第16話 須賀敦子さんの詩


本との出会いというのは、いつも唐突なものだ。眼があったかのように、ふいに釘付けにされる。アマゾンなどネットでの購入が普及しても本屋に出かけるのは、そんな瞬間を求めているからだろうか。


『主よ 一羽の鳩のために』


それが今、ぼくが何度も読み返している本の名前だ。新刊コーナーに平積みにされていたそれを見つけたとき、自然と手が伸びて手にしていたのだった。装丁も良く、開いて眼にした最初の一文が激しくぼくのなかの何かを叩いた。


◇◆◇◆◇


作詞ノート冒頭に記された言葉、


『一人でいるといふこと。

それは なにがどうなっても必要。

どんなに近くても、

どんなにわかりあっていても、

一人でないと、死んでしまうといふこと。

自分を失ふな。』


◇◆◇◆◇


この一文からもう詩であって、創作に限らない人生への普遍的な言葉だと思えた。どれほどのことがあろうとも人は孤独で個として、生きなければならない。特に現代においては。同時に人は人を求め、孤独に生きる他者の存在を確認したとき、生きているのだと感じるのではないだろうか。


***


須賀敦子さんをご存知でしょうか?

作家でまたイタリア作品の翻訳を手掛けておられた方です。ぼく自身は翻訳家としてしか知りませんでした。その須賀敦子さんの詩が没後、二十年にして見つかり詩集として出版されました。詩作ノートの手書きの原文も掲載されていて、その文字から書き手の丁寧でありながら、さまざまな思いに溢れる言葉が緩やかに眼に注がれるようです。

書かれたのは1959年、ぼくがまだ生まれてもいない時代のものですね。そんな時代性を超えて感動することができるのが素晴らしいと思うのです。


須賀さんはキリスト教徒であり、詩の背景にはその信仰があります。主よ、或いはあなたが、と語りかける詩もたくさんあります。たとえば、

『おかあちゃま じかんってどこからくるの?』

という詩はアダムとイヴをモチーフにしています。詩のタイトルの子どもの問いかけに、大人たちは答えられない。そこから詩は始まり、じかんが存在しなかった楽園の描写がたんたんと進んでいきます。朝がさり昼が来て、夜が来て花が咲きまだ昼が来る。一見、時間があるように見えるがここでの時間とは人の生死、或いは成長と衰えをじかん、と考えているようです。そして林檎の木が出てきます。アダムとイヴと言えば知恵の実や蛇が思い浮かびますが、それには触れず、

***

それが みんな かはってしまったのは

ひとりの をんな と

ひとりの をとこ が

いちじくの木陰で

あいをころした

あの ときだった

***


あいとは永遠の象徴でありそのあいを殺したことで人は永遠を失い限りある時間に身を置くようになったのだと詩は語り、それでも人は一度殺されてしまったあいにもう一度、生きてもらうしか"どうしようもない"のだと言葉は結ばれていきます。


このどうしようもない、と言うのは切実な願いでそれは永遠をあり得ない現象と知ってなお、永遠を信じたいと言う祈りのように感じます。


詩に使われるている言葉は難解さは無く、強い宗教的な示唆もなく気取りもないので、誰もが読める詩集だと思います。リルケや宮沢賢治を思わせる詩もあり、宮沢賢治は仏教徒ですが信仰の根底にあるものは繋がっているのかもしれません。池澤夏樹氏の解説がついていますが詩に疎いぼくはこの方を知りませんでした。いずれは読んでみたいですね。


すいかずらやミモザ、糸杉、れんげ、四季を彩る植物も多彩で、行ったこともないローマの街並みを思い浮かべながら繰り返し、繰り返し、読み込んでしまう魅力がある詩集でした。須賀さんの小説を読みたくなり、次の休みには図書館へと足を運んでみようと考えています。

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