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「――……っ、は、は……ぁ」

 肩を大きく上下させ、体全体で息をする。切った頬の傷が、血を吐き出して顎から汗と共に滴る。既に体はボロボロだった。腕は両方とも力なく垂らされ、構えをまともに取ることもできていない。足は緊張と疲労で、すぐにでも動きを止めてしまいそうだった。ただ、それでも紡はまだ立っていた。

 そんな紡に対し、少しだけ呼吸を乱した灯人が問いかける。

「――

 その顔に浮かぶのは疑念。

 戦闘の始まりからは一〇分と経っていない。しかし、逆を言ってみれば、一〇分も樋口灯人の攻撃を躱し続け、生き延びているのだ。それはおおよそ普通では考えられない事態だ。その事実に灯人も気が付いたようだった。

 呼吸を整えながら、紡は返事をする。

「……何も、しては、いないさ」

 そう、特別なことは何もしていない。ただただ、ひたすらに樋口灯人の攻撃を避け続けているだけだ。

「――――ッ!」

 その言葉に苛立ったのか、灯人が突撃する。地面にはいくつもの穴が穿たれていた。彼女の突進や、攻撃で生まれたものだ。そこにまた、新たな穴が空けられる。

 直線的に振るわれた拳が、顔面に迫り、視界を――埋め尽くす/横切る。

 続けざまに放たれた蹴りが、避けた先の紡の頭を――砕いた/かすめて通り抜ける。

 肘鉄が首の――骨を折った/皮を削った。突き出された拳が――腹を突き破る/受け止めた腕の鉄板が大きな音を立てる。

「……有り得ない」

 手刀は首を跳ね/髪だけを切り、回し蹴りは頭蓋骨を砕く/その髪にすらも触れない。流水のように絶え間なく繰り出される連撃は、避/け/る/こ/と/も/で/き/な/い/。/全て紙一重で躱していく。

 困惑の色が、灯人の顔に浮かぶ。それも当たり前だ。彼女の攻撃はその全てが必殺。触れるだけで相手の命を刈り取る凶器であり、神速に近いそれを避けることそのものが不可能に近いのだ。故に、彼女の猛攻を受けることができる人間など――ましてや一〇数分もの間、対峙し続ける人間など存在しない。だが、それが目の前に存在している。

!」

 苛立たしげに同じ質問が繰り返される。紡は同じように答えた。

「嘘を吐けッ!」

「……嘘じゃない、さ」

「ッ!」

 怒りを露わに、拳が揮われる。その拳を紡は――受けて死んだ/回避し、また続けざまに訪れる次の攻撃を――直撃して死んだ/命からがら防御する。

 /避け。/防ぎ。/また避ける。

 それが時間を忘れさせるほどに繰り返されて、ようやく灯人が止まる。

「――アンタ、まさか」

 言葉はそこで途切れた。その表情は、今までにない驚愕に満ちている。ありえない、と唇が小さく動く。

 紡はそれを黙って見ているだけだ。自分から言うことは何もない。これは、そういう作戦なのだから。見せつけて、思い知って貰わないといけない。

 時間が過ぎていく。空の紫色が、次第に藍色へと表情を変えていく。

「……」

「神船、紡――神船紡!! アンタは、

 長い時間を掛けて、ようやく吐き出されたその言葉に、紡は大きく息を吐き出した。

「……覚えてないよ。でも、」

 自分の声がやけに響くような気がした。でも、それでいい。灯人は紡の言葉を待っている。上空で鎮も黙ってそれを見ている。紡自身も、この瞬間を待っていた。たった十数分の話ではない。

「一〇〇回は越えた。四桁にはいってない」

「――狂ってる」

 はは、と紡は小さく笑った。そんなことは、分かっていたことだ。

 言葉を紡ぐ。今こそ、手に持っていたカードを切るタイミングだ。

「樋口さん、あなたの格闘術は、僕が勝てるものじゃない」

 紡の取った戦法は、たった一つだけ。それは、ひたすら防御に徹することだ。

 樋口灯人の身体能力は、彼女の持つ〈火〉のマギアによって極限まで高められている。その拳は頭蓋骨を砕くだろうし、蹴りだけで首を刎ねることだってできる。

「だけど、あなたはあくまでも、人間の限界にあるだけだ」

 それこそが、紡が見つけた樋口灯人の弱点の一つだ。人間の極限にある彼女でも、逆を言えば、人間を越えた性能を発揮できはしない。一〇〇メートルを一秒では走れないし、拳が銃弾より早くは飛んでくることはなく、蹴りが鉄を砕くこともできやしない。

