第7話 愛の証


 リズの実家からの帰りの電車の中で、私は揺られながら、流れゆく景色を眺め、ぼんやりとリズのことを想った。


 リズはいつか、夢に出てくるガラスの王国について、その夜の凛とした響きが怖いと言っていた。自分の立てた足音一つが、世界の隅々まで響き渡って、自分の心までも包みこんでしまう。そんな夜が怖いと言っていた。今思えば、それはこの世界にぽつんと取り残された、孤独な者の抱く、罪の意識なのではないだろうか。自分は存在してはいけないのではないか。自分が傷ついたように、自分もまた、知らないところで誰かを傷つけてしまっているのではないか。そんな罪の意識が、あのガラスの王国に凛と響くのではないだろうか。


 リズはかつて「無垢な者に罪はない」と言った。けれど、今の私なら、それに次の言葉をつけ加える。「にもかかわらず、罪の意識に苦しむ者がいる」。無垢な存在としてこの世に生まれ落ちた命が責めに遭う。例えば、訳も分からず殴られる日々、飢えに苦しむ日々、物のように扱われる日々を、生まれながらにして味わう子どもがいる。私たちは自分が悪いのだと信じこむ。終いには、私たちは自分の存在が罪なのだと思いこむ。


 でもリズは、あの日、白いバラを前に、「無垢な者に罪はない」と言った。それ以上は何も言わなかった。それは彼の強さだった。私にはまだ、その強さが理解できない。私にとって背中の刺青はいわれのない罪の証そのものであり、今もまだ、その証が私の胸をきつく締めつけるのだ。


 ああ、リズ。あなたなら、私のこの刺青を見て、何て言うのかしら。私はまだ、刺青を打ち明けたあの日、彼の言葉を聞いていない。ただ彼は「綺麗だよ」と言ってくれただけだった。私はその続きが聞きたい。私と同じ、苦しい過去を経験しながら、前を向いて生きているリズ、あなたの言葉が聞きたいの。


 電車が静かに駅のホームに落ち着く。降りようと腰を上げたとき、スマホが鳴った。


「見せたいものがある。ぼくの家に来てくれないかな」


 それはリズからのメッセージだった。



 私ははやる気持ちが抑えきれず、駆け足でリズのアパートへと向かう。息が切れ、途中で何度も転びそうになるけど、今はそれどころではない。一分でも、一秒でも早く、リズに会いたい。会ってもう一度、きつく彼を抱き締めたい。抱き締めて、私を赦してほしい。突然いなくなったあなたのことを責めた日々を償いたい。そしてどうして、私の前から姿を消したのか教えて欲しい。ねえ、どうして、リズ。



 アパートの入口にリズが立っていた。心なしか、彼は体格がよくなって大人っぽくなっていた。彼は飄々として「よ」と手を挙げる。


「バカ!」


 私は大声でそう叫び、彼の胸に飛びこんだ。


「バカ! バカ! バカ!」


 そう連呼して彼の胸を何度も強く叩いた。


「どうして急にいなくなるのよ! 心配したじゃない!」


 人目も気にせず、大声で泣く私を彼は抱き留め、「寒いから、部屋に上がろう」と言った。



 部屋に上がってすぐに、私たちは抱き合った。離ればなれになって空いた心の穴を埋め合わせるように。お互いの存在を確かめ合うように。


 私は彼に精神病のことや実母のことを尋ねはしなかった。そのことはいつか、彼自身の口から話してくれるのを待とう。少しずつ、お互いにわかりあえばいい。


「急にいなくなったりして、ごめんね」


 向かい合い、リズが言う。


「帰ってきてくれてよかった」


 はにかんで視線を交わす。今の私たちに言葉は、あまり必要ではなかった。そばにいてくれることが大切なことだった。身近にお互いの存在を感じられることが、こんなにも幸せなことだとは。私はリズの澄んだ瞳を長いあいだ、見つめつづけた。


 二人でいられるこの瞬間を噛みしめながら、私はリズのいない数日の胸中を打ち明けた。


「私、てっきり、見捨てられちゃったのかと思った。背中に大きな刺青があるなんて、びっくりしちゃうよね」


 リズは少し考えたあと、言った。


「もちろん、はじめて見たときは、びっくりしたよ。でも、ハルがとても辛そうだったから。その刺青が、辛い過去と結びついているのがわかったから。なんとかしてあげたかった。その刺青をなくすことはできない。けれど、二人でなら、乗り越えられるんじゃないかな」


 そう言ってリズは上の服を脱いだ。裸になったリズの背には大きな麒麟の刺青が刻まれていた。その白い刺青は、私の龍に劣らず、荘厳な趣きで背中全体を覆っていた。私は咄嗟のことに言葉を失う。


「実は、みんなに内緒で、この数日間、これを彫ってもらっていたんだ」

「どうして……」

「ぼくはハルを愛しているから。大切な人だから。だからハルが過去に苦しむときは、ぼくも苦しいんだ。だから、なんとかしてあげたくて。過去は消せないけど、その意味なら、変えられるから」


 そう言ってリズは、私を見つめほほ笑んだ。その笑みはガラスのように脆く、澄んでいた。今にも消えてしまいそうな存在が狂おしく私の胸を締めつける。


「二人で過去を乗り越えよう」


 これまで私の背中に刻まれていた刺青は、父から受けた暴力の証だった。でもリズは、それを二人の愛の証へと変えてしまった。


「もう一度、よく見せて」


 私は彼の背中にある麒麟をそっと指でなぞる。脈打つ温かな背に、彼の命を感じる。その命は限りある儚いもののように思える。でも、この刺青は、それに反して、永遠に、姿をとどめる。彼が息を引き取ってもなお、この刺青は証として永遠に消えない。そこに愛があるということ。それは奇跡に等しかった。


 私はもう、一人ではない。私たちは前を向いて生きていける。それをこの刺青が証してくれる。そんな意味を与えてくれるリズの存在もまた、奇跡に等しかった。

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