12+/

 もう何度見たかも分からない夕暮れが訪れる。

 薄く広げられた青いキャンパスに、グラデーションのように赤が広がっていく。紡はそれを境界線だと思った。二つはまだ別々で、混じり合っていない。そこに在るのは、日常と非日常、生と死、そして有栖川鎮と樋口灯人。二つを隔てる、その境界だ。

 ざり、と靴の音がする。紡は確かめずとも、そこに誰がいるかを知っている。

 紡の記憶から寸分の狂いなく、モノトーンの彼女――樋口灯人は言う。

「――神船紡、でいいのかね。出迎えとは余裕だね」

 灼けたように掠れた声は続ける。

「成る程。確かに、マナは感じ取られる。マギアを継いだ、というのは真実だったようだ。しかしまさか、有栖川に助けを求めているとはね。探すのに手間取った」

 灯人が一歩前へ進む。威圧的に革靴が石畳を打った。

 続けて威嚇するように、灯人が言う。

「それで。アンタは囮か何かか? その有栖川飼い主はどうした」

「私ならここにいるわよ」

 鎮の余裕を含ませた声が、遠く空から響く。紫色に移り変わりつつある空を背中に抱え、彼女は箒へと優雅ともいえるほどに落ち着いて腰をかけ浮いていた。その傍らには、宙に浮くティーカップとソーサーもある。

「高みの見物、とでも言いたいのか?」

「ええ。そうよ」

 素直な肯定が予想外だったのだろう、灯人は眉を寄せる。それを無視して、鎮が言う。

「それでいいのよね、神船君」

「――ああ、全部僕がやる。だから、有栖川は手を出さないでくれ」

 鎮には事前に、これからやろうとしていることを全て話していた。鎮はそれを思い返したのか、少しだけ呆れたような溜息を吐いた。

「本当、呆れた人」

「相談は終わりでいいか? アタシは待たされるのが嫌いなんだ」

 その声にぞわり、と肌が粟立つ。隠そうとしない殺気が灯人から放たれている。この感覚は何度経験しても慣れない。

 紡は膝を少しだけ曲げ、足に力を入れる。腕を前に出し、ファイティングポーズをとるような姿勢。

「――やる気ってのは冗談じゃなさそうだ」

 長く伸びていた灯人の影が、引き伸ばされるようにして広がっていく。太陽は完全に姿を隠し、空に幻想的な赤紫が満ちていく。その景色にふと、紡は関係のないことを思い出していた。

 ――そう言えば、この時間を魔法の時間マジックアワーと言うんだっけ。

 それが合図だった。

 まるで発砲音のような音と共に、灯人が跳ぶ。件の距離は一〇メートル以上あった。だが、彼女にその程度の距離は短すぎる。

 縮地しゅくち

 武術には一瞬で間合いを詰める技術がある。それが縮地だ。元より、極められた武術を一般人が目でとらえることは不可能だ。ましてや、運動能力をマギアによって極限まで上昇させた樋口灯人のそれは、まるで瞬間移動である。コンマ一秒に満たない速さで、灯人は紡の眼前に現れると、その勢いのまま、右手が振るわれる。

「――ッ!」

 右耳元で轟音が爆ぜる。音がしたことで、そこへ拳が振るわれたと理解するほどの速度。塵と化したのか、髪の毛が燃えた焦げ臭い匂いがする。

「ほう」

 息を吐くように、声がした。

 紡は足に指先に力を籠め、視界を広く、意識を俯瞰させる。灯人の姿が揺らいで視界から落ちた。それもまた、合図だ。紡は膝を折りたたむようにして、身体を反らす。鼻をかすめるように、左拳が通り抜けた。まるで小さな竜巻だ。触れればそれだけで吹き飛ばされてしまう。

 猛攻は止まらない。左の肘が視界と通り抜けると同時に、灯人の体が斜めを向いた。肘の向こうに、地面を離れた彼女の左足が見える。

 ハイキックだ。灯人が身体をまるで螺子のようにぐるりと回転させる。発射台を離れたあの足蹴りを直接食らえば、首が飛びかねない。紡は無理やり膝から力を抜く。蹴りを放とうとしている灯人より視点が下がった。頭の上を暴風が駆ける。真空が生まれたのか、吸い込まれるような錯覚を覚える。引き寄せられて上がった視界の中、灯人が背中を見せた。ハイキックの勢いのまま、回転したのだ。空を切り裂いた左足が、半回転して着地した。それも一瞬。

「ハ――アッ!」

 鋭く吐かれた息と共に、彼女は跳んだ。空中でぐるりと廻り、勢いを乗せた左足が振り抜かれる。これが本命――飛び廻し蹴り。

 それを避けることなどできない。紡にとって、見えているのは樋口灯人の黒いジャケットだけなのだ。どんな達人であろうと、見えない場所から飛来するものに対処できるわけがない。故に、鉄板を仕込み、まるでハンマーを振り回すが如き破壊力を持った、灯人の黒い革靴は、紡の頭を撃ち抜く――はずだった。

「ぐ、ぅ……っ!」

 激しい打撃音と共に、紡の口から痛みを堪える呻きが出る。

 腕がじんじんと痺れている。半分以上感覚は無くなっている。しかし、少しでも感覚があるということは、腕が残っているということに他ならない。鉄板を仕込んでいなければ、まとめて吹き飛ばされていたかもしれない。

「……なるほど。対策は取ってきているというワケか」

 半歩だけ距離を取って、灯人が言う。病的なほどに白い顔は、苛立ちとも、愉悦ともいえない交じり合った感情で歪んでいるようだった。

「だが、いつまで持つかな」

 炎が灯された。

 瞬間的に紡はそう感じる。樋口灯人と云う人間を中心に、周囲の熱量が上がっていくようだった。知れず、紡の額には汗が滲んでいる。

 紡はやっと理解する。彼女は確かに〈火〉のマギアの使い手だ。そしてまた、彼女自身も火なのだ。怒りと恨みによって形作られた、全てを灼き尽くす原初的な強さ。その二つが合わさることで炎となる。

 ――その炎を受け止めなければならない。

 それが、神船紡の出した答え。

 構えを取る灯人へ、紡も防御の姿勢を見せる。腕の痺れは少しだけ取れてきた。防御はできるだろうが、反撃は取れそうにない。だが、それでいい。どうせ反撃をするつもりはないのだから。

 そして、再び灯人は跳んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る