5「アルコーブ」

 堂本くん。彼の名前はそんな平凡な名前だった。同じ歴史学科、同学年だった彼と私は、数少ない学科内の顔見知りだった。いくつか取っている講義も被っていたけれど、私は後期になるまでそれに気づかなかった。この銀髪のおかげで、彼は最初から私の存在は意識していて、試験官のバイトで一緒になったときはかなり驚いたと言っていた。

 図書館の一件以来、週に何度か隣で講義を受けるようにもなり、それがたまにお茶をするようになって、ミチコも含めて私の家でご飯を食べることも出てきた。一年生の終わり頃だ。


 彼はとにかく、そう、話しやすかった。ミチコと一緒にいるときとは違って、わくわくするような非日常と言うより、安心するような日常を連れてきてくれる、そんな人だった。どちらも多くを語る性格ではなかったけれど、お茶の趣味も本も音楽の趣味だって、私達は全部の相性が良かった。私が作る空間に彼がいても、違和感がないほどに。


 二年生になると、ミチコに連れて行かれたイベントやコンパで知り合った男の人と付き合うことも増えた。最初は多少の抵抗もあったけれど、ミチコのセックスに付き合ってホテルに泊まって、酔っ払っている内に処女を失ってからは、良く分からない間に設定された観念に縛られることは止めてしまった。

 ただ、たいていの男が私の小さな身体に、すくなからずの征服感を求めていることや、銀髪に埋もれる特異を味わいたいだけなのだと、四人目の彼氏を振ったときにやっと気がついた。それまで愛がどうとか恋がどうとか、色々と考え出していたことが全部馬鹿らしくなった。一年間で四人の男と付き合ったという数字も、多いのか少ないのか、自分では判断がつかなくなっていた。

 大学三年生の春、もうしばらく誰とも付き合わなくていいかなと思っていたときに、堂本くんが私と付き合いたいのだと申し出てきた。私が付き合った人達と違い、たどたどしく、不格好な告白だった。

 私はそれを断った。


 講義を彼と一緒に聞く機会も少なくなり、私達の距離は一気に離れていった。

 ミチコとの夜遊びも控え、私には一人の時間が増えた。そうして過ごしていると、いい加減私は、お父さんの元に一回訪れるべきなのだという、突き刺さるような切迫感だけが世界を覆った。

 そうしないと私は、どこにも行けないんじゃないだろうかと、ただただ不安だった。自分の過去に決着をつけないまま、いつまでも手のひらで転がし続けている今にうんざりしていた。


「りっちゃんってさ、舌が賢いよね」

「藪から棒にどうしたの」

 近場のイタリアンに呼び出され、ミチコは私に一つの提案をした。彼女の叔母がやっていたチーズコーディネーターの資格に挑戦してみないかというものだった。流石にながながと大学に入り浸っているだけあってか、ミチコはヨーロッパ言語の数多くを読み書きできた。その知識と専門家としての称号を手にすれば、チーズの専門店や輸入業者へのアドバイザーとしての仕事ができるのだという計画を。彼女は私に力説した。

 私はすぐにそれに乗った。今思えば就職活動から逃げたかっただけなのだろうけれど、そこから始めた努力が本物であったおかげで、在学中からいくつかの輸入業者と仕事をさせてもらえることになった。まあ、これはミチコが抱えていたコネのおかげなのだけれど。活動拠点も大塚で使っていた、ミチコの叔母の部屋をそのまま使わせてもらった。


 ミチコと離ればなれになるのならば感慨も湧いただろうけれど、これからも一緒ということならば大学の卒業もたいしたイベントにはならなかった。ミチコも同じタイミングで、ようやく卒業した。二十七歳だった。

 それなりに忙しく毎日を過ごし、繁忙期にはそれこそ事務所に彼女と泊まり込みで仕事をしていたら、あまりにもあっけなく一年が過ぎた。


 山手線でドア付近の手すりのポジションを手に入れる動きも、かなり洗練された頃、私は彼に再会した。


「堂本くん?」

 新宿の紀伊國屋を歩いていたら、文庫本を数冊持った彼とばったり、本棚の隅で向き合った。

「え? あ、久しぶり……」

 彼の持っていた一番上の本は、『ここは退屈迎えに来て』だった。


「へー、付き合うことになったんだ」

「うん。悪い人じゃないのは知ってるし、試してみるのも面白いかなって思ったの」

「なにを?」

「平凡な恋愛を」



 彼とはすぐに同棲を始め、線路脇の家賃が安かった2DKを借りた。お互い仕事があったから、四六時中一緒にいたわけではないけれど、むしろ、だからこそ短い時間を大切に過ごそうという気持ちが私達を包んだ。

