第16話

 中野坂上の手前から渋滞が始まった。


「左車線に入ってくれ」


 交差点に左折の車が居ると詰まるのはわかっていた。直前で右に戻れと指示する客も居る。そうすると中野坂上の交番の目の前で進路変更禁止の黄色い車線をまたがなければならない。タクシードライバーに取っては迷惑な指示だ。


「詰まったらそのままで構わない」


 俺の言葉を聞いて運転手は左車線に入った。後ろを振り返って確認したがタクシーがついてきている様子はなかった。気持ちが少し落ち着いてきた。


「君を尾行していた男は俺の顔も知っているようだった」

「どうして……。」


 千尋がどこから尾行されていたのか気になった。学校の出入りを監視するのは難しい。まず何ヵ所か出入り口がある学校を張り込むには一人ではできない。加えて学校の回りは不審者に対する目が厳しい。いつ出てくるか分からない千尋を長時間張り込むのは難しいし、千尋の紫色のリュックは目印になったが同じ制服を着た全生徒の中から一人を見つけるのも簡単ではないはずだった。


「今日、何かおかしなことはなかったか?」

「学校がいつもより早く終わったので一旦家に帰ったんです。祖母に東口で真山さんと待ち合わせすることを話したんですけど……。」

「そうだったのか。いま、おばあさんと連絡取れるか?」

「はい」


 千尋が祖母に電話をかけるとすぐに相手が出たようだった。話していると千尋の顔つきが変わった。


「私が出たあと、祖母のところに会社から電話があったそうです。私が出掛けたことを伝えると父のことで急いで私に会って話をしたいと言われて、五時頃に東口に行けば会えるかもしれないって伝えたみたいで。ごめんなさい……。」

「謝ることじゃない」


 何もかもがおかしかった。千尋は今日も紫色のリュックを背負っていた。東口は待ち合わせやたむろしている人がたくさん居るが、もし今日の男が先日アパートを監視していて一度千尋の背格好を見たことがある者と同一人物だったら、俺が気づいたように紫色のリュックと合わせて千尋を見つけることはそう難しくないはずだ。


 いや、そこじゃない。わざわざ千尋に会って話したいというのがそもそも胡散臭い。間違いなく千尋の所在確認と考えられる。千尋に用事があるなら電話をすれば済む話だ。電話?


「会社はいま君が祖母と住んでいる場所を知っているのか?」

「いえ。父のアパートの住所は聞かれましたが祖母の家の住所は聞かれていないので教えていません」

「電話番号はどうだ?」


 千尋の顔がひきつった。


「どうして会社は祖母の電話番号がわかったんでしょうか?」

「会社と言うのはほぼ嘘だろうが……。大野は当然知っているだろうな?」

「父は知っています……けど、どういう意味ですか?」


 俺は自分の失言に後悔し答えることが出来ずに黙っていた。俺が想像したことは千尋に取っては辛い現実だった。


「真山さん!」

「すまない。ただの俺の想像だ。さっきの男の身元が分かるまで暫く学校を休めるか?」


 千尋は答えずに俺を睨み付けていた。先に目をそらしたのは俺の方だった。

 目の前にリュックと同じペンギンのキャラクターが付いたカラフルな財布が突き出された。


「わたし、正式に依頼します」


 千尋の真っ直ぐな目が痛かった。


「そうしたからと言って何もかも君に話す義務はない」

「でも探偵は依頼人の味方だって!」

「俺は今は探偵じゃない」


 千尋の目に涙が盛り上がった。女性が泣いたとき最後は自分が折れないと解決しないのはわかっていたが、中学生にまで当てはまるとは思っていなかった。


「俺はいつでも最悪の事態を想定をする。そうすることで心の準備が出来て冷静な行動がとれるようになるからだ」


 千尋は唇を噛み締めながら聞いていた。


「だが君はまだ子どもだ。それに……、」

「母はとても優しい人でした。父も、真山さん言ったじゃないですか!父は私を巻き込まないように……。」


 俺は何も言えずに黙って千尋の目から溢れ出る大粒の涙を見ていた。自分が冷酷で薄汚い大人に思えた。


「不規則なタクシーの仕事をしながら父は私を必死で育ててくれた。でも私は父の負担になっているんじゃないかっていつも思ってた。お婆ちゃんの家に行けって言われた時、何か理由があるのはわかっていたけど私はこれで父の負担にならずにすむって言い聞かせて逃げたの!。父が助けを求めていたかもしれないのに!」

「もういい、わかった」

「わかってない!わかってないよ!」


 俺は間違っていた。この子はたくさんの愛情と同じくらいの苦悩を抱えていたのだ。


「悪かった。君を子供扱いして」


 千尋は嗚咽しながら真っ赤な目を向けてきた。


「もう逃げないって決めたんです。だから」


 俺は覚悟を決めて言った。千尋に真摯に向き合うには慰めも嘘も不要だった。


「大野に少しでも自由があるなら何らかの方法で連絡をとるはずだ。それがないということは、大野の自由が完全に奪われているか、すでに大野は生きていないか、そのどちらかしか考えられない。誰かが大野の携帯電話を手に入れて電話番号を知られた」

「そんな……。」


 と言いかけ、唇が切れるほどに噛み締めて言葉を飲み込んだ。強い子だった。


「俺は大野に巻き込まれたと考えていた。だが今は違う。大野が俺に助けを求めている。だから俺はこうして動いている」


 千尋が小さな拳で俺の胸板を殴る。


「父のことは友達じゃないって……。」

「すまなかった。俺は友達と言うのがどういうものなのかわからないんだ。俺を頼ってくれた大野を助けたい。ただそれだけだ」


 千尋が何度も何度も拳を叩きつけてきた。


「君に万が一何かあったら大野が戻ったときに、あいつにまで殴られるのはごめんだ。だから言うことを聞いてくれ。頼む」


 千尋の動きが止まった。両手で顔を覆って泣いていた。


「頼む。四六時中、君を守ることはできない。今日遭ったことを冷静に自分で考えてみるんだ。どうすることがベストなのか」


 祖母の家に着くまで千尋は黙っていた。子どもが成長していく過程を目の当たりにしている気分だった。


「真山さん、父を助けてください。お願いします」


 絞り出すようにそう言って降りると振り返ることなく家に入っていった。まるで俺を閉め出すかのように頑丈な門が静かに閉められた。

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