札を並べた。


「猪鹿蝶。あがり」

「あっずるい! こいこいしなさいよ!」

「カスで逃げられる前にあがる!」

「もう! これだから人間は! もう奏とは遊ばないわ!」

「残念だったな。これから百年は顔合わせるぞ」

「あの約束か······っ!! しなければ良かった!」


 捨て台詞を吐いて水に飛び込む女郎蜘蛛を、私は手を振って見送った。手土産のカレンダーを滝壺に投げ込んで、私はその場を離れた。

 岩の上に置かれたままの花札を風がさらって川に流す。川を広がって流れる札は、沈んだり、浅瀬に逃れたりと様々に動く。

 ······石に引っかかった一枚の札を誰かが拾い上げた。

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