 おじさんとおばさんと共に暮らしていたときから、もう五年が経過して、あらためて他人が家の中にいるというのは奇妙なものだなと、トイレ掃除や選択のたび、私は確認していった。その違和感が好きだった。

 彼になら、なんでも話して大丈夫だと思えた。そう、お父さんに言われた言葉を、そのままさらけ出して悲しめたのだって、彼の前が初めてだった。ミチコにだって、詳しく話したことはなかったのに。


 けれど、そんな幸せが長く続いたかといえば、答えはノーとしか言えない。

 きっかけは、遅ればせながら彼の親に挨拶に行ったことだった。彼には生まれつき父親がいない。妊娠中だった彼の母は、火遊びから帰ってこない夫に酷く苦しめられたのだと、他人事のように彼が語っているのを聞いたことがある。

「……えっと、モベヤマさん。その頭はどうしたの?」

 彼の母の目は、山手線で一瞥していく群衆と、同じ目をしていた。事情を話すとすぐ、その目は同情色に染まった。


 それからは、彼の態度が日々よそよそしくなっていくという別の奇妙さが、私達の暮らしを濡らした。家事の負担がやや増えて、パートナーの帰りは遅くなるばかりだった。

 付き合ってもうそろそろで三年で、私はこの倦怠を埋めるために、彼へのプレゼントを買った。給料の多くを割いた時計だった。


 けれど、記念日を目前にして、彼は私に別れを切り出した。

 訳を聞いた。

「母さんが、止めとけって言ってたんだ」

 は?


 言葉の端々から、彼の意思ではなく、彼の母親の意識が見え隠れしたのがいささか以上に不思議だった。初めて彼を理解できないと心から思った。そうかと、彼が心酔してやまないのは、私より母だったんだと落胆した。 

 それでも、私は彼との関係を断ち切りたくなくて、追いすがるように引き留めた。深夜まで続いた私達の対話は、結局根負けするように彼が停滞を選択した。


 私は安心していた。そしてそれが、いたく悔しかったのだ。


 どうして私が、こんなに彼にすがらなければならない?

 やってられなかった。



 冷静になっているのか、単に冷めているのか分からない頭を抱えていると、事務所でミチコはこう言った。

「私、今日遊び行ってくるから。りっちゃん鍵しめて帰ってね」

 なんでもない顔でそんなことを言う彼女が、きっと朝まで家に帰るつもりがないことが、私には分かってしまった。

「……私もついてっていい?」

 久しぶりに混ざりたかった。堂本くんのことなんて忘れてしまいたいと、深く考えもしていなかった。

「……いいよ」



 滅茶苦茶になった。

 外人とするのは初めてだったけれど、今までの男では届いていなかったところまで太く刺激されるというのは、あんなにも甘美なのかと今でも忘れられない。

 これ以上大きいと、痛くなってしまうギリギリのライン。私はミチコと名前も知らない外人に弄ばれて、初めての経験をいくつかした。



「やっぱり別れましょう。あなたのこと、大好きだから。だから、無理にこんな生活、続けることないと思う」


 翌朝、眠る前に私は言った。彼も一瞬戸惑った後、すべてを察して頷いた。




 最低限の荷物だけまとめて彼は去っていって、いつもと変わらない毎日が戻った。奇妙でも不思議でもない、たった一人の繰り返す生活。

 同棲が終わった報告と共に、おばさんに私は尋ねた。

「お父さんがいる病院、教えてくれませんか?」

 家族に向かって敬語を使っていたら彼に驚かれたっけなと、電話を切った後に苦笑した。三月は少しずつ、ライオンから子羊へと皮を変えていた。



 目黒から電車を乗り継いで一時間半、江ノ電の駅を降りてから少し歩いたところに、お父さんはいた。もう十年以上会っていない家族だった。

 それは「他人」と、どういう風に違った意味を持つのだろう。受付は簡単に済んで、病室まで職員が案内してくれた。

 少し身構えていたところがあったけれど、再会はあまりにもあっけなく訪れて、私の目の前を通り過ぎた。

 五体を黒いテープのようなもので固定された彼は、身動きもとれないまま目だけで私を捕捉した。口元から垂れていた涎を拭く気にはならなかった。

「お父さん、久しぶり」

 病状は聞いていた。もう復調も難しいだろうということも、言葉の上では知っていた。三月の鎌倉の風景が、鮮明に窓の外に広がっていた。突如として壁に出現した絵画のようだった。お父さん、絵が上手いんだね。なんてからかいたかったけれど、息が詰まってそれどころじゃなかった。

