第17話 社会とのフレームをズラしてみよう

いま、連載してるいる『ゆるゆると泳ぐ』では言葉遊びや制約を設けて詩を書いてみよう、と思いながら描いている。


あかさたな……あ行ならアイウエオを並べて詩を作る。テーマよりも音や流れに着目して自分の語彙を拡げようという思いがあります。後、書いていて気づくのは制約はあるけれど連想はその分、自由に働いていることだ。シュルレアリスム?のように自由筆記ではないが、言葉が自分から離れて飛躍することがある。やはり普段の詩作で論理や意味に縛られているところが大きいように思う。社会というフレームを少しずらすべきなんだろう。その例としてわかりやすいのは短歌だろうか。下の短歌は雑誌ダ・ヴィンチで穂村弘氏が選考したものらしい。


『ブロッコリー並べるオレに歯の抜けた話始める少年がいる』


短歌は素人ですが……ぶっ飛んでるな、と思います。料理してたら息子?が歯が抜けたよ、と言いにきたのが内容だろうか?

これを社会一般の感覚で書くとまず、このオレと少年の関係が解るように書きますよね。


『ブロッコリー並べるオレに歯の抜けた話始める息子がいる』


しかし、こう書くと一気に面白みは無くなる。少年のときは、オレと少年の関係は不明でなんで唐突に抜けた歯の話を始めるの?え?誰?という引き込まれるズレがある。これが息子だとふーん、で済んでしまう。敢えてそういった関係性を省くと想像の余地や余白が生まれてくるのではないでしょうか。これが社会というフレームをズラすことである。もちろん国語やレポート的にはアウトになります。でも詩としては圧倒的にアウトな方が面白い。


後、補足すると"ブロッコリー並べるオレ"というのも頭に動きが浮かびませんか?


これがブロッコリー料理するオレ、だと肉体の動きが現れない。"並べる"という動き。このブロッコリーを並べるオレ、にふいに歯が抜けたと話し始める少年の唐突さが読み手の認識を揺さぶってくる、と感じる。こうした肉体の動きが見えると、読み手はその五感で詩を共有しやすいのではないか? と思考を巡らしている。


こうした社会とのズレが、妙味を生んでいる短歌を読むとぼくは楽しくて堪らない。ズレ過ぎると意味不明かもしれないのだけれど。後、同じくダ・ヴィンチに掲載されていた穂村弘氏の選考した短歌。


『このオレの入浴シーンを謎として見る猫アリス牝7ヶ月』


これなんかまたズレてるなぁ、とにやにやしてしまう。この発想はいかんなぁ、詩人か歌人だよなぁ、と思ってしまう。


そんなわけでこんなズレや言葉の飛躍を目指しながら、今のぼくは『ゆるゆると泳ぐ』を描いています。





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