case:02 魚住・希ルエ(主婦 2074年生まれ 24歳)

第17話 新たな悪夢

 2098年、4月28日、月曜日。


 魚住・ルエ(主婦、24歳)は服を着ると、未だ半裸の夫を置いて寝室から抜け出し、キッチンでコップに水を入れて飲んだ。


 水滴が唇を伝わって、喉に落ちる。


 昨晩は激しかった。

 触れられ、求められた感触は、今も自分の中に残っている。

 未だ体に残されている疲れを感じ、そしてそれを幸福だと思った。


 自分が愛し、愛されていると言う、実感。

 ベッドの傍らに夢見マシンが転がっていたなぁと思い出し、仕舞ってしまわなければとも思う。

 もう、あんなものに頼って寂しさを埋める必要はない。


 希ルエは微笑みながらリビングに移動すると、壁に掛けられたカレンダーの日付に、また一つチェックを入れた。


「希ルエ、そのチェック、何?」


 ちょうど寝室からリビングへやって来た夫の声に、希ルエは返す。


「何って、それは……えっと」


 ――なんだっけ? 


 希ルエは説明が出来ない自分に唖然とし、カレンダーを見つめた。

 見れば、4月は全ての日にチェックをしている。

 めくれば、3月もすべての日にマークが記されていた。


 ――私、なんでカレンダーにチェックなんか入れてたんだろ。


 指で日付をなぞって進める。

 が、このチェックが何なのかを考えれば考えるほど、まるで得体のしれない悪寒のようなものを感じて、希ルエは思わず口を押えた。


 取り返しのつかない失敗をしている気がする。

 何か、忘れてはいけないことを忘れている気がしているのだ。

 だが、それが何なのかは、希ルエにはどうしても思い出せなかった。


「希ルエ、腹減ったよ。メシ、何か作ってよ」

「あ、うん」


 希ルエは夫に笑顔で返した。

 夫のことを思うと、不安は消える。

 カレンダーなんて忘れてしまおうと、そう思った。


「顔色悪くないか? 大丈夫か?」

「え、大丈夫だよ。ご飯、何が良い? 卵でも焼く?」

「良いね。半熟が良いな」


 夫の声は、自分を落ち着かせてくれる。

 希ルエは冷蔵庫のドアを開けたが、中に食べ物がほとんどないことに気づいて、愕然とした。


「どうした?」

「あ、ごめん。その、食べ物が無くて」

「無い?」


 夫が背中から覗き込み、冷蔵庫のほかのドアも開ける。


「うわ。ほんとだ。卵どころか、何にもない。冷凍庫も、野菜室も空っぽだ」

「ど、どうしてだろ。昨日は……」


 ――昨日?

 昨日は、何を食べたんだっけ?


 希ルエは、思い出せない自分に気づき、再び襲ってきた悪寒に怯えた。

 しかし、そんな希ルエの不安を感じたのか、夫が背中からそっと抱きしめて来る。


「希ルエ、買い物に行こうか。ご飯、一緒に作ろう」

「え、ええっと。そ、そうだよね。買い物、行かなくちゃ」


 何かおかしい。

 希ルエは、夫の強引さに手を引かれ、部屋から出る。


 そして、そこからどう歩いたのか。

 気がつくと希ルエは、夫とスーパーマーケットにいた。


「カレーにしようか」

「あ、うん。そ、そうね」


 希ルエは我に返ったように、夫が押しているカートの中を見た。

 すでに、ジャガ芋やニンジン等の野菜が入っている。


「カレールー。どれ買う?」

「えっと、これかな。甘口でも良い?」

「中辛にしてよ。うん。これは譲れないなぁ」


 ニコニコしている夫を見て、やっぱりこの人が好きだと、希ルエは思った。

 本当は甘いカレーが好きなのだけれど、この人が食べたいなら、中辛でも良い。そう思った。


 ふと、どこからか自分を見ている視線を感じる。


「?」


 遠くに、学生服を着た少年がいてこちらを見ていた気がしたが、瞬きをすると見えなくなった。

 きっと、見間違いだろう。


 希ルエは首を振ると、そのまま買い物を済ませ、家に帰る。


「さぁって、美味しいご飯を作るぞー!」


 無邪気に笑う夫は、キッチンで野菜を切り始めた。

 希ルエは今のうちにっと、ペンを持ち、リビングのカレンダーにチェックを入れる。


 2098年、4月28日、月曜日。チェック。


 ――28日?


 気がついたのは、チェックが済んでからだった。

 デジャブなんてものでは無い。

 確か、買い物に行く前にこの『4月28日』にチェックを入れていたはずだ。


 それに、どうして自分はカレンダーなんてチェックしているのだろうか。

 今のうちにと思ったが、今のうちにとは?


