第4話 消失

 リズの家は四階建てアパートの三階にあった。リズが鍵を開ける間も、私はこれから起こることに対する緊張で息が詰まりそうだった。「どうぞ」と通された部屋は紺を基調とした落ち着きのある部屋だった。散らかっておらず、あるべきところに物が収まっている印象を受ける。リズは普段、ここで暮らしているのか。私は周りを見渡して感心した。「あんまりじろじろ見ないでくれるかな」とリズは照れ笑いをする。



 ベッドの脇に家族写真が飾られていた。それはリズが高校生くらいの時に撮られたもののようで、リズを挟むようにして彼の父と母がほほ笑んで立っている。どちらもとても優しそうだ。


「これはどんな時に撮ったの?」

「美大への進学が決まったときだよ」


 よく見れば写真の中のリズは少しムスッとしている。でもそれが照れ隠しなのは一目瞭然だ。


「仲良さそうだね」

「まあね」とリズはコートをハンガーにかけながら言った。



 ベッドに腰かける私の隣にリズが座る。そこでなぜか沈黙が生まれる。


「もう落ち着いた?」とリズが尋ねる。


 リズは自分の家なのに少し緊張しているようだった。


 私はうなずいて目を伏せた。いよいよ、打ち明けなければならない。自分の胸の鼓動が高鳴っているのが聞こえる。


「あのね、リズ。あなたに見て欲しいものがあるの」


 私は意を決して自分から切り出した。リズは「さっきの話?」と気楽な様子だ。


 私は彼の前でボタンを一つずつ外し、上着を脱ぎ、下着姿になる。まだ彼と向かい合っているから彼には背中は見えていない。「え」とリズは戸惑っている。私は「外すね」と言って手で胸を隠したままブラジャーを外し、リズの前で裸になった。リズが唾を呑むのが分かる。背筋に掻いた嫌な汗が一滴、背骨の上を伝っていった。私は目を閉じて覚悟を決め、ゆっくりとリズに背を向けた。


 リズが息を呑む。空気が凍りつく。今、彼の目の前には大きな龍の刺青がある。私は何を話していいかわからず、黙ってリズの言葉を待った。でもリズの言葉はやって来なかった。私は振り向いて、涙目になりながらリズに言った。


「ごめんね、ずっと隠してた。あなたに嫌われたくなくて。ごめんなさい」


 私は動悸が激しくなり、ただ苦しかった。この重い沈黙に押し潰されて息が詰まりそうだった。リズはひたすら驚いていた。リズの方も何て言葉をかけていいかわからなかったのだろう。私はそのまま、顔を伏せて泣いてしまった。崩れ落ちる私をリズが胸で受け止める。それから彼は私の髪を優しく撫でてくれた。


「何て言っていいか困るけど」と彼は言った。

「純粋に綺麗だよ、その刺青」


 私はリズの胸に顔を押しつけたまま、肩を震わせて泣いた。


「どうして彫ろうと思ったの?」とリズが尋ねてくる。


 私は泣きじゃくりながら、「お父さんが、私の体に刻んだの」と答えた。それはずっと心の奥に封印してあった言葉だった。私はすべてが解き放たれたかのように、そのまま言葉を続けた。


「お父さんが、恐いお父さんが、私の背中に刺青を彫るって。私は毎日殴られてたから、ただ恐かったから。どうしていいかわからなかった。辛い、苦しい。どこへ行けばいいのかもわからなかった。逃げることもできなかった。私はどうしたらいいの、ねえ、どうしたら」


 私は当たり散らすように泣き喚いた。リズは必至で私の頭を優しく叩いてなだめてくれる。それから私は時間を忘れて泣き続けた。こんなにも泣いたのは生まれ初めてだった。今までは泣きたくても感情を解放できなかった。ずっと重いしこりが頭にもたげていた。そのしこりが感情を鈍くするのだった。でも今は、そのすべてを解放してリズの胸に打ち明けられる。私は感情の赴くままに泣き続けた。



 どうやら私は、そのまま眠ってしまったみたいだった。気がつけば私はベッドの中にいた。目をこすり体を起こすと、そこはまだリズの部屋だった。


「リズ?」


 呼びかけても返事はない。朝の日差しがカーテンの隙間から漏れ、一条の光が空間を貫く。鳥のさえずりだけが虚しく響く。私はもう一度、リズの名を呼んだ。でも、この部屋にはもう人のいる気配がない。きっとリズは、何かの用事で出かけてしまったのだろう。私はベッドから出て、服を着て外に出た。


 日曜のよく晴れた朝は、今の私には不釣り合いなほど陽気だった。私はめいっぱい鼻から空気を吸って吐き、伸びをした。自転車にまたがり、花屋まで漕いでゆく。


 リズにあんなことを打ち明けた翌日だから、私はもっと気分が沈むだろうと思っていた。でも意に反して、私は清々しい気持ちに包まれていた。そして今では、きっとリズは私のことを見放さないんじゃないか、という確信が芽生えつつあった。リズは私の刺青ごと、私を愛してくれる。この重い過去の痕も受け容れてくれる。こんなことで見放すリズではない。むしろ信頼しきれていなかったのは自分の方ではないか。そんな思いが私の胸をさらさらと流れてゆくのだった。



 しかしリズはそれ以来、私の前に二度と姿を現すことがなかった。私はまたいつものように花屋を訪ねてくるリズの影をずっと待った。でも彼は二度と花屋を訪れることはなかった。リズは文字通り、あの日、私が背中の刺青を打ち明けて以来、消えてしまった。いくらスマホで連絡を取っても繋がらない。これまでの存在が嘘であるかのように、彼は姿を消してしまった。

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