「……あなたが言ったこと、けっこう覚えているよ。今でも傷ついて、治らないんだ」

 叶うことなら、今すぐこの男の首を絞めてしまいたいのかもしれない。

 色々予想はしてきた。今までずっと逃げてきた父との面会は、自分がどんなふうに壊れてしまうのだろうかと怖かったのだ。


 私がすべてを知っていた小娘だったのなら、きっと狂うおしく父親を憎めた。彼の母親を憎めた。

 けれど、今の廃れた私では、なにも分からなくなってしまった私では、親たちがなに疎く、弱かったのかさえ、判別できなくなってしまった。全部自分のせいだと決めつけることの堕落は、私を少しずつ犯していった。

 だから私は、この男の前で怒り散らさなければならなかった。そうでないと、私はすべてを抱え、誰にも愛されることもないまま深く深く沈んでしまいそうだった。


 なんの憎まれ口もたたけないまま、沈黙と私はそこを去った。ここで吐き出すべきことはいくらでもあるはずなのに、こころの喉奥に手を突っ込んでも、結局出てくるのは呼吸だけだった。

 なにかに泣きわめいて、怒り散らすような衝動、もう私には残っていないのだ。

 子供の時間は終わった。未だ私はこんなに小さな背丈で、銀色の髪で、なにも変わっていないというのに、振る舞う仕草ばかり、こんなに無気力になっていくのだ。

「フク……ロウ……」

 病室を出るタイミングで、父親はぼやいた。私のことを目の中心に据えていた。


 死ねばいいのにと思った。




 目黒から家に帰る道のり、桜が乱舞し明朗は瞬いていた。空の色まで桃色に見えるような夕暮れだった。疲れているという感じはしなかったけれど、歩いている感覚が薄れているのも確かだった。

 壊れて朽ちて、けれどこの桜たちは満開の花々を散らせ踊る。あたりはアスファルトで埋め尽くされているくせに、当然のように風景の主役を奪う奇怪な季節。三月はライオンのようにやって来て、子羊のように去っていく。今はどの位置だ?

 ライオンはどこだ?


 昔、生首をおいておく木を「梟木」と呼んでいたそうだ。人の顔が、とまっているフクロウに見えたかららしい。

 私もまた、フクロウに見えているらしい。



 アパートに帰り、入り口のアルコーブから手を伸ばした瞬間、内側から扉が開いた。

 彼だった。

「あっ、ごめん。荷物を取りに来ただけなんだ……」

「……そっか」

 堂本くんの顔も見れないまま、私は彼とすれ違おうとした。大荷物を抱えていた彼と、狭いアルコーブで交差するには少しの苦労が必要だった。


 人とすれ違うときは、いつもこんな風に、間近で息吹だけを感じていく。


「そんなにたくさん、持っていけるの?」

「……車、来てるから」

「お母さんの?」

 馬鹿にするような声が出てしまった。きっと私、彼に図書館で会ったときのように、不格好に笑っている。

「……りつ、フクロウって猛禽類なんだよな。あんな可愛い見た目して、中身はなにかを喰おうとする獣なんだ……」

 彼も、両手を一杯にしながら笑った。似合わない、不格好な表情だった。

「親父さんの言うとおりだよ。お前、フクロウみたいなやつだ」


 慟哭が走って、私は彼を睨んだ。



 宵は刻一刻と迫ってきて、彼の足音は遠くへと去っていく。私は少しだけ息を吸って、部屋の扉を開いた。


 私はなにかを持て余している。春が来て、もう食い尽くされた生活に戻りながら、きっと私は少しだけ朽ちて、命を減らした。

 

 心を減らした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

梟木 武内颯人 @Koroeda

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