「なら、僕にだって、防ぐことができないわけじゃない」

 紡は決して身体能力に優れているわけではない。高校生としては一般的だ。紡が灯人と普通に組み手をすれば、百回中百回は負けるのは必至だ。いくら人間の範疇に在るとはいえ、目の前の彼女は規格外の存在ではある。しかし、次に何が繰り出されるか分かっていれば、それは別だ。凡人でも

「……アンタ、頭がおかしい。イカれてる。アタシが同じ行動をとるとは限らない。アタシは一分一秒、その瞬間を見極めて、次の動作に移っている。その全部に、対応するだなんて――」

「それも、全部やり直した」

 だからこそ、試行回数は数百を超える。それに動作が変わるのは、何も灯人だけではない。ある時は紡自身が動けず、またある時は集中力が続かず、死んだ。その度に繰り返し、同じ線をなぞり、できる限り同じ展開に持ち込み、また挑戦する。違う攻撃が来れば、それに対処する生と死のトライアンドエラー。

「――ッ!」

 前振りもなく、灯人が突撃する。そして/、紡はそれをふらつく体で避ける。

「それも、経験済みです」

 駆け抜けたその姿を見れば、灯人の動きもどこかぎこちない。これまでであれば振り向いてすぐに向き直っていたものが、どこか緩慢な動きのまま、背中を見せている。

 紡はその背中に、初めて自ら手を伸ばした。あっさりと、その手は灯人の肩を掴み、そのまま二人ともに倒れ込んだ。紡は力の入らない身体で、灯人を押し倒す形で抑え込む。灯人は抵抗するが、思うようにいかないのか、苛立たしげに舌を打った。

「く――――ッ!」

 これが、もう一つの狙い。

 樋口灯人のマギアは不完全だ。それは鎮が語った通りである。そして、それこそが樋口灯人のもう一つの弱点――むしろ欠点だ。

 彼女は今でこそマギアで自在に体を操っているが、生まれる前は身体が弱かった。それは先天的なものであり、決して完治するようなものではない。今もなお白い彼女の髪と肌――アルビノ――がその証拠なのだ。

 また、人の持つマナは決して無限ではない。マギアを使えば必ずマナは消費してしまう。体力と同じなのだ。つまり、彼女が身体強化を継続して使用していれば、いつかはマギアを使って身体能力を補助している以上、肉体の生命活動の維持に支障をきたすのだ。

 それが、今――紡が長い時間を繰り返し、細く長い道のりを走り抜けてきた、この時だ。

 覆い被さる紡へ、灯人は言う。

「はな、れろ! アタシは、こんなところで負けるわけには、いかないんだ! アタシの、この力は、壊すことしかできないッ! だから、全部、ブッ壊す!」

 その声は、聴き慣れてしまっているそれとは全く違う。弱弱しく、後悔しているようなそれだ。紡は返答する。

「僕は、死にません。だから、あなたに勝つことはできなくても、決して負けない」

「それじゃあ、ダメなんだ。アタシは、アタシは――っ」

 体の下で灯人がもがく。紡には弱っている灯人の力にすら、抵抗するだけの余力が残っていない。這い出るようにして、灯人が抜け出した。

「――ッ」

「もう、やめよう」

 地面に体を付けたまま、紡は言う。それは、余力で攻撃を再び行おうとしている灯人と、その後ろに現れ、それをいつでも止めれる姿勢を取っている鎮に対して向けられている。

「神船君……」

「いいよ、有栖川。もう少し、頑張らせてくれ」

 鎮は小さく頷く。ここで鎮が動いては、意味がなくなるのだ。マギアによってではなく、人間として樋口灯人へ向かい合わなければならない。

 紡は力を振り絞り、体を起こして灯人へと向き直る。

「……樋口さん、話をしましょう」

「――――」

 返事は無く、鋭い目線が帰ってくる。

 彼女を説得すること。これが紡の選んだ、最後の選択だ。

「――僕には時間がありました。繰り返される今日の中で、あなたの事は何度も調べさせてもらいました」

 その中で、紡は灯人の本当の目的――行動原理を理解できた。

「あなたは、自分の存在を、証明したかったんですね。マギアをマギアとして持たない、失敗作としてあろうとした。だからマギアを滅ぼそうとして、死に場所を探していた。本当の名前も捨てて、別人の魔法狩りとして存在しようとした」

