第6話 詩は難解なものか・続

さて前回に引き続き詩は難解なものなのか、を考えていきたい。とは言え、僕自身が詩について博学ではなくその歴史を語るほどの知識を持ち合わせていない。それでも書くのだからなんらかの答えを持ち合わせているのか?そんなこたぁ、ないんだよね 笑。以下、本当に雑文なのでグダグダなのはお許しください。


実は前回に綾部響さまから頂いたコメントに一つの示唆がありました。下記に抜粋。


『作者独特の言い回しで、文字に記されている意味とは別の事柄を言い表している事の多い「詩」は、やはり読むに際して「才能」が必要だと言う言葉にも納得です。


そして「読む才」は、何も詩や俳句、短歌などの高尚な物だけでなく、小説にも多分に要求されますよね。』


まずお断りしておきますが、僕は詩全般が他の文芸作品より高尚だとは思っていません。素晴らしい作品はジャンルを超えて素晴らしいし、誰もが楽しく読めるエンタメも必要です。要は適材適所だと思うわけです。話しが逸れましたね。僕が気になったのは、


『作者独特の言い回しで、

文字に記されている意味とは

別の事柄を言い表している事の多い「詩」』


この部分です。これは直喩や暗喩と言った修辞法だけの問題ではなく詩の言葉だけを読んでも意味が通らない場合があるからでしょう。読む、でなく感じ取れと言われる方も多い。しかし、最近の詩は読み手を考慮しない書き手の内面をぶちまけたものが多いのではなかろうか? それを解ったように誤読して楽しむ、ような空気を感じたりします。それは果たして自我のつぶやきと違いはあるのか?

多分、僕の頭が悪いからついて行けないのだと、自分を納得させていたのですが、改めてなんだかなぁ、と……


詩を描くとき自分の感情が出すぎると、独りよがりな自我まみれの作品になります。この部分がコメントで書かれた"作者独特の言い回し"になっていないかという自問があります。もちろんそうでなくとも複雑な哲学や歴史、人生観などが織り込まれた詩は読み手を選ぶのですが。

しかし、詩作段階で自分が感じた詩情を普遍的な物に出来なければ読み手との共有はないですよね。独自の文章を求めるあまり、一般的な人々から乖離していないか? と思うのです。そういう意味で日本で商業的に成功する詩人が少ないのかと思います。別に売れればいいとは言いませんが。


東日本大震災のころ、金子みすゞの詩がテレビで流れてその優しい眼差しの詩に触れた方は多いと思います。「こだまでしょうか」という詩ですね。金子みすゞの詩は誰もが肩ひじ張らずに読めます。今、そんな詩がどれぐらいあるのだろう。童謡的な詩ですね。北原白秋や三木露風、赤とんぼなどの童謡は優しい言葉と情緒に溢れていますね。ただ柔らかな言葉で書いた自分の感情や星が綺麗みたいな、つぶやきポエムではない。そんな新しい童謡詩がもっと書かれてもいいと思うのです。童謡は歌詞を読んでみると味わい深いのですが、今の子どもはラップなんかの方が好きなのかも。ノリが楽しいからね。ラップ詩というのもあるようだから。


答え、やっぱり詩は難解……だが、それは書き手次第じゃなかろうか。そんなわけで、どんなわけだか……童謡詩などを今後は描いてみたいと思う。出来れば、誰かの詩を好きになる入り口になれば嬉しいですね。


最後になりましたが示唆に富んだコメントをいただきました綾部響さまに改めて御礼を申し上げます。

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