 再び、得体のしれない不気味な感覚が希ルエを襲う。


「ね、ねぇ、あなた。今日……」


 希ルエがキッチンに振り返ると、夫が包丁を持って立っていた。

 顔は笑っている。

 ニコニコと微笑み、歩いて来て、言った。


「希ルエ、次は肉を切るよ」

「え? もう、野菜、切り終わったの?」


 ここで希ルエはとんでもない失敗に気づく。


「……肉、買ったっけ?」


 かごに入れた記憶も、会計の時に精算機に通した記憶もない。


「ご、ごめんなさい。お肉、急いで買いに行ってきます」

「買いに行く必要はないよ、希ルエ」


 夫はにこやかに笑い、希ルエの手を掴んだ。


あるじゃないか」

「え?」

「ミンチにしよう。キーマカレーだ。新鮮で、柔らかい肉だし、楽しみだなぁ。たっぷり、切り刻まないと」


 夫が包丁を振りかぶる。

 希ルエは、質の悪い冗談を言われていると思った。


 でも、違った。


「ひっ」


 包丁は、とっさに避けた希ルエの服をかすめて、近くにあった木製のテーブルに直撃する。

 しっかりと食い込んだ包丁の刃を見れば、そこに殺意が込められているのは明白だった。

 それでも希ルエは信じられず、夫に聞こうと思った。

 質の悪い冗談ならやめて欲しいと、そう、願いたかった。


「な、な、なに、何で? あ、あなた。こんな、冗談」

「冗談?」


 夫は笑いながら言った。


「冗談でこんなことしないよ。だって、腹ペコなんだ。僕はカレーが食べたいんだよ、希ルエ。肉が逃げちゃダメじゃないか。なぁ! 逃げてるんじゃないぞ! 上手く切れなかったら、美味しいカレーが出来ないじゃないか! 希ルエッ!」

「い、いやあああああああ!」


 希ルエは、夫が本気で自分を殺そうとしている事を理解し、靴を履くのも忘れて外に飛び出す。

 マンションの廊下。エレベーターなんか、待っていられない。

 階段を駆け下り、外に走り出た。


 だが、建物の外に出るその瞬間、頭上から声が叫ばれた。


「希ルエェェェェ! 何で、逃げるんだよォォォォォォ! カレー、作るって言ってるダロォォォォォォ!」


 建築物の材質を突き抜けて来た音声に、希ルエは恐怖した。

 一刻も早くここから逃げなければ……!


 しかし、外に出た瞬間、空から何かが落ちて来て、目の前の地面に激突した。


「あ、あ、ああ」


 最初は何かわからなかった。

 だが、それが人で、来ていた服を見れば、夫だった。

 血が弾け飛んで、首や手足が捻じ曲がった夫がそこに倒れている。


「あなた……っ! なんで……!」


 死んだ……?


 あまりの出来事に、希ルエは悲鳴を上げる事すら出来なかった。

 夫が死んだこともそうだが、何よりも。

 その夫が、ぐたり、ぐたりと蠢きながら、立ち上がって来たのだ。


「キィルルルルルルッルエエッエエエエエッエ!」


 肉塊。

 破れた肌。こぼれる臓物。血に塗れて、折れた足を踏み出して、それは近づいてきた。

 そして、動けば動くほど、ミンチと呼んでもおかしくはない状態にまでぐちゃぐちゃになって行く肉は、ボロボロと周囲に肉片をまき散らしながら、近づいて来る。


「ひ、いやぁぁぁァァァァあぁぁぁ!」


 その時になって、初めて悲鳴を出せた。

 肉が、歩くごとに肥大化しているのだ。


 逃げなければと思う。

 だが、腰が抜けて、動けない。


 立ち上がれないまま後ろに後ずさり、希ルエは思った。


 ――いったい、何が起きているの?

 自分は、悪い夢でも見ているの?


 そうだ、きっとそうに決まっている。

 こんなこと、現実に起きるはずがない。


 そして、至近距離まで歩いてきた肉の塊は、希ルエを押しつぶそうと、その巨体を傾けて……


 ――――――――――


 希ルエはハッと目を覚ます。


 気がつくと寝室で、半裸の夫がすやすやと幸せそうに寝ていた。


 ――夢?


 希ルエは、夫と同じように半裸の自分に気がつき、そして、酷く、恐ろしい夢を見たのだと思った。

 酷く喉が渇く。


 キッチンに向かうと、コップに水を注ぎ、飲む。


 ……怖かった。

 だけれど、どんな夢を見ていたのかがまるで思い出せない。


 ――そうだ、今のうちに。


 希ルエはペンを持って、リビングのカレンダーにチェックを入れた。


 2098年、4月28日、月曜日。チェック。


 印をつけた瞬間、希ルエはどこかおかしいと思った。

 得体のしれない不気味な悪寒。


 自分は、どうしてカレンダーなんかにチェックを入れているのだろうか。

 付けられているチェックは、何を意味しているのだろうか。

 その瞬間、明確な思考が希ルエの脳内を支配する。


 危機感。焦燥感。

 ここから逃げなければならないと、本能が訴えている。


 ふと、希ルエはキッチンに気配を感じて振り向いた。


「……あなた?」

「……」


 いつ起きて来たのか。

 最愛の夫がニコニコと笑い、包丁を持って希ルエを見ていた。

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