「……………………」

「そうじゃないと、あなたの両親の死が、無駄になるから」

 彼女の父は、実験が失敗し娘が死んでしまったと思い自殺を選んだ。

 彼女の母は、実験の失敗による娘の暴走で命を失った。

 なら、その娘が生きているとしたら、更に、その娘が結果的にマギアを操っているとしたらどうなるだろうか。

 幼少の頃、協会に引き取られた樋口灯人は、それを知ってしまったのだ。そして、行動してしまった。マギアと云う存在を憎み、同時に両親の死の意味を正当化するために。

「アタシは……アタシは……」

 声は震えている。強い樋口灯人の姿は、もうどこにもない。

 そこにいるのは、年齢もそう変わらない、一人の女性。

 それでも、改めて突きつけなければならない。

「樋口さん。僕がいる限り、あなたの目的は決して達成されません。僕は死なないし、決してあなたを殺しはしない」

「……っ」

 完全にそれを理解したのだろう、灯人は悔しそうに、項垂れる。人の心が折れる瞬間があるすれば、きっとこれがそうなのだろうと、紡は胸が軋むように痛くなる。次につなげるための必要なことだとしても、辛いものは辛い。

「……だから、樋口さん。それに、有栖川、僕にチャンスを下さい」

 二人の視線が、紡へ向く。

 紡は、何度も繰り返されるこの五月十日の中で、導き出した答えを――紡ぎ上げる。

「僕がマギアを集める」

「神船君、それは……」

 驚いた表情で、鎮が口を挟む。鎮にはそれをまだ話してはいなかったのだ。紡はその鎮へ、できるだけ優しく言う。

「僕のこの〈時間〉のマギアを使えば、マギアを集めることはできる。そうだろ、有栖川」

「そうね。でも、あなたがする必要はないわ。それはもともと私の目的よ」

 紡は首を振る。

「いや、僕じゃないとダメなんだ。僕は、有栖川に戦って欲しくない」

 戦えば、いつかは相手を殺す必要だって出てくるかもしれない。そうなれば、先のループの繰り返しだ。

「約束したんだ。もう、泣かせないって」

 鎮は瞳を閉じて、そのまま俯いて顔を逸らした。

「卑怯ね。あなたは」

 その横顔に、紡は「ありがとう」と告げる。そして、灯人へと視線を向けた。

 感情の無いひらべったい声で、灯人が言う。

「……それで、アタシには何の得がある」

「マギアを集めることができれば、世界を変えられるだけの力になる。それで、あなたに納得してもらえるような世界を作ります。だから、僕を見張っていてください」

 それはきっと、有栖川鎮にも共通する世界だ。彼女たちの根底にあるものは似ている。進んでしまったベクトルが違っているだけなのだ。

「……馬鹿げている」

「僕も、分かってます」

「いくら、時間がかかるのかも分からないんだ。そもそも、アタシの〈火〉のマギアは完全なものじゃない。何度時間を繰り返したところで手に入らないモンだってある。それに――そんな無茶な使い方をしていれば、いつかはアンタの精神こころの方が死ぬ」

「……それも、分かってます」

 いつかは終わるかもしれない。無理なのかもしれない。

「でも、何より、初めから諦めて、できないって決めつけてしまうことが――考えを止めてしまうことが、一番怖いんです」

 それは既に遠くに行ってしまった、あの日の言葉だ。

 今でも心の中に刻み付けられている、言葉だ。

「僕は、あなたや有栖川みたいに特別な――ヒーローになれそうな力なんて持ってない。格好良く物事を解決なんてできない。でも、僕も世界を変えようと、二人を変えたいって、助けたいって思ったんだ。だから、どんなに辛い道のりだって、やらないといけない。英雄ヒーローになれない僕だから、こうするしかないんだ」


『世界の大きさを知りなさい。己の小ささを知りなさい。そして、己が世界を広げることを学びなさい』


 その祖父の言葉は胸の奥で輝いている。

 想像していたより世界は広く、自分にできることはたかが知れていると、思い知らされた。でも、無駄じゃなかった。試行錯誤して、足掻いて、その結果、紡は今ここに居る。できないと思っていたことだって、無理じゃなかった。どんなことでも、可能性はゼロじゃない。それらを選んで、挑戦して、納得がいく自分だけの物語を紡ぐ。祖父が残してくれたのは、きっとそういう事なのだ。

「……やっぱり、馬鹿げているよ」

 灯人は、そう言って笑った。

「だから、一つだけ条件がある」

「条件?」

「アタシにも、そいつ――〈時間〉の魔導書を読ませてくれ。アンタ一人には、任せちゃおけないからね」

「それは……」

 灯人は続ける。

「それに。時間を戻って来られるとは言え、それが分かるのはアンタだけだ。見張れと言うのなら、同じ環境でないと納得できないね」

「……分かりました」

 紡は、ほうと息を吐いて空を見上げた。

 既に空には深い藍色が満ちていた。遠い地平には、大きな星が輝いている。

 ――ああ、終わったんだ。

 安堵感と共に、紡の意識は闇に落ちていった。

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